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工学を学ぶ人が「公民」を学ぶことは意味があるか?



社会を学ぶ意味がわかりませんでした。

佐々木は小学6年生のときに、社会を学ぶ意味がわかりませんでした。

「1192 鎌倉幕府」
を覚えてなんの意味があるんだろうと、感じていました。
すでに終わったことで、800年も前のことです。
それを学んで、今の自分にどう意味があるのか、わかりませんでした。

中学受験を終えて、中学校の歴史の試験では、
先生は非常に好きだったのですが、
何を覚えていいのかわからず
点数が伸び悩んでいたことを覚えています。
年号覚えてもとれない問題だった気がします(多分気のせい)

ただ、公民(政治経済や倫理)はそれまでの歴史とは異なり「社会系科目なのに、結構人のことを学ぶんだなぁ」と感じていました。

この研究は誰を笑顔にするのか?

現在、高専教員という立場で、外部の競争的研究資金と呼ばれる財団や文科省が設けられる各助成金に応募します。

これは近視眼的には、研究費を獲得してより深く研究するためです。

ただ、助成金を書くときにとても大事なことが一つあります。

それは、審査員の先生方が読んで「この研究は何の役に立つのか?」をクリアに理解してもらうことです。

高専教員になって一番はじめに80万円の助成金をもらうための書類を書きました。

27歳で財団の助成金の書類を書いているときには、「この研究は何の役に立つのか?」をこじつけながら書いていたことを覚えています。

今思えば、随分粗がある書類でした。
ただ、当時の自分の精一杯でもありました。
非常に怖く「書いたけどできなかったらどうしよう」と感じていたことを覚えています。
100時間はかけたと思います。
結果は、不採択でした。

自分でも「この研究は何の役に立つのか?」をきれいに言い切れていないことを感じました。

いろんなきっかけがあるなかで、
「この研究は何の役に立つのか?」
と言う言葉から、
「この研究は誰を笑顔にするのか?」
という言葉の方が自身にはしっくり来ることがわかりました。その言葉を明確に意識し、真正面から答え切れる頃には、書類が書きやすくなり、ありがたいことに採択の通知が増えました。

笑顔はどこに生まれるか?

誰か困っている人がいて、その人が喜ぶものをつくる。
それがものづくりで、その一つの手段が工学だと思います。

じゃあ、人はどこに困っているか?
それは、
「社会の需要や産業、文化が変わりゆく中で、制度や保障では充分サポートできない人」
だと感じます。

例えば、橋梁補修の研究がそうです。
少子高齢化が進む中で、地方自治体は税収が少なくなり、働き手も少なくなります。
一方、橋梁を含むインフラの老朽化は進みます。
国民全員が笑顔で暮らすためには、老朽化を緩和する必要がありますが、資金と働き手が少ない中では、維持管理をすることが容易ではありません。
そこで、短時間で安価に延命できる簡易補修が必要になります。

この筋書きを思いついたのは、必死に助成金書類を書く調査の中で見つけた、一つの記事でした。

地方では、橋が一つ渡れなくなると言うだけで、おばあちゃんは近くのスーパーまで8キロ迂回する必要がある、という記事です。

少なくともこの研究が出来れば、このおばあちゃんはきっと笑顔になるはずだ、そう感じました。今でも信じて研究しています。

日本そして世界には、まだ多くの社会的課題があります。

恩師のブログから「知的障害者のきょうだい」

それを教えてくれるのは、「公民」です。
社会的課題の歴史的文化的背景、制度で対応できる所と対応できない所、その対応できない所で困っている人々を学ぶ。

日本においては持続可能な社会を作ろうとする試みと、その試みの中で困る人々にどう向きあうか、社会制度と経済の立場から考える科目だと捉えています。

その人々の助力となる工学や技術開発は、明確に誰かを笑顔にするものであると感じます。

ですので、

工学を学ぶ人にも「公民」を学ぶ意味がある

そう思います。

アカデミックな内容であればあるほど、心の中に誰を笑顔にできるかまでイメージ仕切ることが難しいのですが、これからも常にそれを忘れないようにと思います。

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恩師のブログが大変価値が高く、色んな人に読んでほしいと言う思いと、自身の研究の立ち位置を再度明確にするため、筆をとりました。


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