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スポーツの天才少女の生みの親は文字通りの「父親」

そう思ったのはテレビで取り上げられていたスポーツクライミングを観て、スポーツにおける天才少女という触れ込みで紹介されたりするが、そうした天才少女を作るのって一体誰かと思ったら大体「父親の影響」とか言い始めたりする。

父親の影響じゃなくて父親がやらせているの間違いではないのだろうか?

そんな自発的な子供なんていない。

そういう環境に置いたら子供はそう言わざるを得なくなるので、確かに「影響(下)があって」となら言える。

子供が挫折して嫌になってしまってスポーツをやらなくなることはないのだろうか?

父親が徹底的にやらせるのなら殆ど学校にも行かせないで周りとの交流もほぼ遮断させて子供から逃げ道を奪っているのではないのかと思ってしまう。

具体的な家族名は言わないが、大体そういう家庭は兄弟がいたりしてほぼ漏れなくスポーツをさせている。

子供全員にスポーツやらせて同時に世界チャンピオンや世界王者にまで到達出来る例なんてはっきり言えば「いない」のである。

勿論今現在後にも先にも有名な一家だけだった。

色々と言われて来たが、同時世界王者にまで辿り着くという「工作」までやるのも努力の一つであり、あの一家があらゆる物を排除したり捨てたりして色んなものを削ぎ落としてまで手に入れたものである。

「怪物」と呼ばれる親類も同時王者になったことはない。

母親が娘にスポーツをやらせることもあるのだが、情熱は父親の方が強いイメージがある。

これはスポーツに限ったことだが。

本邦の女子アスリートの活躍は大体何も手にすることのできなかった父親の怨念と情熱と復讐劇ではないかと思えて来る。

そうなった場合母親がついていけなくて別れたりすることがある、こともある。

この場合「ルサンチマン」だったりするのだろうか?

ルサンチマンとは奴隷道徳のことで絶対に変わることのない地位に甘んじて負け惜しみを言うことである。

スポーツ以外の教育だったら母親の方が父親よりも強いイメージがありそう(偏見)。
この場合は父親が子供の教育に関心がなくて母親に任せっきりになってたりすることがあるようだ。

父親が女子アスリートを育成させる傾向にあるのならその逆ならどうか。

母親が息子をどう育てるかとなったら子役とか読者モデルやアイドルに放り投げたりするのだろうか。

逆にそう言った例も見受けられる。

これは息子に限らず自分の娘だった場合もアイドルにさせようとすることもあるようだ。

正直“普通”に育てられないのだろうかと思ってしまう。

別にどの家庭が自分達の子供をどのように育てようがその家庭の方針なので「これをやれ」「あれをするな」と言う権利なんか何処もない。

しかし、子供は親の所有物ではない。

親の自己実現の為に子供が巻き添えになってしまっているのではないかと思えてしまう。

野球人口が急激に減っている話は知られていることだが、少子化もその一因だろうが少なくとも初めからプロありきで育てているのなら途中で止めて挫折して二度と触れなくなってしまっていることもあるのではと感じる。

日本のプロ野球は12球団でどれだけのプロとしてその人数が登録されているのであろうか。

二軍や育成など含めても非常に狭き門であることは間違いない筈で、無茶苦茶金掛けてプロを養成するのなら絶対に格差は生まれる筈である。

出発点が違うので趣味から始めてもプロになんかなれる訳ないのである。

メディアは頻りに大衆に“夢”を与えようとするが現実を知ってしまった者達からすれば道具を置き去るだけである。

野球だけでない一般人のスポーツ離れは天と地との格差が生まれて現実を知ってしまった人々が手を付けなくなってしまったからではないかと感じる。
酸っぱい葡萄である。

皮肉にもそうした「何者にもなれなかった人」からお金集めてスポーツ大国を目指さないと一流のアスリートすら育てられないのである。

国家がまだその形を残した上でスポーツ大国を目指す時にスポンサーからお金を集められなくて税金から拈出しようとした場合、国民はどのような反応を示すのだろうか。

実際にそうした危機は訪れており、東京オリンピック誘致の際は都民の6割は反対していたのだった。

その時点で天(国や企業や関係者)と地(都民国民)は乖離してしまっていたのだろう。

都民(国民)のスポーツに対する興味は誘致合戦の頃から失せていて、「天」は無理矢理世論を捻じ曲げてまでも誘導をさせたのだが結局オリンピックが終わってからの醜聞が明るみになってしまって、札幌冬季オリンピックの誘致さえ諦めざるを得なくなってしまってようだ。

つまり、届かないところでは都民も国民も大衆も「勝手にしろ」と言う認識しかなくなってしまった。
と同時に「勝手にすればいいが税金から使うなよ」という意思表示が見え隠れしている。

ここ最近のスポーツ放送も有料放送が一般化して地上波でお目にかかれることが殆どなくなってしまった。

これも無関心者からお金を収奪して放送すると言うモデルケースが通用しなくなってしまったということである。

無料放送、詰まり集めたお金でばら撒くモデルケースが通用しなくなれば、それを買えない層は一体何処でそのチャンスを掴めることが出来るのだろうかと思えてしまう。

一発逆転という機会すら巡り合わずにずっと底辺を這い蹲る人生を送ることになる。

普通にとは先に言ったが、その普通にすらありつけない。

格差が固定化すれば昭和のような「貧しい家庭」から這い上がって成功したというエピソードすらなくなる。

ボクシングがそうした貧しい云々とも言われてたが、そのボクシングですらスパルタ父や恵まれた環境下でないとチャンピオンになれないのである。

C級から始めても新人王止まりでB級のアマエリート達の餌食に遭うのがオチである。
そのC級スタートですらアマエリートや他競技のエリートばかりで新人王でさえも通過点に過ぎなかったりするのが現実。

最近知ったのだがJリーグが更に階層化が進んでいたようである。
J3どころではない、更に下があるという。
丸で相撲の三段目や序ノ口である。
ここまで来れば実業団や草サッカーなのではと思うがプロとしての自己実現の担保の為に階層化を深化させたのだろうかと思う。

1勝も出来なくて負けばかり続いてもプロボクサーを名乗れたりするし、連載もしたこともなくて読み切りが載るかどうかも分からなくても漫画家を名乗れたりする。

現実的な格差があっても「プロ」を名乗れるのなら、そこに収まっていてもいいという選択肢が与えられているようにも感じる。

地上波からお目にかかれる機会がなくなった代わりに、普段目にすることのなかった人々にもスポットライトが当たるようになったのもここ最近の傾向にあると感じる。

大相撲も序ノ口の取組なんか放送しないのだがネットでは観ることもできるようになったし、ボクシングも実は世界戦以外放映することはなかったのだが、ネットで4回戦の試合も観られるようになったので誰しもが「表現者」となったようにも思える。

悪く言ってしまえば価値が頂点から底辺まで平板化してしまったのではないか?

そうなれば結局チャンピオンシップそのものの価値が揺らいでしまう。

チャンピオンは一番強いので注目される。

記憶に残るのならば別にチャンピオンでなくてもいいので究極「何にでも目立てばいい」となってしまう。

やはり、価値相対主義の行き着く果てを見てしまう。

K-1ファイターがチャンピオンクラスまでもK-1を離脱し始めているのも現在のK-1の価値がK-1周辺しかないとみんな悟ってしまっているからだろう。

東京オリンピックボクシング金メダリストもボクシングを辞めてカエルの研究に勤しんでしまうのも宜成哉である。
本人曰く「注目されるのはオリンピックだけ」と言ってしまっている。

これの行き着く先が「迷惑動画」ということになる。

目立ちたいだけなら迷惑被ってまでもそれをやればいいのである。その後のことは保障できないが。

しかし、その都度ウロウロしていたら本人達には何にも育ちはしない。

炎上系の人達の行き着く先が素人同士の殴り合いに到達するのである。

これは以前noteにも書いたが。

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