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ハードボイルド稼業 - 3(完) -

(第三回 4200字)

俺は布の袋をポケットから出すと彼女の前に置いた。彼女は眉を上げてもの問たげな表情をしたが、黙って袋を開けて中身を出した。指輪を見ると訝しげな表情をしてしげしげとながめだした。スターリングの話とことごとく食い違っているのが決定的になった。
「これは何? どういうこと?」
何だかそんな成り行きを想像はしていた。だから驚きはしないが、返答に困ることには変わりない。俺は再び両手を広げた。我ながら芸がないが。

両手を開ききるそのタイミングで俺のコーヒーが運ばれてきた。コーヒーのカップと陶器のミルクピッチャーを置きながら、ウェイトレスは何気ない風を装って、しかし指輪をしっかり観察して行った。コーヒーは注文通り舌を火傷しそうに熱かった。

「ミス・ブライト、どうやら私がミスター・スターリングに依頼された内容は、あなたとここで会うこと以外はすべてが違っていたようです。彼にかつがれたのか。でもどうしてそんな嘘をついたのか見当がつきませんが、彼によればこうです。その指輪はあなたのもので、やくざな奴から彼がそれを取り返して今日渡す約束になっていたと言いました。ですから、あなたがここを発ってしまう前に指輪をあなたに渡すことが私の役目の全部です。何かあなたへの説明をミスター・スターリングから預かってこなければならないとは夢にも思わなかった」
「これは私のじゃないし、トニーに何かを取り返してくれなんて頼んだこともない」

「ええ、ええ。どうやらそのようですね。そしてあともう一つ、伝えないといけないことがあります。これはもっと早く言わなければならなかったのですが、ここまでそのタイミングを掴むことができなかった。気を落ち着けて聞いてください。彼と別れて私が車で走り出した時、銃声がして、一台の車が猛スピードで走り去り、あとに誰かが倒れていた。それはミスター・スターリングでした。私は急いで駆け寄ったけど、もう彼は死んでいました。残念なことに」
ヘレン・ブライトは俺の話を聞きながら目を見開いたり、眉を上下したり忙しく表情を変えていたが、ここまできて肩をふるわせはじめ、くすくすという笑い声が漏れ、続いて笑いだし手を叩いた。
「傑作。もう、何かと思ったら。全部嘘だったのね。そうそう、この指輪をどこかで見た気がしてたんだけどやっと思い出した。トニーに見せてもらったんだわ。もう三、四年も前かな。彼のお母さんの形見だといって」
ヘレン・ブライトは左右を見回す。
「トニー、居るんでしょ、もう隠れてないで出てくれば。お母さんの形見の指輪を私に渡すというのはそういうことでしょ。ずいぶん凝ったことをするから、びっくりしちゃったじゃない」
ヘレン・ブライトは俺が吹き出して大笑いし、スターリングが満面の笑顔で現れるのを待っていた。俺にしてもスターリングにしてもその期待に応えることはできなかった。

俺がどんな表情をしていたのか自分では分からない。しかしヘレン・ブライトがそこに読み取ったものは彼女の高ぶった気持を地上へ引き下ろした。

一方、俺には沢山の認識が一斉に訪れていた。スターリングはとっさにしてはずいぶん巧みな嘘を俺に聞かせたものだ。それだけ必死だったのだろうが、もちろんすべてがまったくの作り話というわけではないだろう。大口を叩く兄ちゃんも、街の顔役というのも実在するのだろう。それらの人物が指輪とは無関係だったとしても。

スターリングがヘレン・ブライトをロスアンジェルスに引き止めようと考えていたのかどうかは分からない。とにかく、今日が自分の気持ちを打ち明けるには最後のチャンスだった。なのにどうしても会いに行けなくなった。もう一日待たせれば彼女は行ってしまうだろう。だから母親の形見の指輪を誰かに持って行かせることを考えた。彼は、ヘレン・ブライトがその指輪がどういう物かを思い出して、それを渡すという意味を理解してくれるはずだと思った。スターリングがどうしても俺に引き受けさせようとしていたのも無理はない。知り合いに頼むのは照れくさいことがあるとすればまさにこれがそうだ。見ず知らずの人間が必要だったのだ。

そしてここへきてヘレン・ブライトのスターリングへの好意が図らずも露わになり、彼の死のニュースの重みがこの場で計量された。ひとりの知人の死というだけでは済まない。その彼女のスターリングへの思いは宙に浮いてしまわざるを得ないことも俺は理解した。否応も無く。

ヘレン・ブライトはきつい表情を取り戻して言った。
「彼がほんとに死んだなんて信じないわ」
俺は両手をテーブルの端に置いて少しだけ身を乗り出した。
「明日の新聞のどれかには記事が載るだろう。彼の名前が書かれるかは分からないが。コート通りで、午後二時ごろ、走る車から四発の銃弾が発射され、一人の男が殺されたと。そしてあなたがこの先ミスター・スターリングへ連絡を取ろうとしても、どうしても彼をつかまえることはできないだろう。彼が殺された理由は分からない。それを分かろうとするつもりもない。そんなことに首を突っ込むのはかなり危険だ」
「じゃあ、本当のことなの? 私をかついでるんじゃなくて? 彼は死んだの?」
俺は彼女の目をじっと見て頷いた。

彼女の顔が歪んだ。痛みをこらえているような、湧き上がる気持をこらえるような。彼女は両手で顔を覆った。肩が震え嗚咽が漏れた。手の隙間から途切れ途切れの涙声で言う。
「そんな馬鹿な話ってある? プロポーズに代理を立てて。返事を聞く前に死んでしまう男の話なんて」
黙って待っているとヘレン・ブライトの息が整ってきて普通に呼吸できるようになった。彼女は首を回してホテルの外の景色をただ見ていた。しばらくそうしていてから顔を俺の方へ戻し、指輪を袋に入れてこちらに押し出した。
「この指輪は貰えないわ」
ううむ、これはピンチだ。予想外の方向からのピンチ。ヘレン・ブライトに会えばそれで依頼内容は完了のはずだった。受け取らない場合の対処を今からスターリングと話し合うわけにはいかないのだ。

「なぜ? 彼を嫌いではないんでしょう?」
「嫌いじゃないけど、だってもう彼の気持ちにこたえることはできないから」
「だけど彼に返すことはもう誰にもできないんだ。あなたが受け取ってくれなかったら宙に浮いてしまう。それはつまり私の手に残ってしまうということだ。私の持ち物になるのはそれこそ謂われがない。あなたが受け取ってはじめて私の仕事が終わる。この仕事の取り消しはもうできないということは分かるでしょう」
「私がこれを受け取って何をするの? これを見る度にトニーを思い出すの? 一生の間? それは重すぎるわ。悪いけどこれまではそれほど親密な関係じゃなかった。今日になって彼の気持がわかったというだけで」
「あなたが受け取ってからそれを売るなり何なりするのは一向に構わない。もはやミスター・スターリングだってとやかく言わないでしょう。彼はそれなりに男気がある奴だと私は思いましたよ。話した時間は短かったけれど」

ヘレン・ブライトは何か考えるように目を下に落として、それから話した。
「指輪を売るということだと、あなたが自分でそうするということは全然考えないみたいね。そもそもトニーが死んでしまった時にあなたは仕事を終了することだってできた。トニーがあなたに依頼したことは他に誰も知らないんでしょう? だったら、ラッキーと思って受け取った探偵の料金と指輪を自分のものにしてそのまま飲みにでも行ってしまうこともできた。どうしてそうしなかったの?」
彼女は私をまっすぐに見た。私はひとつ息をして話し始めた。
「ふうむ。確かにそんなことをする奴も居るだろう。だが考えてみて欲しい。私立探偵にものを頼むといことは多かれ少なかれ自分の弱みをさらけ出すことだ。だから私立探偵が依頼者の弱みにつけ込んだりしないというのは私立探偵の職務規定第一条みたいなものだ。それは建前とか希望とかじゃない。そうでなければならないからそうなんだ。医者だってそうだろ。自分が医者にかからなくちゃならなくなったとき、その医者が患者の弱みにつけこんでくるなんて考えたくもないはずだ。もちろん悪徳医師だって一定数は居る。それでも大半の医者はまっとうだし、まっとうであることを当たり前だと思っている。私も同じだ。仕事を引き受けた以上は何があろうと最後までやり遂げたい。依頼人が死んで文句が言えなくなったら自分の好き勝手にしていいという理屈は私にはない」
ヘレン・ブライトは俺が話している間中じっと俺の顔を見ていた。
「あなたは自分の仕事に誇りを持っているのね。それはすばらしいことだわ。そして、私がこの指輪を受け取らなかったらその誇りが傷つくことになるのかしら。わかった、受け取るわ。でも、いつか売ってしまうかもしれない。それは今から言っとく」
「この指輪をどうするかはもう完全にあなたの自由だ」
俺は指輪の袋をテーブルから取り上げて彼女に手渡した。そのあと名刺を取り出してそれも彼女に渡した。
「それからあなたが私の誇りのことを考えて受け取ってくれたことは忘れない。今はお礼の方法もないが、この先何か私立探偵が必要になったらいつでも役に立たせてもらう。ソルトレイクシティで困ったことがあった時でも遠慮無く声を掛けて欲しい。あちらの方にも多少のコネはあるから」

「ありがとう。それはずいぶんと心強いわ」
彼女は微笑んだ。それは彼女が今日会ってからずっと身に着けていた分厚いガードをはずした微笑みだった。彼女ははっとするほど魅力的だった。そして俺はあらためてスターリングがこの依頼を俺に引き受けさせようと必死だった顔、そして放り出されたあやつり人形のように道に横たわる姿を思い出した。

ヘレン・ブライトは今日は一晩友達の所に泊めて貰うと言い、俺は彼女の分もコーヒー代を払い、それからその友達の家まで送っていった。彼女は車を降り際に、たぶん明日ソルトレイクシティに向けて出発すると言った。その後、彼女とは会っていない。

これが俺の私立探偵業初仕事の顛末だ。そこには銃弾やナイフをかいくぐるハードボイルドなスリルはなかった。だが思ってもみなかった方向からの危険が俺に迫り来た。その危機をたくみに乗り切って俺は仕事をなし遂げた。今後も探偵業を続けるなら思ってもみなかった困難に幾度もぶちあたるのだろう。そんな予感がしている。

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