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第9回「本を売る」ことに魅せられて

 1987年(昭和62年)9月16日、この日は紀伊國屋書店渋谷店の第一課の会議がありました。議題は①昭和62年上期の売上結果及び反省②昭和62年下期の売上目標及び対策③今後の催事予定と対策④その他
深ちゃんマンから事前に資料が配られて、そこには「資料をよく見ておく事。時間が少ないので良く考えをまとめ進行に協力願う」と書かれていました。
62年上期(3月〜8月)は、自然科学が前年比108.3% 社会・人文科学が108.8% 雑誌が108.3% 実用書が108.5%で、第一課の合計は、前年比108.8%で推移していました。下期の目標は、前年比109.3%を掲げていました。改装からもうすぐ2年となりますが、2桁アップに近い大きな目標でした。僕は、この会議資料に「11/1〜アナール」と書き込んでいました。なぜなら、この頃は10月末で、「就職・資格」コーナーを平台2台から1台に縮小して、そこを催事で使っていたのです。そこに企画したフェアを入れることもできるので、企画・選書の腕が試される時なのです。

というように世間では就職活動が終わろうしているのですが、僕は、何もせず大学と仕事に熱中していました。
そんな折、山上課長から紹介された出版社に面談に行くことになりました。
都内にある出版社へ行き、応接室に通されると上座に、どかっと腹をだすように座っているご老人がいました。横には、よく山上課長と、お茶を飲みに行っている営業の方が座っていて、座るようにうながされました。
腹がでたご老人は、この出版社の社長さんでした。社長さんは「うちのような会社でも、新聞に求人広告を出せば、100人以上応募がある」と、やけに恩着せがましく「雇ってやるよ」と言う態度でした。
僕は考えました。せっかくの山上課長の紹介だけど、この社長さんを信じられるか?!否、無理だと思い、後日、辞退しました。
「俺が、せっかく紹介してやったのに」と山上課長は、その後も、ブツブツ言ってました。

秋も深まり、就職コーナーを縮小して、僕は「中世史」のフェアを企画して実施しました。「アナール」だけだと、あまり本がないので、ヨーロッパ、日本も含めたフェアを展開したのです。網野善彦、阿部謹也の他に塩野七生なども入れたところ、フェアは好評でした。
塩野七生はシリーズ三部作の『コンスタンティノープルの陥落(新潮社1983年刊、新潮文庫2009年刊)『ロードス島攻防記』(新潮社1985年刊、新潮文庫2009年刊)『レパントの海戦』(新潮社1987年刊、新潮文庫2009年刊)の他にサントリー学芸賞を受賞した『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』(中央公論社1980年刊、新潮文庫2009年刊)が売れました。


また想定外というか、棚では、それほど売れていなかった網野善彦+阿部謹也『[対談]中世の再発見』(平凡社1982年刊、平凡社ライブラリー1994年刊)が、この中世史フェアでは売れました。


この本は、普段は網野善彦の著作『無縁・公界・楽』(平凡社)や『異形の王権』(平凡社)の隣にさしていました。でも内容は、日本中世史と阿部謹也の西欧の中世史の話であり、まさに、このフェアが商品の力を120%発揮する場だったのです。二人の初対談は、一九七七年ですが、本書の大半は、一九八一年の対談が収録されています。当時、網野善彦は54歳で神奈川大学短期大学部教授。阿部謹也は46歳で一橋大学社会教養学部教授でした。
11/1〜はじまった中世史フェアは、好評で会期を延長することとなりました。この時の「売れた」「売れてない」の基準は、店の日坪売上を超えているか否かでした。当時、紀伊國屋書店渋谷店の日坪売上は2万円でした。フェアの売場は、0.5坪ですので、1万円超ならば合格のところ、フェアの平均日商は、1万3千円でした。

そんな1987年11月頃、法律書の補充をしていた時でした。よく売れている『なぜ「有限会社」が有利なのか―そのメリットとつくり方』を発行している明日香出版社の営業の方が来て、「実は今、うちは人手不足で、新たに営業を増員しようと考えいます」と言うのです。「こんど課長を連れてくるので、会ってもらえませんか」と言う。「やる気茶屋」のように「はい。よろこんで」と応えると、1週間後に明日香出版社の深水清さんが、いらっしゃいました。深水さんは「今度、時間がある時に会社に遊びにおいで」と言うのです。「はい。よろこんで」と応え、次の休みの土曜日に明日香出版社へ行くこととなりました。飯田橋駅から少し歩いた目黒通り沿いにある光風ビルの1階。玄関をあけて、「お邪魔します」と言って中に入ると、奥の方で「こっちや!こっちにおいでや!」と関西なまりで、見た目は、なべおさみ のような髪型のおじさんが呼んでいたのです。すると大きな会議テーブルがあり、ホワイトボードには、本の書名が書かれていました。「今、新刊のタイトル会議をやってるところや。良かったら会議に出席してや」と、なべおさみ さんが言うので、僕は席につき、タイトル会議に参加しました。意見を聞かれると「ちょっと長過ぎませんか」とか「ここは体言止めにしたほうがインパクトがあるのでは」などテキトーなことを言いました。休憩時間になると、僕が持参した履歴書を、座ってる全員で回し読みし始めて、「この字、精一杯きれいに書こうとしたでしょ」と聞かれて、「図星です」と応えると、みんな笑い、和やかな雰囲気の中、会議は再開され、会議の終了時間を迎えると「このあと、みんなでメシ食いに行くけど、ええか?」と聞かれて、「はい」と応えると、そのまま2軒3軒と梯子酒。なべおさみ さんは、石野誠一が本名で、明日香出版社の社長でした。社長の行きつけの店「桜井」で、社長は僕の盃に徳利で酒を注ぎながら言いました。「草彅さん、挫折したことありますか?」僕はステンレス製の鍋を売り歩いていた頃を思い出し「あります」と応えました。すると「よかった」と社長は言うのです。どう言う意味なのか疑問に思っていたら「うち(明日香)に入ってから挫折を知って欲しくないんや」と言ってました。その瞬間、僕は、この人のことを信じられる。この会社で働きたいと思ったのです。
後日、また明日香出版社の方が、紀伊國屋書店渋谷店に、いらっしゃいました。ベレー帽をかぶり名刺には、「取締役営業部長 内田眞吾」と書かれていました。後にベレ出版を創業する内田さんです。
「あんなぁ。給料のこと何も説明しとらんかったから、もう一度会社まで来てくれへんか?」と聞かれて「はい」と応え、今度は平日の夕方に、お邪魔すると、内田さんは会議テーブルの上にあったメモ紙を一枚とって、数字を書きはじめたのです。そして「これが、去年入った◯◯君の給料やねん。こんで、ええか?」と言われ、まさかメモ紙で渡されるとは思っていませんでしたが、金額も一般的な大卒初任給よりも少し高かったので、「はい」と応えました。
と言うことで、僕は来年から明日香出版社で働くこととなりました。
後年、明日香出版社の著しい成長を見て、山上課長は、「おまえの選択は正しかったよ」と認めてくれました。

就職も決まり、あとは「卒論」だけです。僕は、大学の図書館に毎日通い、貸し出し不可の資料を書き写していました。中でも『群書類従』は禁帯出。源氏と平泉の関係を知るため『陸奥話記』(前九年の役)や『奥州後三年記』(後三年の役)を読みたかったのです。2014年にWEB版『群書類従』が八木書店から発売されています。でも150万円するんですね。欲しいけど買えません。誰かプレゼントしてください。


さて、いろいろな棚を担当しましたが、もっともっと経験を積みたかった。とりわけ、人文書には、格別なる思いがあります。歴史書しか担当していませんが、ほかの人文書も担当したかったなぁ。心理では、ヴィクトール・フランクル『夜と霧』(みすず書房1961年刊)や神谷美恵子の『生きがいについて』(みすず書房1966年)などがロングセラーになっていました。



その他、土居健郎の『「甘え」の構造』(弘文堂1971年刊)、ダン・カイリーの『ピーターパンシンドローム』(祥伝社1984年刊)と、その姉妹編『ウェンディジレンマ』(祥伝社1984年刊)は、定番商品でした。

僕は、中学の頃は、「日本史」だけでなく、「世界史」の歴史教科書づくりにも挑戦していました。余りにも広範囲すぎて、ローマ帝国あたりで挫折したのですが、古代国家のはじまり、アテネなどの歴史は好きで、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、アレクサンドロス大王あたりは、百科事典では、物足りず、哲学書を読んでいました。だから哲学・思想の棚も好きでした。人文書には、あと宗教書もありましたが、この頃、一番売れていた本は、『超能力「秘密の開発法」―すべてが思いのままになる!』(大和出版1986年刊)著者が空中浮揚している写真が表紙の本。なんと麻原彰晃の著作でした。なんで、こんな宗教書を書店は、売ってしまうのかなぁ。

ひさしぶりに「政治・社会」の話です。1985年に田中角栄が脳梗塞で倒れたことは、以前書きましたが、その治療方針などをめぐり、田中真紀子、病院側と意見があわず、政務秘書を23年勤め、「日本列島改造論」の名付け親である早坂茂三が田中家を出て、政治評論家となり、立て続けに本を出版しました。『オヤジとわたし、頂点をきわめた男の物語―田中角栄との23年』(集英社1987年刊)『政治家田中角栄』(中央公論社1987年刊)『「田中角栄」回想録』(小学館1987年刊)


また田中派だった竹下登が「経世会」として独立。田中派141人中118人が参加、竹下派は、自民党の最大派閥となりました。
そして11月、中曽根康弘の裁定により、安倍晋太郎、宮沢喜一をおさえて、竹下登は自民党総裁に就任し、第74代内閣総理大臣に首班指名されたのです。

一方、国際政治では、ソ連の書記長ゴルバチョフが著した『ペレストロイカ』(講談社1987年刊)がベストセラーとなりました。


「ペレストロイカ」とはロシア語で、再構築、最革命を意味します。本書は、アメリカの出版社からの要請にゴルバチョフが応じて執筆したものとのこと。
この年、ゴルバチョフは、ワシントンを訪れ、レーガン大統領と中距離核戦力(INF)を全廃する条約を結びました。
いよいよ東欧に大きな革命が起きそうです。ちなみにベルリンの壁崩壊は、1989年でした。

突然ですが、ここで歴史書の時間です(笑)
前回は、中世史ブームが起きていることを書きました。
そして今回、実は古代史ブームも起きているということをお伝えします。
前年の1986年、佐賀県で弥生時代の環濠集落「吉野ヶ里遺跡」が発見されました。
「邪馬台国」よりも古い時代の原初的な「クニ」の発見に世間は驚き、古代史が注目されました。
この古代史ブームを牽引する書籍として、中でも目立つ売れ行きを示したのは、古田武彦の『古代は輝いていたⅠー『風土記』にいた卑弥呼-』(1984年11月20日刊、朝日新聞社)『古代は輝いていたⅡ-日本列島の大王たち-』(1985年2月10日刊、朝日新聞社)『古代は輝いていたⅢー法隆寺の中の九州王朝ー』(1985年4月5日刊、朝日新聞社)の三部作でした。


古田武彦の以前の著作には1971年の『邪馬台国はなかった』1973年の『失われた九州王朝-天皇家以前の古代史-』1975年の『盗まれた神話-記・紀の秘密-』(何も朝日新聞社)等があり、これまた学会からは批判されていましたが、他分野の研究者や一般の読者に人気がありました。


僕も、このブームに乗っかろうと、既刊本の中から梅原猛の『隠された十字架―法隆寺論 』(新潮社1972年刊)や原田常治『古代日本正史―記紀以前の資料による』(同志社1976年刊)などを再度平積みしたところ、コンスタントに売れました。
古代史にはロマンがありますね。日本史の中でも好きなジャンルです。

さあいよいよ1987年も終わりが近づいてきました。

12月2日、今夜は、紀伊國屋書店の従業員が集まるクリスマスパーティー(忘年会)が開催される日です。会場は、たしか小田急百貨店の宴会場だったと記憶しています。

早番であがった社員の皆んなと、渋谷から新宿へ大移動。会場には、首都圏の紀伊國屋書店のスタッフが集まっていました。
新宿本店の岡橋渉さんをはじめ、久しぶりの再会を楽しみました。

ふだん制服姿しか見たことない女性たちが煌びやかなドレスやワンピースを纏っている姿は美しく、僕は次から次へと一緒に写真を撮ってもらいました。
彼女には内緒です(;¬b¬)し~っ

写真は、交通事故で入院した時に、お世話になった総務の鈴木登美男さんとのツーショット写真を載せておきます(笑)

1987年12月2日 総務の鈴木課長と


そして、このイベントに、なんと!

ウルトラの父がいる
ウルトラの母がいる
そしてタロウが ここにいる

岩田光央『ウルトラマンタロウ』(作詞:阿久悠、作曲:川口真)


Special Guestとして、M78星雲(円谷プロ)からウルトラマンタロウが来てくれました!

あれ?どこかで聞いたことのある声で、ウルトラマンタロウが話しかけてきたぞ。 
それでは、一緒に腕を組んで記念撮影。
ヒデキカンゲキー+゚。*(*´∀`*)*。゚+


楽しい楽しいひとときでした。
このクリスマスパーティーを企画してくれた本店の西根徹さん、渋谷店の島田純一さん他、実行委員の方達に感謝します。ありがとうございました。

会場をでると街には、Christmas Carolが流れていました。
クリスマスが終わった翌週、僕は紀伊國屋書店を退職します。

では今日は、この曲で、お別れしましょう。

杉山清貴『最後のHoly Night』(作詞:売野雅勇、作曲:杉山清貴)

本当に好きなひとと

最後のイヴは過ごしたい……と書いたね

First Christmas Eve for Two

キャンドル消して君は
忘れられない夜になると背中で 髪を解いた…

つづく


次回で「紀伊國屋書店」篇が完結します。

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