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自分の言葉を書くむずかしさ

 (いつも長めな文章を書いてしまうので、今回は、なるべく簡潔に、短く書ければいいなと思います。)
 
 クリスマスお正月がもうすぐで、想像すると温かな気持ちになります。楽しみです。

(この文を書き始めたときは、まだクリスマスまで一週間以上あったのですが、気がつけばもうあさってはイブになってしまいました。)

 わたしは、季節のイベントや節目の行事などに、それらをできるだけ大切にしたい母と比べてほとんど関心が薄いのですが、クリスマスとお正月、とくに、クリスマスだけは特別なようで、わたしの重要な関心事になっています。ショッピングモールなどのクリスマスムードも結構好物なのですが、家のぬくぬくした空気感が、たまらなく好きなんですよね。去年のお正月は色々あって一息とつくことができなかったのですが、今年は存分にぬくぬくできるといいなと思っています。あと、クリスマスはもちろんケーキですね。社会人になって自分で稼いでいる分があるのもあり、今年は自分用にアクセサリー(指輪)も買ってしまいました。ただの小さい輪っかがこんなにするんだもんなと、自分で買っておいてなんだかびっくりですよ。それから、家族に押しつける用のプレゼントも買いました。ラッピング用の袋を買っていないので、ちゃんと間に合うように用意しないとな。(追記 ちゃんと用意はできました。あとはダンボールを開けてラッピングするだけです。)お正月は部屋の片付けと、映画も観に行きたいなあなんて思ったりしています。

 さて、本題ですが、物語を書いていて最近気がついたことがあるので、自分用のメモも兼ねて、今回はそのことについて少し書こうと思います。(クリスマス、あるいはお正月について延々と語れそうな気がしてきてしまったところなので、そうしてもよかったのですが。)

 最近気がついたのは、自分の言葉と考えで書くことって、案外難しいかもしれない、ともすると、自分の言葉と考えを書くことをためらっていて、どこかで聞いた別の誰かの言葉を語り、考えをそれらしく書いてしまいそうになる、ということです。

 例えば、キャラクターのセリフ。本やマンガや、物語をそれほどたくさん知っている人ほどには知らないわたしですが、物心がついたときには、すでに日常的に物語というものに触れてきた中で、一番簡単な例でいえば、おはようといわれたらおはようと返す、というように、こういうときには、こういう受け答えをする、というテンプレートのようなものが、自分の中の知識というか、情報のストックとしてあるように思います。それらは、物語に触れてきた中で、というよりも、これまで生きてきた中で、蓄積されたもの、といった方が妥当かもしれません。そうしたストックは、仕事などでは役に立つかもしれないし、うまく活用するに越したことはないかもしれないですが、気をつけたいのは、それらは、自分の言葉でも考えでもないし、はたや、キャラクターの言葉、考えではないということです。もちろん、そういう形(かた)どおりのセリフをまったくはかないキャラクラーというのも、それはそれで不自然かもしれませんが、大げさにいえば、形(かた)どおりのセリフしかはかないキャラクターは、見てもあまりおもしろくないだろうなと想像します。

 そしてセリフに限らず、話をもっと広げると、キャラクターの考え方、分かりやすい例でいえば、正しさに関する考え方にも同様のことがいえるのではと思います。もちろん、セリフにしても、正しさにしても、どの物語にもそれぞれ個性があるのは確かですが、物語に触れる中で、そして、生きている中で、正しさのテンプレートみたいなものが、知識として蓄積されていく。それは、明確な形をもったものではない、ほとんど実体のないようなものかもしれないけれど、いわゆる、一般論といえるものなのかもしれません。蓄積されていくのは、そうした一般論に限りませんが、物語に触れたり、生きている中で、自分の中には、別の誰かの正しさが、情報のストックとしてたまっていくのです。そして、物語を書いたりなどしているとき、うっかりしていると、それらのストックから「正しさ」をそのまま持ち出してきそうになる。暗記した教科書の内容から、そのまま、テストの答えを持ってくるときのように。と、いうより、自分の正しさにしても、それらのストックの中から、選び取らなければならないような気がしてしまう。今はもうあまりそんな気がしてしまうこともほとんどなくなったように思いますが、少し前までは、そんな気がしていたような気がします。自分のゆらぎないはずの正しさが、正しさのストックたちに、見えない力で攻撃され続けている、そんな感覚でしょうか。自分の考えははっきりしているはずなのに、常に不安感がつきまとっている、そんな感じでした。年のせいかもしれません。

 ですが、物語を味わうとき、読書でいえば、わたしが味わいたいのは、一般論でも、作者とは別の誰かの考えでもなく、作者の個人的な考えや考え方であり、また、そのキャラクターの考えや考え方なのです。それは、物語を味わう多くの人が、ある程度は同じなのではないかと想像したりします。もちろん、物語の役割というのは、一つではなく、一般論を語ったっていいし、いろんな人の意見をまとめたような、あるいは、盛りこんだような作品だって、世の中にはたくさんありますよね。もちろんそこには、作者個人の考えや考え方が、組みこまれてくるかもしれませんが。

 それはさておき、物語や文章を書くときには、他の誰でもない、自分はどう思っているのか、どう考えているのかを、疲れない程度に少しは振り返ってみることも大切かもしれない、そうしなくても、自分には考えていることや思っていることがあるのだから、それを表現することに注力するようにしよう、と、改めて思ったという次第です。改めて思った、などと書いたのは、書いているうちに、冒頭には、気をつけないと、どこかで聞いた別の誰かの言葉を語り、考えをそれらしく書いてしまいそうになる、なんてことを書きはしたけれど、すでに、自分の言葉と考えを書くことには、わりと気を使っているような気がするな、と気がついたからです。例えば、言葉に関して、それが自分の考えや思い、あるいは、感じていることを正確に表現した言葉かということには、いつも、比較的気を使って書いているように思います。今も、「テンプレートのようなものが、自分の中の知識というか、情報のストックとしてあるように思う」と書いた部分を、最初は、「テンプレートのようなものが、刷りこまれている部分があるように思う」と書こうとしたのですが、それは違和感があったのでやめました。文章の流れとして、蓄積の中から、「刷りこまれている」という言葉が脳に浮かんできてはしまったけれど、「刷りこまれている」はちがうな、そういう感じはしないな、と。(もちろん、刷りこまれている部分もあるだろうとは思いますが。)

 ただ、自分の考えを書くことにためらいがあったのはたしかで、昔ほどではないにせよ、そのことに気がついた今となってはとくに、それほどではなくなるかもしれませんが、今もまだ、ためらいは残っているかもしれません。自分の考えていること、思っていること、感じていることを恐れずに書くこと。自分の中にある恐れというか、自分の中で、よく分かりもしない、また、ありもしない「ふつう」にすり寄せようとして、ほとんど気づかないうちにかけてしまっているセーブに気がつき、それを取り払うこと。そういったことを、もちろん疲れない程度に、これからも意識し続けながら、文章を書いていきたいものだと思います。

 最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
 おいしいものをたくさん食べたいです。
 


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