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(短編物語)赤い毛をしたきつねの話 3不思議な声

 これは赤い毛をしたきつねベルイのお話の3話目ですが、何話目から読んでも楽しめるように書いています。通勤電車の中で、午後のおやつの時間に、ぜひ、どうぞ。
(記事の一番下に、1話目、2話目のリンクを貼っておきました。)


1 ベルイの考えごと

 朝の散歩ついでに、図書館へ寄ってきたベルイは、庭先のベンチに腰かけ、借りてきたばかりの本を片手に、親友のキルシュとおしゃべりを楽しんでいるところだった。
 ベルイは、全身、夕日のように真っ赤な毛をしたきつねで、親友が二人いた。一人は、きこりのルース。ルースは人間で、金髪をいつもポニーテールにしている。そして、もう一人が、キルシュ。キルシュは、人の言葉をしゃべる、サクラの木だった。キルシュの声は、今、ベルイの左耳に最も近い、一房の枝のかたまりから、葉を打ち鳴らすように、ざわめき、聞こえていた。
「ベルイ、おれは、ベルイの考えにゃ、反対だ」
 キルシュがいった。けれど、ベルイは聞いていなかった。ベルイの意識は、風に吹かれた枯れ葉のように、ふっと飛んでいって、ベルイは、キルシュと会話をしていたことを忘れてしまっていた。

 ベルイは、もう一人の親友、ルースのことを考えていた。快活で、明るくて、自分の生まれ育った山の中の、狭い世界のことしか知らないはずなのに、そう、外の世界のことは、話に聞くか、本で読むかして知っているだけのはずなのに、達観していて、世界のことわりをよく理解しているようなところがある。ルースは、狭い世界の中に、この世界のすべて……この世界の真実を、まだ二十歳そこそこの、人間にしてみれば、足の生えたおたまじゃくしのような年齢のなりに、見出していたのかもしれない。
 その、ルースが、春になったら、旅へ出る。ルースが自分でそう決めた。この山と森の外の世界へ、生まれて初めて、出ていくのだ。そして、たぶん、この場所へ立ち寄ることはあっても、もう、戻ってはこない。もし戻ってくることがあったとしても、それは、ずっと先、ルースが年を取り、顔にしわが刻まれたあとのことだろう。ベルイは、そんな気がしていた。
 寂しくなるな。ベルイは思った。ありきたりな表現かもしれないが、ルースは、ベルイにとって、太陽のような存在だった。ベルイの体内にも、太陽はあるにちがいないが、ルースの太陽ほど、エネルギーに満ち満ちてはいなかったし、その燃え方も、ルースのとはちがっていた。積み上げられた薪木のすきまから、あがりはじめた炎がちろちろとのぞくようなもので、ともすると、その炎は、薪木と薪木のすきまの中へ、簡単に引っこんでしまうのだった。ルースの熱い太陽の光に照らされると、ベルイは、自分の弱々しい炎が、燃料と空気を吹きこまれ、息を吹きかえすような心地がした。そしてそれは、心地がするというだけではなく、実際に、起こっていることだった。
 ルースがいなくなれば、もちろん、それは起こらなくなるのだ。ルースの、その日の光を浴びることはなくなるのだ。ルースの存在に慣れてしまった今、ルースと別れるということは、もはや、ルースと出会う前に戻るだけ、とはいかないだろう。少なくとも、ルースという存在が、いかに大きく、重要なものだったのかを、痛感させられるにちがいない。

2  ゾーラ

「おおい、聞いてるのか?」
 もう一人の親友、キルシュが、しびれを切らしたようにいった。
「また、どっかいっちまってただろ。話している方は、案外傷つくんだぜ」
「ああ、すまない、ごめんよ、キルシュ」
 ベルイは、はっとしたようにいった。
「まあ、気にするな。本気じゃない。何を考えてたんだ? いや、当ててみよう。ルースのことだ。そうだろ? 話している途中で、話していることを忘れてしまう、それはいつものことだ。だが、最近のあんたは、塞ぎこんでる。いや、塞ぎこんでるのも、いつものことだな。あんたは、しょっちゅう塞ぎこんでる。だが、最近の塞ぎこみようといったら、何かがちがうぜ。ちがうにおいがする。ちがうにおいがするのは、うん、おれはすぐに気がついていたぜ。ルースがいなくなるって、分かったときからだ」
「うん」
 ベルイは、静かに答えた。
「うん、当たりだ、キルシュ。おれは、ルースのことを考えていた」
「意外だな、ベルイ。ベルイが、誰かとの別れを惜しむなんて」
「おれは、惜しんでいるのかな」
 ベルイは考えこんだ。
「惜しんでいるのかも。もしそうだとしたら、うん、珍しいことだよ。初めてのことかもしれない。誰かと別れるとき、おれは、何かを感じたことはなかった。去っていく人を見るのは、流れていく雲を眺めるのと同じようなものだった」
「流れていく雲、か。それじゃ、ベルイは、去っていく人を見て、竜が月を飲みこうとしているなあ、とかなんとか、思うのか?」
「いや、思わない」
 まじめくさった口調で冗談口をたたいたキルシュに、ベルイは、冷たく答えた。
「正確には、同じじゃないさ。ただ、流れていく雲を、引き留めようとは思わないだろ? まあ、その点でいうと、今度もそうだな。今度も、引き留めようとは思ってない。そもそも、旅に出ることを促したのはおれだし、おれはただ、ルースの決めたことを受け入れるだけだ。おれは、そうするつもりでいる」
「そう、できるのか?」
「うん、できる。できなかったことはないからな。やろうと思わなくたって、できていたことさ」
「今回ばかりは、どうかな」
「今回もそうさ」
 残念ながらね、ベルイは、心の中で付け足した。

 そのときだった。
「声が、したんだ」
 と、声がした。
 ベルイは、耳をぴんと立て、キルシュの向こうぎしを、枝を透かして見た。そこにふらりと立っていたのは、一人の女だった。がっしりと、すらりを、足して二で割ったような体つきをしていて、ベルイが見たとき、その体は、今沼地からはいあがってきたカッパのように、前に斜めに倒れていた。幽霊でも見たかのように青ざめたその顔を見て、ベルイはうろたえた。キルシュがしゃべっているところを、聞かれてしまったのだ、と思った。
「声がしたんだ」
 女は、姿勢を、体が地面に垂直になるように直し、また、同じセリフを繰り返した。顔はもうそれほど青くはなかったが、まだ、目には動揺が揺れていた。
「声ね。それは、おれの声だな」
 ベルイは受けあった。
 女は、まさか、という顔をして、タカを思わせるとび色の目で、ベルイをじっと見つめた。目の中に揺れていた動揺は、その間に、ゆっくりと静まっていった。
「考えごとをしていたんだ」
 ベルイは、ほんとうのことをいった。
「しゃべりながら考えるたちなのか」
 女は、ほほ笑み、顔の前に垂れたキルシュの枝をそっとどかして、ゆっくりとベルイの方へ歩いてきた。
「まあ、そうというわけでも……」
 ベルイは、もごもごといった。うそをつくのは気が引けた。だが、ベルイはふと、自分に問いかけた。ところで、キルシュが言葉をしゃべるということを、おれは、どうして隠そうとしたのだろう? キルシュが、そう望んでいると思ったからだろうか? ベルイの知っているかぎり、キルシュは、今までに、ベルイ以外の人間……もっとも、ベルイはきつねだから、人間、といえばそれですむのだけれど、キルシュは、人間の前で、言葉を発したことはなかった。
 しかし、ベルイは、別の結論を出した。おれは、たぶん、おれのこの暮らしに、キルシュとの平和なこの暮らしに、邪魔を入れたくなかったんだな。とはいえ、キルシュが言葉をしゃべると誰かに知られたところで、どれほど、ベルイの暮らしに影響が出るのかといえば、そんなものは、高が知れているような気もした。赤いきつねがいる。それだけで、すでに話題性は十分なのだから。
 そう、ベルイはただ、秘密を守りたかったのだ。キルシュがしゃべる、というそれを、自分だけのものにしておきたかった。ベルイは、自分でもそのことに気がついて、ふふっと心の中で笑った。
「赤いきつねくん。君は、ベルイくんだね」
 女がいった。
「わたしは、ゾーラ。旅の者だ。ゾーラと呼んでおくれ。この山の下の通りを歩いているとき、この山を登れば、全身真っ赤な毛をしたきつねに会えると聞いて、会いにきたよ」
 ゾーラは、ルースと同じように、髪をポニーテールにまとめていたが、ルースとちがって、色は、黒炭のように真っ黒で、毛は、がさがさとして、重たそうだった。鼻がすっと真っ直ぐにとおっていて、目と同じように、どこか、タカを思わせるところがあった。丈夫そうな布でできた、うす灰色の上下に分かれた衣を着ていて、腰には、ちゃりちゃりと軽い音を鳴らすメダルのようなものをつけている。背中に、着ている衣と同じような布でできた、巾着袋のようなものを背負っているのが、ベルイにはちらりと見えた。
「うん、このとおりさ」
 ベルイは、手を軽く広げ、尻尾をしゅっと振ってみせた。ここでの暮らしのいいところは、自分の毛が赤いということを、正確にいえば、自分の毛が赤いというのが、特別なことだというのを、忘れていられることだ。だが、こうしてときどき、それを思い出させられるはめになる。人が、自分に会おうとしてくれるのは、ありがたいし、うれしいことだった。こうしてやって来る人々は、確実に、ベルイの暮らしに彩りと、刺激を与えてくれる。だから、ベルイの気持ちは複雑たった。
「おやつでも、食べていくかい?」
 ベルイは、うれしい、と思っている方の気持ちを全面に押し出して、いった。
「いいのかい?」
「うん、大したものはないけどな」

 ゾーラは、ベルイに案内されて、丸太小屋の中へ入ると、ぐるりと辺りを見渡した。
「居心地のいいところだな」
「マロンペースト入りのシフォンケーキがあるけど、それでいいかい?」
「ああ、ケーキは好きだ。その、シフォン、というのは、おいしいのかい?」
「ふわふわしてるよ。だけど、シフォンケーキ、知らないのかい?」
「ああ。わたしの故郷にはなかった。ふわふわしたケーキは、初めてだ」
 ベルイは、昨日ルースと食べかけにしていたシフォンケーキを切り分け、二人分をお皿によそった。それから、生クリームはつけるか、コーヒーと紅茶、どちらを飲みたいか、等々注文を聞いて、要望のとおりにおやつを用意した。ベルイは、ゾーラの前に、生クリームなしのシフォンケーキを、自分の前に、生クリームを添えたシフォンケーキを置き、ガラスのティーポットから、二杯のアールグレイを注いだ。紅茶をいれるのは、ルースの方が得意だったが、今は、それほどゾーラが、味にうるさくないことを願った。
「いい香りのする飲み物だな」
 ゾーラは、紅茶のカップに鼻を近づけ、静かにその香りを嗅いでいった。
「紅茶も、初めてなのかい?」
 ベルイは聞いた。
「ああ、いや、初めてではないよ。旅の途中で、何度も飲んだ。その度に、なんだか、こう、同じように驚いて、感動してしまうんだよ。わたしの故郷には、こういう香りのする飲み物はなかったから」
「ゾーラの故郷は、どんなところだったんだい? もし、聞いてもよければだけど?」
「うん、そうだな、まず、こういう香りのする飲み物は、いや、香りのついた飲み物ひとつ、といった方が、正確かな。香りや水以外の味のついた飲み物は、一切ないところだった」
 ゾーラは話し始めた。

「飲み物はいつも、水だった」
 ゾーラはいった。
「とはいえ、とてもうまい水でね。美しく、澄んでいて、透明なうまい水を、いつでも川からくむことができたんだ。それも、飲み物に香りや味をつける文化が育たなかったゆえんのひとつかもしれない。
 だが、そもそもわたしの故郷には、飲み食いを楽しもうとする風習が一切なかった。故郷を出てから、水のまずさには驚いたが、いや、ここの水はうまいみたいだがね、こんなにまずい水もあるもんだと、何度も驚かされたよ。
 でも、わたしは、食べることや飲むことを楽しむということを、生まれて初めて知ったんだ。初めは、何て甘えた文化なんだろう、と思った。何て甘えた、無意味な文化なんだろう、とね。甘えからは、何も生まれない。そう、体にすり込まれて育ってきたんだ。
 わたしの故郷は、武人の国だった。男も女も、ありとあらゆる人間が、幼少のときから、体術、剣術、弓術、ありとあらゆる武術に親しみ、強くなるために鍛錬を積む。十歳になると、自分に合った武術を一つ選び、それを極める。わたしは、体術を選んだ。わたしは不器用でね。道具がまったく扱えなかったんだ。拳ひとつで強くなる。体ひとつで戦う体術に、あこがれもあった。柔道、空手、合気道……体術といってもいろいろあったが、わたしは、国伝統であり、特有の拳法、アルメール拳法を極めることにした。それが、国の中では、一番盛んで、人気のある体術でもあったからね。わたしは、単純な奴だったのさ。
 だけど、それからは苦しかった。わたしには、才能がなかった。いや、そういい切ることはできないだろう。才能というのは、いつ開花するとも知れないものだからね。でも、わたしは、なかなか強くなれなかった。いくら努力をしても、弱いままだった。同い年の中で、同い年は、わたしを入れて八人いたのだが、その中で、わたしは、最初から最後まで、最下位だった。年下にも、嫌というほど負けた。悔しかった。そして、ぞっとした。わたしの国では、武人として優れた人間になること、すなわち、強くなるということ、それがすべてだった。そしてそれは、その国で生まれ育ったわたしのすべてでもあった。国の真実は、わたしの真実でもあったんだ。それなのに、わたしは、優れた武人にはなれない。それなのに、わたしから武術を奪ったら、わたしには何も残らない。わたしは、途方に暮れた。
 だが、あるとき、契機が訪れたんだ。とてもささいな出来事だった。わたしは、その日も試合に負けて、ひざをついた。ただ、負けた相手は、七つも年下の女の子だった。彼女は、彼女の世代の中でも、特に優れていて、期待をかけられている戦士だった、とはいえ、それは屈辱的だった。わたしが弱いことは、わたしを知っている誰もが知っていることで、試合をする前から、わたしは彼女にみくびられていると分かっていた。見返せるものなら、見返したかったし、七年も多く鍛錬を積んできた身として、自分を信じたかった。だけど、わたしは勝てなかった。全力を振りしぼったが、だめだった。悔しかったよ。全身が、打たれた釣鐘のようにふるえた。師匠のお説教は、生傷に塩をすりこまれるようで、いつもよりずっと痛かったし、相手の、わたしをものとも思っていない顔、勝つのは当然だという顔も、がまんがならなかった。
 わたしは一人になりたくて、森の中へかけこんだ。かけこんで、ひざをついた。ひざをついてはならないと、物心がついたときから教えこまれていたのだが、わたしは、反抗的な気持ちになっていたのだろう。ああ、わたしは、ひざをついてばかりで、師匠にはいつも怒鳴られていた。そうしたのには、これが自分なのだと、開き直る意味もあったのかもしれない。今では、そのとき、多少の罪悪感をさえ覚えた自分が、ばかばかしいよ。
 そのときだった。小さな、かわいらしい、花をみつけたのは。わたしのひざの前に、その花は咲いていた。白い花びらで、ふちは、うすい紫だった。ひどい気分だったのに、わたしは、思わずほほ笑んでいた。わたしはその花を摘んで……花には悪いことをしたが、わたしは、ほとんど無意識にそうしていた。そして、摘んだ花を、自分の前髪にかざしてみた。近くの池に自分を写して、花をかざした自分を見た。ばかみたいで、笑ってしまうような話だが、わたしは、なんだか、似合っているなと思った。
 そうして、そのときだ、わたしには、強くなることのほかにも、価値があるのではないかと気がついたのは。それから、一か月もしないうちに、わたしは荷物をまとめて、といっても、着替えを数枚持っただけなんだが、旅に出た。わたしの価値……強くなることのほかにも、あるかもしれない、自分の価値をみつけるための旅に。あるいは、価値をみいだし、あるいは、価値を作り出すための、旅にね。強くなるために、外へ出て修行をするといったら、すぐに出してくれたよ。わたしの国じゃ、強くなるためとあらば、引き留める理由は何もなかったし、外に出て修行を積む者がいるのは、そう珍しいことでもなかったんだ。
 とはいえ、まだ、わたしには何もないままだ。わたしは空っぽで、武術なくしては自分を語ることのできない、無価値な人間のままなのだ。わたしが探しているわたしの価値は、すでにあって見えないものなのか、それとも、これから芽生えるものなのか、それは、わたしにはよく分かっていない。もしかすると、今もこの先も、ずっとないままで、見つけることはかなわないのかもしれない……そうでないことを祈るばかりだが、正直なことをいうと、わたしは、自信がないのだよ。わたしに、何があるというのだろう。武人の国アルメルに生まれ育ったということと、白くて、ふちがうす紫の花が、少しだけ似合うということの他に?
 やれやれ、すまないね、ベルイくん。故郷の話をするつもりが、途中から、わたしの話をしてしまったよ。今話したことは、他言無用にしておくれ。恥ずかしい話だから」

 ゾーラは、口を閉じると、気まり悪そうに紅茶を一口飲んだ。
「いいや。とてもおもしろい話だったよ」
 シフォンケーキにフォークをのばすゾーラに、ベルイはいった。
「ゾーラの故郷のことも、少し、想像ができた。だけど、おれは、今のを、恥ずかしい話だとは思わないな」
「そうだな。たしかに、恥ずかしい話ではないかもしれないな」
 フォークが、軽くシフォンケーキを押しつぶしたところで止まった。
「ひとに……誰かに聞かれるのは、少し、気恥ずかしいような気もするが、まあ、おもしろがってくれるひとがいるのなら、ああ、ベルイくんはきつねだけどな、それなら、よしとしよう」
 ゾーラは、わはは、と高らかな笑い声をあげた。それから、ようやく、シフォンケーキを口へ運ぶところまでたどり着いた。
「どうだい?」
 ベルイは、期待をこめて聞いた。
「旅自体は、なかなかおもしろくて、楽しいよ」
 ゾーラは、ベルイの質問に答えるため、ほとんど噛まずに、シフォンケーキをごくりと飲みこんでしまった。ベルイは、自分の質問が、ちがう意味にとられてしまったらしいと分かって、がっかりした。シフォンケーキの感想が聞きたかったのに、聞けるのは当分先になりそうだ。しかし、ゾーラは、もう一口、大口を開けてシフォンケーキを口に入れ、ううん、うまい、と聞こえるようなことを、もごもごといった。ベルイはそれで、満足した。
「金は、」
 シフォンケーキを、またごくりを飲みこむと、ゾーラはまた口を開いた。
「金は、用心棒などをして稼いでいるんだ。案外、需要があるみたいでね。わたしも驚いたことに、わたしが武人の国アルメルの人間だと聞くと、と、いっても、わたしが名乗る前から、相手に知れていることがほとんどなんだがな、不思議なことに。それだけで、かなりの金額をはらってくれる者がたくさんいるんだよ。
 しかも、たとえば、物を売りに行く途中の商人の用心棒をするときなどは、わたしは、ただ、荷物と一緒に、馬車の後ろへ座って、ごとごと揺られているだけでいい。商人は、この山には山賊がうじゃうじゃいて、危険ったらありゃしない、というんだ。ここを通ろうなんて、ばかか、槍で突き殺されたり、剣で切り裂かれたりしてみたいやつ、それか、自分が、百万馬力に強いか、百万馬力に強い用心棒を連れているかするときくらいなものだ、とね。
 だけど、それはうそさ。商人の取り越し苦労さ。実際、商人のお供をして、馬車に揺られてみれば、山賊どころか、ちんぴらの一人現れやしない。うっかり、わたしは居眠りをしてしまったくらいだ。うん、それは、秘密だがね。
 わたしは、一働きもしていないというのに、むしろ、馬車に乗せてもらったお礼に、こちらがお駄賃をはらいたいくらいだというのに、連中ときたら、最後は、袋にいっぱいの金貨をつめて渡してくれるんだ。わたしは武人の国生まれの武人の中でも、とびきり弱いんだってことは、最初に断っているんだがね、それでもさ。戦わなくてすむんで、わたしの弱さが露呈しないですんでいるのは、わたしにとって、運がいいのか悪いのか。わたしがいれば一日ですむところ、わたしなしで迂回路を通っていたら、一週間、お金も、わたしにはらった金額の、倍の倍はかかっていた、というから、まあ、それならと思って、受け取ることにしているよ。旅にはお金がいるし、楽に稼げるのなら、それに越したことはないからね。連中にとって、一番の安上がりは、用心棒なんて無駄に荷物になるだけのものを乗せないで、一番の近道を行くことだというのに。まったく、わたしは、詐欺をやっているような気分になってしまうよ。いや、ほとんど、詐欺も同然さ。
 まあ、連中、商人たちにとって、用心棒というのは、魔除けのようなものでもあるんだろう。だからわたしは、いつも魔除けになったつもりで、馬車の上にくっついているよ。とはいえ、わたしは、たしかに武人の国生まれの武人だが、しかし、そうであってないようなものなんだから、ますます人をだましているような気がしてしまう。さっきもいったとおり、武人の国の出身だと聞くと、みんな、ふつうの倍以上の金額を出してくれるんだからね。ほんと、我が故郷、武人の国アルメルには、助けられたものだ」
 ゾーラは、おかしそうに、ふふふっと笑った。ベルイも、ゾーラの話がおかしくて、ふふふっと笑った。ベルイは、虎の威を借るきつねの話を思い出した。山で山賊が現れないのは、たぶん、ゾーラがいるからに他ならないのに、ゾーラ自身は、まったくそのことに気がついていないらしい。

3 声

 しかし、ベルイは、次のゾーラの発言で、飛び上がりそうになった。
「ところで、声、の話なんだがね」
 ゾーラはいった。あれは、ベルイの独り言だったのだ、ということで、話は決着して、それ以上の追求は免れたと思っていたのに。
「あー、声、ねえ」
 ベルイはうなった。
「そう。わたしはさっき、声を聞いたのだよ」
 ゾーラは、ソファの背にもたれたまま、ベルイをまじまじと眺めながらいった。
「あれが何だったのか、気になってしかたがないんだ。ベルイくん、あれは、一体なんだったんだい?」
「あれは……ええと、あれ、というと?」
 ベルイは、意味のない時間かせぎをした。
「湖の声のことさ」
「湖の、声?」
「ああ、ここへ登って来る途中、湖をみたんだ。いや、湖というより、沼というのかもしれない。周りをほとんど、ヨシやらの植物で覆われていて、水面もほとんど隠れていた。水面の見えるところは、一本の道のような形になっていた。わたしは、奥がどうなっているのか気になって、ボートをこいで、道の先を進んでみた。そう、沼のふちには、ボートが一艘泊まっていてね、それを拝借したのだよ。沼で釣りをする誰かのものだろうと思ったのだが、どうやら、少なくとも、ベルイくんのものではなさそうだね。
 やがて、道の入り口は見えなくなり、見えるのは、前も、後ろも、植物の壁でできた道だけになった。道といっても、くっきりしたところもあれば、ほとんどは、なんとか、道として認識ができるくらいなもので、ボートに座ったわたしの頭より、ずっと背の高い植物がうっそうと茂っていた。沼がどれくらいの広さなのか、まったく分からなかった。分かれ道もあったが、わたしは、適当な方を選んで進んでいった。道の幅が、ボートの幅よりも狭くなるところもあった。そのときは、ボートを少し斜めにして、そう、バランスをとりながらね、わたしは、進んでいった。そうやって、ときどき、頭に垂れ下がってくる植物の葉をはらいのけたりしながら進んでいるときだった。そう、声が聞こえたのは。わたしは、反射的に、ボートをこぐ手をとめた。じっと耳を澄ました。空耳だろうか、と思ったんだ。しかし、それは、空耳ではなかった」
 ゾーラは、言葉を切ると、前のめりになり、残っていたシフォンケーキをまたばくりと口に入れ、飲みこんだ。そして、そのままの姿勢で、話を続けた。手ににぎったフォークは、まだ口の前にあった。ベルイは今や、耳をぴんと立てて、ゾーラの話に聞き入っていた。
「その声は、なんといったらいいのだろう、魅力的な声だった。人を惹きつける声だった。思わず吸い寄せられるような、ぞくりとするような声だった。低い、女の人の声のようで、深みがあって、そう、まるで海のような深みがあって、それでいて、まったりもったりしていない、眠たげな感じのしない、どこか澄んでいて、やわらかな貫禄のある、優しい声だった。ずっと聞いていたくなるような……身を預けたくなるような、安心感のある声でね、わたしは、リーダーの声だと思った。お頭の声さ。いや、わたしの知っている、お頭の声ではないよ。ただ、顔も知らない、現実に存在しているわけではない、でも、お頭の声さ。そう、思ったんだ。
 その声は、歌詞のない歌を歌っていた。わたしは、催眠にでもかけられたかのように、ぴったり停止したまま、しばらくその歌に聴きっていた。それから……それから、歌の聞こえる方へ、つまり、道のさらに先へ、進んで、近寄ってみようか迷った。だけど、わたしは、勇気が出なかった。急に怖くなってしまったんだ。声の正体が分からなかったからね。アンコウのように、巨大な怪物がわたしを待っていて、対抗する間もなく、ボートごとばくりと食われるところを想像した。わたしは、逃げるように来た道を引き返した。ほとんど考えなかったのに、帰り道は間違えなかったらしい。気がついたら、ボートを乗り捨てて、沼のふちに立っていた。体がふるえていた。知らないうちに、冷水を浴びたのではないかと思ったくらいに。だが、服も髪も、わたしはどこもぬれていなかった」
 ベルイは、じっと考えこんだ。ゾーラの話は、うそなのか、誠なのか。しかし、ベルイには、ゾーラが作り話をしているようにはみえなかった。ゾーラが、沼で聞いた不思議な声とは、一体何だったのだろう。ベルイには検討がつかなかった。サクラの木であるキルシュがしゃべるように、沼の植物が声を発していたのだろうか? それとも、沼に住む何かの生き物……もしかすると、沼に住む妖精、などが、歌を歌っていたのだろうか? ゾーラが想像したように、沼の怪物が、ゾーラをおびきよせようとしていたのかもしれない。ベルイの想像は、ふくらむ一方だった。

「声のことを、何か知らないかい?」
 ゾーラが尋ねたが、ベルイは、首をふるしかなかった。
「いいや、知らないな」
「そうか。あれは、とても……とても不思議な体験だったよ。あんな不思議なことは、生まれて初めてだった。そうだな、旅の土産話にしよう。わたしを負かしたニーナだって、夢中になって聞き入るにちがいない。そう、七つ年下のニーナさ。いや、だけど、くだらないっていうかな?」
 ゾーラは、首をかしげて、ちょっと考えた。
「これから、ボンゾ村ってところに行くところだったんだ」
 ゾーラはいった。
「もうちょっと北へ進んだところにある、山間の小さい村さ。ええと、地図がたしか……わたしを雇った商人がくれたんだ。……そう、これ。一つだけだが、宿もあるみたいだし、しばらくはここへ滞在しようと思っている。ここからそう遠くないし、ベルイくん、もしよかったら遊びにきておくれ。わたしも、君のところへ遊びに行くかもしれない」
「ああ。この村は、おれの親友が住んでいる村だよ。ルースっていうんだ」
「ルース。分かった。ベルイくんの親友だってことは、きっといい人なんだろう。そんな気がするよ。その名前、しかと覚えておく。ところで、ボンゾ村には、あの声のことを知っている人がいたりするだろうか? たとえば、その、君の親友のルースとか?」
「分からないな。少なくとも、ルースからその声のことを聞いたことはない。だけど、ボートがつけてあったってことは、ボンゾ村の人間かどうかは分からないけど、その沼を知っている人がいるってことだ」
 ベルイの好奇心がうずいた。
「ゾーラ、一つ、仕事を頼みたいんだけど、いいかい?」
「仕事? ああ、いいとも。だけど、この紅茶を飲んだあとでね」
「今から、おれ、その沼へ行ってみようと思うんだ。だから、ゾーラは、その道案内と護衛をしてくれないかな」
 紅茶をすすっている最中だったゾーラは、げほっと一度むせこんだ。
「わたしに頼むのかい? ついさっき、まさにその沼から、怖くて逃げ出してきたわたしに?」
「ああ。魔除けになってくれればいいんだ」
「まあ、そうだな、もう一度行ってみるのも、いいかもしれない」
 ゾーラは、考え考えいった。
「それに、わたしが想像してしまったように、もしもほんとうに、あの沼に怪物が住んでいて、ベルイくんを襲ってきたとして、ベルイくんを守る者がいないのは、困るからな」
「魔除け以上の仕事をしてくれるのなら、それはそれでありがたいけど、おれはただ、二人の方が心強いと思っただけだから、できれば、怪物には出会わないように帰ってこよう」
 ベルイは、道案内はよかったが、護衛を依頼したのはよけいだったな、と、自分の発言を後悔した。勢いで、ついいってしまったのだ。誰かに守られるのは落ち着かない。自分の身は自分で守る方が、気が楽だった。
「だが、出会わない保証はない。万が一のときは、わたしが最後まで責任を持って、ベルイくん、君のことを守り通そう。わたしは弱い。だけど、用心棒として、最低限のことはするさ。武人の国育ちの人間として、いや、わたしは、武人の国の武人だとは、とても名乗れないような軟弱者だが、それでも、人生の大半を鍛錬に費やしてきたことはあるし、怪物の一匹や二匹を撃退するくらいの役には立てるだろう」
 ゾーラは、急に、少し元気づいたようだった。ゾーラが、紅茶をぐいと飲み干してしまうと、二人はさっそく出発した。

4 声の正体

 ベルイは、すたすたと、エルフのような軽やかさで山道を進んでいくゾーラのあとをついていった。ゾーラの体は、重たくもあり、軽くもあるようだった。トラのように重たく、パワフルで、サルのように軽く俊敏。平地に慣れたたいていの人間が躊躇し、足止めを食らうような急斜面も、ゾーラにとっては、道端の小石と同じくらい、気に留めるまでもないものらしかった。
「山道、慣れてるんだな」
 ベルイは、後ろから話しかけた。
「山育ちだからな。アルメルは、山岳地帯の国だった。平らなところの方が少ない場所だったよ。わたしの家の裏は、崖っぷちだった。下をどうどう暴れ竜のような川が流れていてね、毎朝、目が覚めると、真っ先にその川を眺めるのがわたしの日課だった。ちょっと体を起こして窓の下をのぞと、ほとんど真下に、激しい川がしぶきをあげているのがよく見えた。川を見ると、いつも、なんだかほっとしたような気持ちになったものだ」

 沼には、たしかに、ゾーラのいったとおり、木製の手漕ぎボートが一そう泊めてあった。二人はボートに乗りこみ、植物の壁でできた道を進んでいった。ベルイはボートのへさきの方へ座り、流れていく草の壁を横目に、一本のオールでボートの右と左を交互にかきながら、旅での出来事を楽しげに語るゾーラの話に耳を傾けていた。
 ベルイは、少し驚いていた。ゾーラのボートのこぎ方は、ベルイの知っているものとはちがっていたが、それはともかく、ベルイは、ボートを進めているのは、ほんとうにゾーラなのだろうか、と疑いたくなった。水中から巨人がボートの底をつかんでいて、ゾーラが水をひとかきするのに合わせて、ボートを推し進めているのではないかしら、と思わざるをえないほど、ボートは、静かに、ぐいぐいと驚くほどの速さで進んでいた。そして、ボートを進めているはずのゾーラは、汗の一滴もかいていないようなのだった。ベルイは、目を少し見開いて、考えた。ゾーラの肉体には、一体、どれほどのパワーが秘められているのだろう。ゾーラの腕は、たしかに、太くてたくましかったが、どうやら、見た目だけでは、その力を計り知ることはできないらしかった。ベルイは、ゾーラのそれよりも、二倍も三倍も太くて、大きな腕をみたことがあったが、ベルイの知っているどんな腕も、ゾーラほどの怪力を持ちあわせてはいなかった。

「聞こえる!」
 突然、ゾーラが小さく叫んだ。ボートをこぐ手をとめ、静止した。周りは、ぼうぼうと生えた草と、青緑色の水面しかみえなかったが、ベルイも、それを聞いた。しかし、それは、ゾーラが話したような、思わず吸い寄せられるような、ぞくりとする声ではなかったのだ。声が耳に入った瞬間、ベルイには、その正体が分かった。
「ほら、聞こえるだろう?」
 ボートから身を乗り出していたゾーラが、興奮した目でベルイをふり返った。
「いいや、まあ、聞こえるが、聞こえない」
 ベルイは、口元をぐにゃりと曲げて、苦笑していた。
「聞こえるが、聞こえないって、どういう意味だい? ベルイくん」
「うん、そうだな。声は聞こえるんだけど、おれには、ゾーラが聞いているのとは、ちがう声が聞こえるんだ」
「ちがう、声? そうすると、ベルイくんには、どんな声が聞こえているんだい?」
「それは、ちょっと、表現ができないな。だけど、いってしまえば、おれには、おれの声が聞こえているよ。ゾーラが聞いているのは、ゾーラ。ゾーラ自身の声さ」
「わたし、自身の声? まさか」
「まさかじゃないさ。歌を歌っているのは、こだまの花って呼ばれている、魔法の花だ。おれも、話に聞いたことがあるだけで、実際に出会ったことはなかったけど、それ以外には考えられない。こだまの花は、近づいてきたやつから吸いとった声を使って、歌を歌うんだ。歌を歌って、そいつをもっと引き寄せる。それで、そいつから、もっと声を吸いとる」
「声を吸いとる?」
「うん、こだまの花は、声をエネルギーにするんだよ。ゾーラ、もっと近くへ行ってみられるかい? ひと目みてみたい」
「ああ、いいけど、その、こだまの花とやらは、声を出していなくても、人やきつねから声を吸い取れるのかい? 最初に声を聞いたとき、わたしは声を発していなかった」
「そうだな、声を出していなくても、やつは声を吸いとる。やつが吸いとるのは、音じゃないのさ。正確にいえば、生き物がもっている、魂のエネルギーのようなものを、吸い取っているんだ。だけど、少し吸い取られるくらいなら、問題はないよ。時間が経てば、ちゃんと回復する。吸い取られすぎると、精力を失って動けなくなるみたいだけどな。程度を守れば、永久に沼に浮かぶようなことにはならないさ」
「よし、じゃあ、行ってみよう。だけど、この沼には、その、こだまの花とやらの餌食になった生き物の化石が、たくさん埋まっていたりするのかなあ?」

 急に、視界がぱっと開け、声が一段と大きく、明瞭に聞こえてきた。おっと、これは、思っていたよりも吸い取られていそうだな。ベルイは思った。
 そこは、大きな、円形広場のように開けていて、まるで、沼の中に、もう一つの沼、いや、湖が、浮かんでいるみたいだった。水面はなめらかで、寒い日の光を穏やかに反射していた。そして、湖の真ん中、ちょうど、円形広場の中央に、灰色の小島があり、小島の上に、花が一輪、どころか、小島を覆いつくすベールのように、白バトの羽毛のような花が、びっしりと咲き乱れていた。
「あれが、そうか。ふわふわして、砂糖みたいだな」
 ゾーラが、花を見ていった。
「あんな風に群生するなんて、知らなかったよ」
 ベルイは、すっかり感心してしまっていた。
「しかし、これがわたしの声だとはね。……わたしは、自分の声のことを、どんな風にいっていた?」
「思わず吸い寄せられるような、ぞくりとするような……」
「ああ、穴があったら入りたいよ。今聞いてみると、ひどい声だ」
 ゾーラは、顔を赤くした。
「まあ、自分のことには、案外気がつかないってことさ」
「うむ、わたしは、案外、いい声をしているかもしれないってことか。練習すれば、こんな風に歌えるようになるんだろうか?」
「まあ、そうかもね。だけど、今聞こえているような声が、実際におれたちに出せるかどうかは、別問題だよ。ほんとうのことをいうと、ゾーラが、自分の声に気がつかなかったのも無理はないんだ。おれたちがふだん聞いているのは、おれたちが自分でのどをふるわせて作る、音としての声、つまり、音声でしかない。おれたちは今、音声を介してしか聞いたことのない、自分の魂の声を、直接聞いているようなものなんだ。まあ、おれは、ゾーラから、声がどんなだったのかを聞いたとき、まっさきに、ゾーラみたいな声が聞こえたんだなって思ったけどな。おれ、さっきまで、ずっとゾーラみたいな声が聞こえてくるのを期待してた。どちらにせよ、分かったんじゃないか? 声は、魂を写す。空っぽで無価値な人間の声は、ゾーラみたいな声にならないと思うね」
「ベルイくんは、そう思うのかい。……うん、そうだな、そうかもしれないな。わたしにも、何かしらあるのかもしれない。弱い武人にも、一応の価値ありってわけだ」
 ゾーラは、だまりこんで、ちょっと考えた。
「わたしが弱いことにも、何かしらの意味はあるのかもしれないな。考えてみると、これは、自分でいうのもおかしな話なんだが、わたしを負かしたニーナが、わたしと同じ年齢になったとき、果たして、わたしみたいな声になるかというと、もちろん、同じ声質になるかどうかという話ではなくて、まず、のどの形がちがうからね、そうではなくて、わたしみたいな……」
「思わず吸い寄せられるような……」
「とにかく。とにかく、わたしみたいな声になるかというと、どうも、なるとは思えないのだ。まあ、わたしみたいな声になったところで、役に立つことがあるとは、思えないがね」
「役に立つことは、問題じゃないさ。それに、すでに、十分役に立っていると……」
 ベルイは、最後までしゃべり切ることができなかった。突然、ボートがぐらりとゆれ、ベルイは、つんのめりそうになった。ボートのふちに前足をかけてふんばると、ベルイは、顔をあげた。
「何だ?」
「何か、怪物だ。花を守っているのだ。一輪摘んでいこうと思っていたのに」
「摘んでいく、だって?」
「ああ、押し花か、ドライフラワーかにして、旅の土産にできるようにさ」
「ゾーラ、正直にいって、それは、正気の沙汰じゃないね。おれたちの方が、先にドライフラワーになってしまうよ」
「それは困るな。じゃあ、あきらめて帰るとするか。怪物くんも出てきたことだし、潮時だろう」
「いや、だけど、ゾーラ、それも簡単じゃないみたいだ。この怪物、花を守っているというよりは……おれたちを、ここから逃さないつもりだ」
 ベルイの口角が、だらりと垂れ下がった。花の咲いた小島の前の水面に映っていた、ボートの五倍はあろうかという巨大な黒い影は、ゾーラがボートの向きを変えたとたん、その進路を妨害するように、するりと前に移動してきた。
 平らだった湖のおもてが山のように盛りあがり、怪物がワニのように、目玉を水の上にのぞかせた。それから、ゆっくりと上昇してきた。
「今気づいたって、もう遅い」
 ワニのようなその生き物の頭が、あらわになった。ごつごつとしていて、あごが、ワニのそれよりもずっと大きくて、まさに、アンコウのようだった。口には、太くとがった、巨大なきばが、ずらりと並んでいる。
 ベルイは、ちらりとゾーラをみた。ゾーラの表情は、眉がちょっと持ちあがっている以外、ほとんど変わっていなかった。ワニのようなその生き物の言葉が聞こえたのか、ベルイには分からなかった。
「今気づいたって、もう遅い」
 ワニのような生き物は、繰り返した。
「あたしは、チェルシー。あたしとその花たちはね、ウィンウィンの関係なのさ。もう分かるだろ? あたしのやることは、ここで、えものが逃げないように見張っていることだけ。花たちが、十分に栄養を吸い取れるようにね。そして、あたしが、ごちそうにありつけるようにね。もちろん、逃がしはしないわ。わけのないことよ。あんたたちの体は、もう思うようには動かないはずだもの。どんなに速い魚だって、この湖にひれを踏み入れたものは逃したことがないあたしのことよ、あんたらを捕まえることなんて、三度の昼寝よりも簡単だわ。ええ、もう、頃合いかもね」
 チェルシーと名乗ったワニのような生き物が、がばりと大口を開けた。ベルイは、ぎょっと目を見開いた。ベルイはそのときになって、自分の体が、すでに鉛のように重たく、動かせないことに気がついた。ベルイの視界を、チェルシーのがばりと開けた赤い大口がおおいつくしていた。ボートごと、ゾーラとベルイを飲みこむつもりなのだ。
 ベルイの体が、宙に舞いあがった。気がつくと、見えるのは、チェルシーの鼻の先だった。ベルイは、チェルシーを見下ろしていた。ベルイは、ゾーラに抱えあげられ、ゾーラは、水の上に立ちあがったボートの先っちょに、立っているのだった。ボートは、ふつう、あんな風に水の上に立つものだっただろうか? しかし、そんな状況を理解する間もなく、ゾーラは、今度は、チェルシーの鼻の先の上に立っていた。チェルシーは、そのまま、押しこめられるように、水の中へ沈んでいった。
 ゾーラは、いつの間にか元のとおり浮かんでいたボートの上へ、ひょいと飛び戻った。
「最近は、甘えた戦いかたばかりしていたからね、ちょっとなまったかな?」
 ゾーラとベルイを乗せたボートは、沼に浮かぶ円形の湖をあとにした。

5  武人の印

 ベルイは、歩くのもままならない状態だったので、帰り道は、ゾーラの左肩に乗せてもらった。
「ベルイくん。今日はありがとう。そうだな、不思議で、意味のある……体験をしたよ。あのとき、わたしが旅に出るきっかけを作ってくれた、あの小さな花との出会いより、ずっと派手で、スリリングな体験ではあったけれど、今日のことは、あのときと同じように、わたしのもう一つの契機になりそうだ。わたしは、何もない人間じゃない。それが分かったからね。それに、もう一つ、分かったことがある。それは、わたしは、体を動かすのが好きだってことだ。武術を愛し、自分の武術と鍛錬の歴史を、誇っているということだ。わたしは、武術をあきらめてない。
 ……うむ、考えたんだが、今までわたしは、他人のやり方で強くなろうとしてきたのだ。わたし流のやり方を試してこなかった。探そうともしてこなかった。それでは、だめだったんだ。旅に出てから、自分と向き合うようになって、分かってきたのは、わたしは、優しい戦い方の方が好きだってことだ。優しい戦い方とは、どんなものかって? うん、そうだな、優しさと戦いは、一見、相反するもののように思える。実のところ、どう戦えばいいのか、わたしにも、まだよく分かってはいないのだ。だが、一ついえるのは、わたしは、相手をあまり痛めつけたくないと思っているってことだ。どうやら、故郷で学んできた、今までのやり方で強くなれるほど、わたしは攻撃的になれないみたいなのだ。
 わたしは、もうしばらく、旅を続けてみようと思う。自分のことが、もっとよく見えるようになるまでね。そして、わたしはわたしのやり方で、もっと強くなってみようと思う。まあ、のんびりやるさ。今までは、ぎちぎちに詰めすぎていたから。うん、馬車の上でのらりくらりやるのも、わたしが強くなる上では、役に立つ、意味のあることなのかもしれない。少なくとも、わたしの性に合っていないってことは、ないみたいだ」
 ベルイの住まいである丸太小屋の前へたどり着くと、ゾーラは、ベルイを降ろした。
「調子はどうだい?」
「まあ、半歩くらいは、歩けそうだな」
「それはよかった。少なくとも、立ってはいられるみたいだね。ベルイくん、今日はありがとう。お金はいらないからね。ほんとうは、わたしがベルイくんについていったんじゃなく、ベルイくんが、わたしについて来てくれたんだ、そうだろう? 反対に、わたしの方からお礼がしたいよ。これ、わたしが昼飯に食べようと思っていたおにぎりだ。高菜の漬物が混ぜてある」
 ゾーラが、巾着袋の中から、竹の皮で包まれたおにぎりを取り出し、ベルイに差し出した。ベルイは、この前のロット・ブラウニー氏といい、人間というのは、どんなときにお金を受け取るものなのだろう、と分からなくなりかけながら、おにぎりを受け取った。
「ゾーラのお昼は?」
「おにぎりは、もう一つあるから。それから、ボンゾ村の食堂へ行ってみようと思っている。きのこの鍋がうまいという話を聞いた」
「ああ、それなら、ルースの両親がやっている店だよ。ルースが太鼓判を押していたから、まちがいはないと思う」
「思う、って、ベルイくんは、行ったことがないのかい?」
「……まあね」
「そうだ、もう一つ、ベルイくんに渡すものがあった。これ」
 ゾーラは、腰にいくつもぶらさげていたメダルのようなものの一つを取った。
「これは?」
「武人の印だよ。友情の証さ。誰か、ベルイくんを襲ったり、傷つけたりしようとするやつがいたら、その印を見せてやるといい。うん、わたしみたいに、腰か、体のどこかにぶらさげておくのも、いいかもしれないな。そうすれば、誰もベルイくんに、手を出すことなんかできないだろう。アルメルの武人の友だちがいるってことは、そういうことさ」
「ありがとう、大切にするよ」
 ベルイは、印を、自分の腰にあてがってみた。印は、黒く、金属でできていて、メダルのようでもあり、輪っかのようでもあった。よくあるメダルのように、板になっているのではなく、金属でできた輪っかの中に、切り絵のような模様が、浮かんだ形をしているのだった。模様は、星空だった。繊細な作りだった。
「さあてと、これで、わたしはお暇するよ。大鍋、小鍋……うん、楽しみだ」
 ゾーラは、手をふって去っていった。ベルイは、なんとなく、ゾーラが、村の人たちの口をあんぐり開けさせるほど、食べ過ぎないといいけど、と思った。ゾーラが大食いだと知っているわけではなかったが、なぜか、ベルイの目には、ゾーラの横に、からになり、うず高く積まれた皿の山が、見えるようだった。

 ベルイが、庭先のベンチに腰を下ろすと、キルシュがさっそく口を開いた。
「なんだい、ベルイ、いいものもらったじゃないか。うらやましい」
「キルシュには必要ないだろ? おにぎりも、武人の印も」
「おれはあんたみたいに、物をもらったことなんかないぜ」
 ベルイは、きょろっとキルシュの方を見て、また、何事もなかったかのように、前へ向き直った。そして、武人の印を鼻の先へかざして眺めながら、いった。
「これも、赤い毛のおかげかな」
「毛が赤いだけじゃ、だめさ。ところで、ベルイ、声はどんなだったんだ?」
「声?」
 ベルイは、湖で聞いた、自分の魂の声のことを思い出した。
「どんな声だったのかは、教えてやらないよ。でも、向こうで何があったのかは、教えてあげる」
 ベルイは、白い歯をのぞかせて笑った。

 (おわり)



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