池の水面

 一人で自宅から近い広い公園にやって来た。公園には大きな池があり、そばにはベンチやテーブルが備えられていて、休日ということもあり沢山の人が座って話したり飲食したり休んだりしている。それらを挟むようにフードやドリンクを売っている屋台が出ていて、私は屋台でビールとやきそばを買い、池際のベンチに座った。右手には池が見え、左手にはテーブルやベンチが見え、正面にはフェンスに寄りかかるようにしながら池を見ている人たちが居る。

「池を見ている」と言っても、その視線の向く先は様々だ。水中を泳ぐ魚に注目している人が居る。遠くでいくつも浮かんでいるスワンボートを見やっている人も居る。もっと遠くの木々や空を眺めている人も居る。それらへスマホのカメラを向けている人も居る。そうかと思えば、すぐ近くの何もない水面を見ている人も少なからず居る。

 わざわざ公園まで来て、池の水面に目を向けている人々は何を考えているのだろうか、と考える。

 二人連れで来て、何かを喋りながら水面を見ている人たちは分かりやすい。話をしながらも相手の顔を正面から見るのはなんとなく気恥ずかしく、かと言ってあまり面白過ぎたり、興味を惹かれたりするものを見るとそちらに気を取られて話の方が疎かになるので、そうなると池の水面を見るというのはちょうどいい。揺れる水面は一瞬たりとも同じ紋様にはならないからほんの少しだけ面白いし、見ようと思えばずっと見ていられるものだけれど、しかしそれ以上の面白さになることはけっしてないから、誰かと話をしながら見るのには持ってこいなのである。

 他方、一人だけで居たり、また二人連れ三人連れでも話をせず黙って水を見ている人たちは何に思いを馳せているのか。家族のことか、友人のことか、仕事のことか、恋愛のことか、隣に居る人のことか、隣りにいるのとは別の人のことか、はたまた愛犬や愛猫のことか、政治か、ゴシップか、今夜の晩飯のことか、今朝見た夢のことか、趣味か、勉強か、性に関することか、ふっと思い出した学生時代の何気ない思い出の一コマか、急に心配になり出した老後のことか、そういったものたちを引っくるめた人生全体か、もっと大きな世界のことか、宇宙のことか、あるいは全く抽象的な言語化の難しい事共か、それとも何も考えずただぼんやりしているのか。

 ……なんていうことを、私は池の水面を見ながら考えている。

 風もないのに揺れて見える水面は、そう言った人々の思念たちのかすかな圧に揺れているのではないか……というのは、池から離れてから思いついたあとづけだ。

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