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ホラー映画として楽しむ「東京2020オリンピック SIDE:A/SIDE:B」

魔物ですね、サブスクのレコメンド機能は。
「あ。配信はじまったんだ」
と、うっかりクリックしたら最後、そのままズブズブと。
「東京2020オリンピック SIDE:A」もそんな映画でした。ズブズブついでに「SIDE:B」まで一気見。時間が溶ける溶ける。

オリンピック反対。パラリンピック賛成。そんな私にとって、オリンピックは複雑な気持ちにさせられる催しです。
オリンピックとパラリンピックはセット開催と決められてしまっている。パラリンピックを開催するには、オリンピックがついてまわる。

ところが。そんな私にとって、この映画は大変に面白かったのです。
ドキュメンタリー映画として?河瀨直美作品として?
どちらでもあるような、どちらでもないような。
あえていうならば、ホラー映画として。

記録映画「東京2020オリンピック SIDE:A/SIDE:B」について

同作は2022年6月に劇場公開された、東京2020オリンピックの記録映画です。ちなみに1964年の前回東京五輪では、市川崑監督でしたね。

撮影は全750日間、時間にして5,000時間。中学校の授業が三年間で3,045時間なので、どれだけ長大な撮影だったかわかりますね。マジか。
その膨大なシーンの数々は、前編120分・後編124分に凝縮されています。名付けて、SIDE:AとSIDE:B。

SIDE:Aは表舞台の記録。アスリートやその家族を中心とした構成です。
競技にかける情熱をコロナに奪われそうになる苦悩。それでも諦めずに戦い続ける姿を、かなりの至近距離で捉えています。
出てくる選手のバックストーリーも、難民、人種、出身地、マイナー競技など、なんらかのマイノリティ性が打ち出されていた印象。彼らのにとってオリンピックという舞台がいかにかけがえのないものか。決して退けない戦いが見て取れます。

一方のSIDE:Bは、いわば舞台裏です。
なんとしても大会を開催しないといけない委員会と、安全確保との両立に頭を抱える行政。事業者は運営の責任を負い、医療従事者はコロナ患者の命に責任を負う。任を解かれた人と押し付けられた人。誇らしげな聖火ランナー、怒声をあげるデモ隊。
もうごっちゃごちゃです。トラブルやら醜聞やらプライドやら価値観やらがひと繋がりに絡み合いながら、決して相入れることはない。それがそのままリアルに提示されています。

さらに、ABどちらも記録映像でしか撮れない場所、会えない人、引き出せないコメントが随所に。
「よく組織委員会がOKだしたな」
というシーンが目白押しなのです。

それらが、河瀨監督ならではの、力強くも端整な映像に収められています。いうまでもなく美しい映像は、恐怖を倍増させるのですが。

SIDE:A/Bが一貫して描き出す、疑わないという「狂気」。

「この人たち狂ってる。狂ってるわ」
画面を観ているあいだ、私はずっと気味が悪かったのです。喉が渇きました。

「オリンピックを当然視してるヤツが多すぎる。も少しマシだと思ってた」
信じて疑わないことの”狂気”が、徒党を組んでいる。情熱という名の微熱にうかされながら。それを目の当たりにした恐怖です。

「ほんとにみんな、揃いも揃ってオリンピック開催を疑問に思ってないの?」
少なくとも、SIDE:AやBに出てきた大会関係者の中で、開催に疑義を呈した人を覚えていません。
いや、開催していいのかな?と思っていなかったはずがないのです。しかし、おくびにも出さずに、やりたい、やるしかないの大合唱。開催への一方通行。
右へならえ、ですらない。みんな進んで右にならっている。
そこに意見や価値観の多様性はまったくなかったように感じました。

劇中、河瀨監督はとにかく顔を撮ります。いろいろな角度から、寄り引き織り交ぜながら。
異様な表情を。異形とも言える瞬間を。イジってる?とツッコミたくなるほどに。
だからよく映っていたのです。何かを盲信する人たち特有の薄気味悪さが。一人ひとり背景が違うはずなのに、どこか似通った表情が。美しい映像だからこそ鮮明に。
ここは本作の大きな見どころの一つだと思います。

いや、私だって分かっちゃいるんですよ。
開催をキャンセルできるのは国際オリンピック委員会だけ。開催都市である東京はストップをかけられない。
というか、東京からストップをかけた場合は契約違反となり、莫大な経済的損失を被る。
だから現実的に考えて、中止は現実的ではない。パラリンピックも開催できなくなっちゃうし。

スポーツの可能性を信じる気持ちはわかる。
決まったことだから、仕事だから進める、というのも、サラリーマンである自分としては痛いほど共感できる。
だから開催反対を唱えろよ!とは言わない。言えない。

でも。信じることと疑うことは、両立できるはず。疑う姿勢の放棄は、知性の放棄にほかなりません。
疑問に思わないことも怖いですが、「やらなきゃしょうがないだろ!」の圧に本音を押し殺す様もまた怖い。そして悲しい。それこそ敗北なんじゃないですか。

結論が分かっているならなおさら、怠ってはいけない思考がある。後悔や反省からしか学べないものがあり、それは渦中でこそ血肉になる。それがなければ、後世への学びもない。
この映画は、当事者たちのかわりに、それを記録していたように見えるのです。

オリンピックを誘致して開催する。そのお金と時間で、どれだけの困窮児童やシングルマザーの状況改善に取り組めたか。保育や医療現場の待遇を見直せたか。
私がいたボランティアの現場に、金メダルから明るい未来を想像できる子どもが、果たして何人いただろうか。そんなことより家に帰っても飯ないっつーの。
その他にもいろんな人、さまざまな可能性を犠牲にしてまで結んだ、退路のない不平等契約なわけです。

彼ら、とくに主催関係者の多くは、かつて捨て去った人たちや選択肢から目をそらしているように見えました。
多様性を無視する。それもひとつの思考停止です。これほど恐ろしいものはありません。

思考停止の挙げ句、世論の延期希望や反対を押しきり、”緊急事態宣言下がいちばん安全”という屁理屈を社会にゴリ押ししてしまった。異常事態が、いとも簡単に日常に。異常に麻痺することほど異常なことはないというのに。恐怖の上塗りです。

多様な人を度外視して、身内に閉じる。
様々な選択肢を考慮せず、敵を打ち負かすことばかりに血道をあげる。
結果、前提やルールに疑いを挟まなくなる。
私が感じるスポーツ精神の古くて嫌な一面が、権勢にのって突っ走った成れの果て。そして誰もが均質になり、口を揃えるようになった。

疑問さえ口にしないヤツや、発言できない組織のことなんて、信用できません。 
「ああ。戦争ってこうやって始まっていくんだろうな」
と感じました。
これが私が本作をホラー映画と感じる理由です。いわばデストピアものですね。

このホラー展開、オリンピックに限ったことではないような。会社の中にだって「誰かタンマかけるやついなかったのかよ!」と取り返しのつかないことはゴロゴロしています。

だから。自分があの場にいたら。何かのメンバーだったとしたら。この映画を観ていると、そんな思いに駆られるのです。
私だったら間違いなく、決然と、断固たる決意で、異を唱えることなどできません。生まれ変わっても無理でしょう。

つまり私もまた、誰かの犠牲を忘れ去り、世の中にゴリ押しする側に容易に回りうる人間です。彼らを指弾する資格などないのです。
自分があの場にいなくてよかったと、卑怯にも胸を撫で下ろすのが関の山。
そういう意味では”明日は我が身オチ〟とも言えます。

否定派・肯定派どちらも楽しめる両面性。監督の

と、ここまで大会当事者をディスってきましたが。
この映画がすごいのは、オリンピック否定派と肯定派、いずれの視点からも面白く観られる作りになっている、という点です。

以前、見る人によって色が違って見えるドレスの画像がバズったじゃないですか。アレの映画版。
オリンピック否定派には、ホラーに見える。
しかし肯定派には、困難を乗り越えたスポーツスドキュメンタリーに見える。
まったく同じものを観ているのに、です。

なぜなら。オリンピックという特殊な時空間が浮き彫りにする、人間の業その陰陽両面を、鮮やかに写しているからです。
それを公式記録カメラという刀で切り撮ってやろうとした、その凄み。
画面から伝わる鬼気にねじ伏せられる快感、とでもいいましょうか。どういう見方をしても、どんな感情になっても、自分の感情を肯定できる。ここまでやられちゃ面白いに決まってんじゃん、と。お手上げと万歳は似ています。

森・元首相、カタナシですよ。自業自得とはいえ、手負いの老人ですよ。それを容赦なく問い詰めるのです。ズバズバ斬り込むのです。

よくあの状況下で、選手として頑張るママとその夫を取材できたなと。しかも夫婦の夫婦を。かなり厳重なバブル方式だったはずなのに。なんなら空港までついていっちゃったりして。どの国の赤ちゃんも死ぬほどカワイイ。

河瀨監督はよく撮ったな、と。かえすがえすも企画した組織委員会がよく許したな、と。

おそらくこれ、河瀨監督の批判的な視点が強靭だからなのではないかと。
この映画の評価を、完全に後世に委ねている。だからこそ切り込める。
理解者は未来に必ずいる、とでも言うように。
スポーツ界のイヤな体質を温存してきた人々がすべてこの世からいなくなった後。多様性を前提とした価値観があたり前になった時代の人たちにしか、この映画の真価は分からないのかもしれません。そんな時代、くるのかな。

未来といえば。私はこの映画で、思わず泣いたシーンがありました。
スポーツ観戦で泣いたのは初めてです。今後もしばらくはないでしょう。

それはスケートボードのシーン。
主催当事者たちと打って変わって、スケボー選手たちのなんと神々しかったことか。この子たちがパフォーマンスし続けられる未来なら、悪くないんじゃないかと。

みんなで転倒した選手に手を差し伸べ、ランプから引き上げる。
肩を落とす選手がいたら、健闘を讃え肩に担ぎ上げる。
スポーツって、こういうものだよなと。いや、こういうものであってほしいなと。
Love、Peace、Unity、Having Fun。
これは綺麗事ではなく、多様な人と折り合っていくための実践的キーワードです。

国籍や年代といった属性に関係なく、みんなが楽しそうに技を競っている。目の前の相手に勝つよりも、一緒過ごす楽しい時間に価値がある。
しかもスケートボードは、街というある種のルールを読み替えるという文化を持っています。
つまり”身内に閉じている。目の前の相手を打ち負かすことばかりに血道をあげる。ルールを疑わない。”の真逆。
その様子がまた、楽しそうで楽しそうで。

あのホラーな組織にいた人たち、オリンピックは楽しかったのかな。スポーツって、楽しいからやるんじゃないんですか。

オリンピックに否定的な私ですが、それでも「感動したら負け」みたいなことを言うのは野暮だと気づかせてくれる。
それもやはり、やはり本作のなせる技なのだと感じました。

あらためて「東京2020オリンピック SIDE:A/SIDE:B」は必見です。とくにB!

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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