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長崎市長への七三〇〇通の手紙 1   原田奈翁雄

「天皇の戦争責任はあると思います」
 1088年12月7日、長崎市議会における本島等長崎市長の発言が報じられた途端に、それは思いも及ばぬ大きな波紋を呼び起こしました。「暴言を撤回せよ、さもなくば一命をかけて大誅を下す」という憤激の電報が、すでにその夜半、市長にあてて発信されました。明けて8日には、電話、電報による抗議が次々にとどき始めます。

 またこの8日、市議会運営委員会で、自民、民社などが発言の取り消しを求める決議案、次いで要請文を市長に提出します。
 9日には、長崎市選出の自民党県議団が、発言の撤回を求め、市長はこれに対して、「撤回は私の(政治的生命の)死を意味する」旨を答えて拒否。市役所に、ガソリンを持った男が押しかけます。
 長崎市民有志の、市長発言を支持する声明、右翼の街頭宣伝車の市内集結と抗議などがマスコミを通して伝えられるにつれて、波紋はいよいよ全国に広がり、市長のもとに、ハガキ、封書が殺到します。海外の紙誌もこの問題を取り上げ、国際的反響を呼び始めます。

 年を越え、天皇の逝去後にもそれはつづき、市長に寄せられた書信は、中国、アメリカ、イギリス、オランダその他からのものも含めて、二月末現在、その数は実に七、三〇〇通を越えています。
 かつてこれだけの短時日のうちに、これだけの数の書簡が、ひとりの人物に宛てて寄せられたことが、果たしてあったでしょうか。
 私ども径書房は、そのすべてに目を通させていただきました。

 ごく一部の勇壮活発な抗議状、また脅迫を除いて、すべてのお便りはきわめて真摯なものです。市長発言に対して批判、抗議するものも、その多くは深い礼節謙譲のことばをもって書かれ、支持、激励するものも、書き手ひとりひとりのこれまで歩んでこられた道、いわば人生そのものをふまえて、あふれるばかりの真情をたたえています。

 天皇、そして四十余年前に終わった戦争。二つのことがら、二つのことばが、どれほど深くそして永く、国民の胸の奥底にわだかまり、しこっているかを、文面の一文字一文字が、痛いほどにあらわにしています。
 だれもがそのことを考えつづけた。だが表立ってことばにする機会もないし、ことばにすることを怖れてもいた。いや、口にし、文字にするには、余りにも重く、余りにも深いことがらであったと言うべきなのでしょうか。
 それが、はからずも本島市長の発言をきっかけとして、さまざまな年齢、あらゆる立場の人びとの心の奥底から、いっきょに噴き上げてきた。
 
 だれも決して予期することのなかったこの事実は、本島発言をどう評価するか、またそれへの賛否は別として、私たち同時代に生きる日本人について、また対して、実に重大なことを示唆していると思わぬわけにはいきません。
 天皇、そして戦争責任。この二語を結ぶところに、昭和史の究極の焦点がある。そして天皇ないし戦争責任を問うことは、とりも直さず私たち自身を問うことなのだ……。
 手紙の山を前にして、私たちはさらに思いつづけます。

 これは歴史家が、まして後世の歴史家が振り起こし、評価し、記述した歴史ではない。まさに昭和という時代を生き、時代を作り、時代によって作られてきた、時代の担い手自身が、誰に頼まれたのでもなく、みずから進んでなした「証言昭和史」そのものなのだと。

 ここには、いまにしてなお、幾多の血がしたたり、涙がにじみ、別離と悔恨の痛みがうずいています。死者たち──ひとりひとり固有の名があり、顔がある、身近な子、親、きょうだい、夫、恋人、仲間たち、戦友からを初め、二千万、三千万という無惨な数字をもってしか言い表せぬ、あの戦争によってなくなったすべての国々のすべての人びとが、立ち現れます。いまを生きる人びとのしたためた文字の背後から。

 彼らは顔蒼ざめ、五体は血ぬられ、飢えと渇きにあがきもだえ、あるいは波にあらがいつつ、大海に呑み込まれていきます。各地に空襲を受けて逃げまどい、中国「満洲」の野をさまよう子どもたち、そして沖縄の子どもたちの同じような姿が重なります。対馬丸の船上に、摩文仁の丘に。
 もちろん一方で、痛切な過去を背負って今日を、さらに明日を開こうとする決意や希望の輝きを見ることもできます。人間について、いのちについて、あるいは神について考え、祈るそれぞれの姿もあります。
 これを市長おひとりの手もとに置いていたずらに眠らせるには、余りにも貴重なものだと思わずにはいられません。本島市長もまた私どもと深く思いを同じくしておられました。

 私たちはすべてのお便りに何人もが目を通し、繰り返し読ませていただき、七、三OO余通の中から三〇〇通ほどのものをとり上げました。住所氏名の明記された発信者には趣旨を申し上げて公表のお許しをいただき、ここに一冊の本として刊行できる運びになりました。

 私たち日本人自身の過去をかみしめ、私たちの時代を、よりよい未来を望んで次代に引き継ぐ証しとして、祈りとして──多分、あの戦争を担ってきた世代にとっては、思いのすべてを傾けた 「遺言集」ともいうべき本書を、広く次代のすべての人びとの前に捧げることができることを、何ものにも替えがたい深い喜びとするものです。
  
編集に際して
*本書に収録させていただくために、住所氏名か明記されている発信者に対しては許諾を求めてご諒承をいただいた。
*匿名を希望される方の場合は、「匿名」と表示した。また若干名の方は、ペンネームを使用された。
*差出人の氏名、住所等の記述のないものについては、ご本人に迷惑の及ばぬよう、プライバシーを侵さぬよう、編集上の配慮をした。
*掲載するにあたって、文章の一部を省略させていただいた場介がある。またお便りの一部を掲載させていただく場介は、本来のお気持ち、お考えを曲げぬよう留意した。
*旧かなはすべて新かなに統一させていただいた。
*各文章につけたタイトルは編集部による。
     
*本島市長の手もとに、八八年十二月八日から八九年三月六日までにとどいた書信数は左の通り。
  封書   1159通
  ハガキ  4495通
  電報   1052通
  電子郵便   217通
  計     7323通
*右の内容による内訳は、
 支持、激励するもの六九四二通(うち、最終的に集録したもの一九〇通。ただし在日外国人、海外からのもの、及び図版は除く)
 批判、抗議するもの三八一通(うち、同じく本書収録。二五通。ただし図版は除く)
 本書に掲載したものは、八九年二月-九日に、市長の手もとから編集部に届いたものまでで、それ以降のものは、時間的制約から、収録の対象から外した。
 また原則として、発信者が団体の場合は、収録の対象外とした。
 
 編集を終えて

 長崎市長の手もとから、手紙の山が、最初に径書房にとどいたのは、二月の十五日でした。まず大きなダンボールに三函。私たちは、封書の中身のすべてをコピーすることから作業を始めました。数日おいてまた二函、以降、何日ずつかの間を置いて、書留小包がとどきます。二月末日までに手にした手紙、ハガキ、電報等は、実に七、三〇〇通を越えました。

 コピーを終えた手紙、ハガキ等はすべて通し番号と発信人の住所氏名を書いた紙片を張り込み、さあ、全員で読みに入ります。
 径書房の社員は出倉純、渡辺豊と私の三名。こんな大作業か短時日の間に行なうことなど、総力を挙げてもできるものではないのです。

 手と時間、そして夜業のための全員の夕食までもそれぞれに持ち寄ってくださって、二月十五日以来ほとんど連日連夜、常に十名前後の方々が手狭な径書房に詰めてくださっているのです。「編集を終えて」と一応タイトルを書きましたが、仕事はまだまだ大忙しのまっ最中、収録のお許しを願った返信と校正刷りとの照合、校正刷りへのさまざまな書き入れ、デザイナー、印刷工場との連絡等に、全員が集中し、また飛び回っています。

 手助け──などというものではない、お忙しい仕事を終えて、時々に顔を出してくださる方々も含めれば、三十名にも及ぶ人びとが、だれのものでもない、自分自身の仕事として、この本の刊行のために大きな力をそそいでくださっているのです。だからこそ、このわずかな時問に、おどろくべき量の仕事をこなしてくることができたのです。

 なぜこんなことが、社員三名の出版社でおこっているのか。
 実はすでに昨年末、日ごろから近しい読者の皆さんと忘年会を持った折に、長崎市長発言と、それをめぐっての反響のことは、私たちの間で大きな話題になっていたのです。私たちも何とかしたい、何かできるだろうかと。
 年が明けてすぐ、径書房は本島市長さんから出版の打診をいただいて、もちろん即座にお引受けをしていました。四、五十名ほど、小さな編集室で新年会を開いた時に、その経緯の報告をしたところ、集まった皆さんは大きな拍手と喚声をもって応えたのです。私たち社員だけではとても手に負えることではない、ぜひ皆さんのお力添えをいただかねばという私の要請に、その後、すべての皆さんがそれぞれに応えてくださいました。

 手紙はまだとどかないか、まだなのか、翌日から連日の問い合わせがつづき、皆さんは手ぐすねをひいて、具体的な仕事の始まる日を待っていてくださったのでした。
 待ちに待った手紙の山が到達してから今日まで、間もなく一か月になりますが、手紙を全員で回し読みし、採否の別を粗えりし、さらに最終決定のための読み直し、原稿作製へと進め、第一回目の校正を終え、初校を印刷所に戻すところまで、今日ようやくこぎつけることができたのです。
 まだいささかも気をゆるめることは許されませんが、ともかく第一の大きな山場を越えたということになりましょうか。
 
  連日連夜、大変なお力を出しつづけてくださった読者の皆さま、とりわけ小泉邦恵さん、抻納正春、智子、しげみさん、そしてるす番のお子さんたらを含めてのご一家、渡辺容子、卯月文さん、長谷川一成、孝子さんご夫妻、山崎啓子、稲儁寿美了、吉田美代子、安宅温、荒垣栄、山口徹、松本永、志村律子、出倉史、龍野忠久の皆さん、そしてこの仕事のために自費で長崎までご同行くださり、写真撮影をもすすんでお引受けくださった荒井利男さん、奥様のとも子さん、本文デザインについていろいろご助力くださった杉浦康平事務所の赤崎正一さん、版下製作の原正夫さん、きびしいことばと深い友情で終始励ましつづけてくださった出版、書店界のベテラン小川芳宏さん、お名前を挙げきれぬたくさんの皆さま、心からありがとうございました。

 たった三人の社で、よくもこんな大仕事にくらいつく気になったものだねと、だれかがふとつぶやいて、思わずみんなの大笑いになってしまいました。緊張と疲労の重なりの中で、神納智子さんが、夕食のために、毎朝リュックサックに詰めて運んでくださるおにぎりをパクつきながらの、ほっと楽しいひとときの間のことでした。

 申すまでもなく、この間、本島市長さんはもとより、本島等後援会の皆さまには、ひとかたならぬご好意とご援助をいただきました。特に後援会の皆さまには、市長の身辺を深く気づかわれるだけに、本書の刊行についても細心の配慮をもって臨まれ、何かとご心労をおかけいたしました。
 また、地元にあっていろいろとむつかしい問題の消化にご尽力くださった槌田禎子さんには、感謝のことばもないほどです。

 最後になりますが、私どものたってのお願いを受けて、本島市長個人に宛てられた書信の公開をお許しくださり、私どもの手にお委ねくださった発信者の方々、また住所ないしは氏名の記述がないために、止むなく無断でご紹介させていただいた皆さに、何よりも心からなる感謝を捧げ、お許しを乞いたく思います。言論、出版の自由は、民主主義の絶対の条件です。自由は、その社会の成員ひとりひとりの自覚的、積極的な努力なしに存在するものではありません。本島市長の発言の持つ意味の深さにひびき合う皆さまのご発言を、こうして共有の財産とできる意義は絶大だと信じます。

 さて、本書の印税の受取人はどなたになるべきでありましょうか。まずは御住所御氏名が明らかで、掲載をお許しくださった皆さま、あるいは本島市長さんでありましょうか。発信者の方々には、本書を一冊ずつ送呈することで、ご印税に替えさせていただき、印税残額は原爆の被害を受けられたすべての人びとのために使用されるよう、長崎市のしかるべき公的な機関に寄託させていただきます。
 何卒そのことを、関係者の皆さま方、ご諒承くださるよう、お願い申し上げます。
  一九八九年三月十一日
                          径書房
 
   右のような編集後記を書き終えて、全文をファックスで市長さんに送りました。市長、後援会の皆さんにお目通しをいただいてご意見をうかがい、問題があれば加筆訂正などをせねばなりません。事務所のあるビルの門限は八時、既に九時近く、私は公衆電話から市長公舎にダイヤルしました。
 電話口の市長は、こちらが名乗るのを待ちかまえていたように、開口一番、「この本の刊行を延期してください」と言われたのです。ええっと、耳を疑いました。まさか……。いったいなぜ! まさに晴天の霹靂、坦々と開かれた野っぱらで、突如落雷の直撃に会ったのです。何とか気を静めて、市長の言われることを正確におききしなければならない……。受話器を耳に強く押しつける掌には、汗がじっとりにじみます。胸の鼓動が止まるほどのいま、何を私か答えることができましよう。とにかく明日改めてお電話するとだけ辛うじてお伝えして、受話器を置きました。



 

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