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ミュシャは二流という暴言

正直これはテレビのテロップに小さく出る ※個人の感想です。 程度でしかない。

どういう経緯なのかは今更説明する必要もないが、オタクを馬鹿にしたくて出て来た言葉なのだろう。

オタクよりも優れていると誇りたいからミュシャは二流と貶す。

自分達の権威に縋りたいという性根が駄々洩れである。

これを並べたがこれで全部言い切ったと思う。

海外出羽守と同じで西洋的絵画技法こそが正道で日本画の技法は邪道と言う感覚から来ている。

言出屁の本人は別に美術の専門家でもないのでこうしたことには当て嵌まらないだろうが、しかし近代西洋絵画技法は近世のああした写実的な絵画技法から脱して東洋的な日本趣味的な技法を取り入れて今に至った筈ではないのだろうか。

月並みだが二束三文どころか輸出品の包紙程度だった版画が向こうでは珍しがられて大いに影響を与えたはずではなかったのではなかろうか。

考えてみれば近代は絵画だけでなく写真技術も入ってきたので結局絵画も廃れる筈だったのではと感じる。

となれば別にリアルを描写するなら写真で十分であって絵画は別にリアルに描く必要もなくなってしまったのではなかろうか。

確かにミュシャの絵は何処かしら親近感が湧く。

キャラクターに黒の縁が描かれているのだ。

漫画やイラスト、果ては浮世絵などこうした輪郭の出る絵柄ばかりだと気付かされる。

シャドウやハイライトなどのコントラストもミュシャの絵には目立った傾向だ。

絵の内容もファンタジー色が強くてやっぱりと思うところもある。

キュービズムや抽象画もなんでこんなのがウケてるのか分からんと思ったが、こうした絵も巡り巡って日本に帰って来たのではないかと考えられる。

とは言うものの、新しいものが即価値あるものというのは単純な悪しき価値相対主義なのである程度の支持を得ないとならないのは言わずもがな。

それを支持したらどんなにきったない絵でも芸術だと通ってしまう。

結局、直前の言う通りで多くの人に認められればこそでしかないが、大衆的なものとそれとは逆方向的なものとの区別はつけるべきだろう。

ジャンクフードやファストフードが大衆から支持されていればそれが全てとなる。

しかし、食べ物はそれだけでなく高級食品や美味いものだってある。

どんなに貧乏人であっても高級なものというのは分かっているだろうが、そこに辿り着けなければ酸っぱい葡萄となってしまう。

結果を見れば大衆作品は安いお金で買えるものである。

漫画や版画は大量生産大量頒布を目的としていているから安く済んでいる。

翻って額に飾られた巨大な油絵は一つしかないので時として数十億円もの値がついてしまうことがある。

あの当時はバブルで色んなものが天井知らずのように値が上がっていたから価値自体見出せなくてもお金がお金を生んでいるみたいだからどんどんと値を吊り上げちゃおうって思ったんじゃないかってそう感じる。

これこそはお金の悪魔に取り憑かれた人達の末路だと思う。

写真のない時代はどんだけリアルに描いて記録に残していったかと言う価値があったのだが、それが出て来てからその役目を終えた筈である。

映画と同じように思える。

偉い人物の肖像画がでんと廊下やホールや階段の踊り場に飾られていたりすることもあるが、これは権威主義としての名残だろう。

写真の登場でリアルに描く理由がなくなってしまったので、それ以降は自分が思ったような自由奔放な画を描いた作品がどっと出て来たようにも感じる。

今の油絵って自分の感性に頼ったような寧ろ褒めて使わすべき作品が目白押しなのではと感じる。

以前国立新美術館で開かれていた日展へ行ったが、油絵の西洋画の多さに驚いてしまった。

壁一面に飾られた西洋画は自分の思ったような世界を描いている。

こうなったらもう西洋画も大衆的なものなんじゃないかとすら思える。

誰しもが上手い絵を描ける訳だし。

大衆化すれば相対化していくが決して価値を失うものではないとも思う。


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