見出し画像

戦史 4    久保正彰


戦史 4  久保正彰

史家は巻頭の文章において、開戦と同時に筆をとって「戦史」の著述にかかったことを述べており、また五巻二六章では戦時をつうじて正確な情報をつかもうと努力してきた、と言っている。すると戦争の前夜史である一巻は何時どのようにして著されたのか。また、開戦と同時にメモを書きはじめたとしても、事件の記述のなかには随所に、事件より遙か後年になってから判明した事情が書き加えられている。さらに不可解な点は、史家はなぜ、五巻二六章にいわゆる第二の序文を附して、ニーキアースの和約は表面珀な平和で、裏面では戦争が継続していたことを強調し、最初の十年間の戦闘と、休戦後からアテーナイの降伏にいたるまでの全戦争を一つの事件と見做すべきことを、あらためて記しているのか。何時かれはこのような見解に達したのであろ  うか。また、シケリア遠征を扱っている六、七巻にくらべて、「戦史」前半とのつなぎ目にあたる五巻が比較的に粗な仕上げに終っているのはなぜか。

このような作品の構成から生れてくる大小数々の疑問を解くためには、二つの基本的な仮説が必要となる。第一の仮説は、トゥーキュディデースが「開戦と同時に記しはじめた」という手記ないしはメモは、戦争中あるいは戦後に再編輯され、史家の手で今日伝わる形にまとめられつつあったが、かれが急逝したため後半、何人かの手を経て公けにされたにちがいない、ということ。この基本的な仮説は「戦史」の文面構成から充分に証明できるものであり、疑いの余地ないところであるが、史家が何時、また何回にわたって、どの部分をどの順序で補正修筆して、今日の形態をとどめるに至ったか、という問題になると、百余年前ウルリッヒがこれを問うていらい、百説紛々として容易に説きあかすことができない。ひっききつ、言わずとも明白なように、「戦史」は未完の傑作であるゆえに、作者の最終的な全体の調整がおこなわれなかった。という以上には何ら確かな答がえられないのである。

第一の仮説から派生した諸問題は、かつて諸学者がホメーロスの叙事詩の成立について問い、かつ答えようとした態度と相通ずる盲点から生れている。すなわち、ホメーロスがどのような作詩技巧をふまえ、どのような制限を課せられ、どのような己れの才覚や記億力をよりどころとして、「イーリアス」、「オデュセイア」の叙事詩を唱いあげたのか、という創作の条件を度外視して、考古学、文献学、方言学のメスを縦横にふるって作品を複雑無意味な「層」に切りわけて叙事詩作品の成立を論じようとしたのである。トゥーキュディデースの「戦史」はもとよりホメーロスの如き口誦詩ではなく、記述の条件を全くべつにしているので同日に論ずることはできない。

画像2

しかしその記述が最終段階ちかくになるまでに、どのような制作の条件と制限、ないしは慣習下になされたか、という問いが何らの解決を得ないままに、文面から補筆修正や編輯の層ばかりを積みたてていく研究態度そのものに、かつてのホメーロス研究と相通ずる盲点をひめているのではないか。トゥーキュディデースが今日のごときカードや原稿紙を用いなかったことはいうまでもない。用いられたと考えられるのは古代人がメモ用に使った蝋引き板であろうが、多事多端な二十七年間の記録を書き蓄えたとすれば、その量たるや蜿蜒長蛇の列をなしたにちがいない。

それともかれはパピルスを用いたのであろうか。かれの「メモ」の状態は、あるいはヒッポクラテースの診断メモ(エピデーミアイ)のごときものであったかも知れない。事実のみを季節の順を迫って記し、文章というよりも、数字と略号をちりばめた簡単なものであったにちがいない。いずれにせよ、史家がそのようなものをもとに、連続した文章体に書きあげた過程について、われわれがさまざまの編輯説を組立ててみても、ひっきょうきわめて曖昧な制作条件を想定し、さらにその上に不完全な仮説を組立てるに等しい。

しかしながら、立場を少しかえて問題を観察ずることも不可能ではない。第二の仮説は文体分析から出発する。われわれの知る限りのギリシアの作者たちは、ピンダロスにせよエウリーピデースにせよプラトーンにせよ、二十余年にわたってものを書きあらわしていると、新旧の作品の中に明らかに文体の違いを生じてくる、またすぐれた思想家であれば必然的に思想の変化ないしは深化をともなう。もしトゥーキュディデースが五巻二四章までは四二〇年頃にほぼ完成しており、三九九年に後半の「戦史」をなお執筆中であったとすれば、その間に文体や史観の相違がうかがわれてよい筈である。ところが、「戦史」は終始一践、緊迫した力のこもった独特の文体で綴られている。

史家がこの大戦争とその立役者たるスパルタ、アテーナイの果した役割りについて示す態度や評価にも乱れはない。この文体と思想のつよい一貫性を認める立場によれば、第一の仮説を根本的に否定するものではなく、メモ作成の期間は二十七年間にわたったであろうが、最終的な編輯は戦争終結後、史家がアテーナイに戻ってからきわめて短期間に、集中的な努力をもって一気呵成になしとげられたのにちがいないということになる。第二の序文が今ある位置におかれているのは、トゥーキュディデースがこれをもって二つの別個の史述を一つにつなぐ口実にしようとしたためではない。かれは記述の方法として何もかも巻頭の序言にまとめる形をとらず、第二の序言が歴史事件の進行過程中もっとも適当と思われる時点に、これを記したためである、と説明する。じじつこれに類した記述の配置は「戦史」中、他にもいくつか知られている。

画像3

しかしながら、この統一的な見方をもってしては仲々説明しがたい記述が幾か所か見られる、ことに「戦史」の前半にそのような難点がおおく指摘される。戦後スパルタが全ギリシアに覇権をうちたてた後に史家が執筆していたならば、スパルタの実力評価が一巻一〇章における記述とは違っている筈だとか、同じく二巻初頭における戦争が常時継続したという記事は改められていたはずだとか、疫病や内乱の及ぼした被害の評価も、シケリア遠征やアテーナイの内戦後であれば、文面の記事どおりでありえたはずはない、といった種類の、細部の矛盾や齟齬について充分な説明をあたえることはむつかしい。また五巻の構成、ことに五巻におけるアルゴスの問題についての説明はむつかしい。

「戦史」成立の問題と、これに満足な解答をあたえようとする諸仮説は、結局、史家トゥーキュディデースがどのような歴史家であったのか、いかなる構想のもとに「戦史」をメモし、執筆したのであるか、というわれわれ自身の判断にかかっているところが大きい。もしかれが、ただ一人の冷静な歴史記述者であり、書斎の窓から世界の動勢を捕えていた人間だとすれば、あくまでも記録資料作成者としての忠実さによって、かれの業績は評価されるべきであり、したがってかれが何らかの主観的構想のもとに記述をおこなったならば、記録の公正を欠く態度として減点されこそすれ、業績上のプラスとはなるまい。

アリストテレースの歴史評はひっきょう、そのような忠実な記録者としての歴史家しか認めておらず、故に歴史記述とは何の論理的な操作もふくまず、ただ年代順に事件を記していくものである。という驚くべき定義にたっしているのである。じじつまた、トゥーキュディデースのメモも、そのまま文章になおせば、春夏秋冬の年代記となんら変るところはなかったかも知れない。トゥーキュディデースの記述上の矛盾や齟齬や脱落をするどく追及して、不統一を論証する立場は、多かれすくなかれ、実証的な年代記記述者としてのトゥーキュディデースを想定するのである。かれの記述がきわめて厳正であり科学的一貫性をもっているために、ついかれを十九世紀か二十欧紀の史家のごとく扱っても気がつかないのである。

画像4

しかしながら、「戦史」としてまとめ上げられたものは、けっして単なる年代録ではない。また「戦史」のなかに随所に挿入されている政治家の演説は、現代の実証史家が考える記録作成の概念からははなはだしく異なる歴史記述の方法である。もとよりトゥーキュディデースは事実を忠実に記述するためには、あたう限りの努力を惜しまない。そしてその記事の正確さは近世にいたって碑文学や考古学の資料が整理されてくるに従って、ますます明らかにされてきている。ちなみに古代ギリシアの史家中で、条約碑文を歴史著述の資料として用いているのはトゥーキュディデースだけである。しかしまた同時に、正確な記録をのこしながら、かれは自分の考えによって、資料の取捨選択をおこなっていることも明らかになってきた。すべての事件を総花式に書かず、かれは自分の構想をささえるに必要と判断したものを書きとどめているのである。

だがトゥーキュディデースが今日われわれのつよい関心をひくのは、かれが今は影も形もない二千数百年昔のギリシアの小都市間のまだるこしい戦争を、正確無比の筆致で記しているからだけではない。かれが出来事の記述にあくまでも正確を期そう、と最初から願い努力を惜しまなかった動機に触れるとき、われわれは史家の眼に魅せられるのである。かれは、戦争という、好ましがらざる入間の行為は何を前提としているのか、さらに戦を余儀なくさせる人間の文明とは何を前提としているのか、何を基に、何を目的に生じうるのか、どのよう違った条件のもとに異なる形態をとりうるのか、と自らに問うている。

つまり、人間の社会、人間の歴史をうごかしていく力はなにか、その力と力との争いはどのような形をとり、経過をたどりうるのか、という大きな問いをひめて現実の事件の推移を見つめようとする。このような鋭い問題意識は史家の生い立ちに負うところか、時代の風潮に仰ぐところか、あるいは、記述者ではなく行動の政治家として身を立てんと望んだ若きトゥーキュディデースの、実行への身構えであったのか、恐らくはそれら全ての焦点が結ぶところに生れいでた構想であったにちがいない。

そして、人間の文明はさまざまの物質的形態を装いうつろっていくであろうが、人間がその主体であるかぎり、そして人間が与えられた刺戟や条件のもとに、ある程度予測可能の反応を示すものであるかぎり、社会や歴史をすすめていく原理的な力関係はかわらない、という見地に達するのである。これは、一見現代のおおかたの歴史観とは本質的にあいいれない考え方のように見えることはいうまでもない。しかしトゥーキュディデースはこの見地に立ったとき、あくまでも正確な歴史事件の記述こそ、何よりも望ましいと考える。条件と反射との正確な記述なくしては、人間を動かしていく原理をきわめることができないからである。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?