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半世紀前に通った喫茶店から豆を取り寄せている理由

東京都は墨田区にある田畑書店は、本好きの心をくすぐる良書を届けてくれる小さな出版社。長年文芸誌の編集として数々の著名作家の担当をつとめてきた社主の大槻慎二さんは、近年「カフェの聖地」と呼ばれる東京都江東区の清澄白河に引っ越したものの「納得がいく味に出会えない」という話を前回のエッセイで吐露してくれました。今回は、大槻さんがコーヒー好きになった理由と、高校時代の思い出、そして自身の「原点」にもまつわる話。のどかな田園風景、昔ながらの喫茶店とコーヒーの香りなどを思い浮かべながら、ぜひ味わって欲しいエッセイです。

 ハンドドリップでコーヒーをれるのが好きである。使うのは円錐えんすい型のペーパーフィルターで、何の変哲もない淹れ方なのだが、「KONO式」のドリッパーに出会ってその世界が広がった。そのドリッパーには壁の内側に直線形の溝が刻まれていて、それらがどう作用するのかわからないが、他のものを使った時に比べると、味の透明度が格段に違うのだ。

 まず、手動のミルで豆をくところから始める。豆の状態によって粗挽き気味に微妙に調整を変えたり、沸騰した湯に水を若干加えて温度調節をしたりするのだが、そのすべてが自己流で、どこかに範を求めたことはない。頼りは豆の状態をよく観察することで、挽いた豆の表面に輪を描きながらゆっくり湯を落としていくときの豆の膨張の仕方、泡の出方を注意深く見る。つねに豆が活性化していることが大事で、少しでも疲弊した表情を見せたら湯の量や落とす速度を加減する。
 たったこれだけのことだが、実に奥が深い。これまでに何杯のコーヒーを淹れたか知れないが、自分の思い通りの味になったことはまずない。ゆえに我ながら会心の出来に恵まれた時は舞い上がってしまう。「もしかしたら、これが天職」とまで思い上がるほどだ。

 そこで肝心な豆のことである。
 豆はある喫茶店から取り寄せている。長野県伊那いな市にある「砂時計」という喫茶店で、豆の名前は「砂時計ブレンド」。深煎りだが焦げた感じとはほど遠く、酸味はなくてふくよかな甘味が透明感を伴って鼻腔びくうをのぼる。この豆があるせいで〈カフェの聖地〉のどのお店で豆を買っても「いまいち」か「そこそこ」になってしまう。

 伊那市は諏訪すわ湖から流れる天竜川が刻んだ伊那谷いなだにという大きな谷のほぼ中心に位置していて、東に南アルプス、西に中央アルプスの、いずれも3000メートル級の山並を望む街だ。「砂時計」は今でこそ「ウエストファーム」と名付けられた、雑貨店やパン屋、レストランが集まった、田舎ではかなりおしゃれな一画の中心におさまっているが、昔は違う場所にあった。
 実はこのお店に通い出したのは高校生の頃で、それはもう半世紀も以前のこと、堂々“昔”と形容してはばからない年月を隔てている。
 当時は「入舟いりふね」と呼ばれる土地にあった。そこは木曽から峠を越えて伊那谷を縦断する「権兵衛ごんべえ街道」という街道が天竜川と交差するあたりに生まれた飲屋街で、わずか1キロ四方にも満たない区画にスナックやバー、居酒屋が肩を寄せ合うようにごちゃごちゃと集まっている。今は知らないが昭和のころは、人口に占める飲食店の割合が大阪に次いで全国2位といわれていた。それもこの一画があってのことだったろう。

 「入舟」と名付けられた街は全国どこでもそうだろうが、ここが天竜川を使った水運の要だったことによる。さらにこの街を特徴づけているのは、吹き溜まりのような飲食店街のど真ん中を「飯田線」という単線のローカル線が貫いていることだ。この線は「ローカル線」や「秘境駅」、あるいは「廃線間際」などのテーマで雑誌やTVで特集が組まれれば必ず取り上げられる線で、辰野駅を起点とし、天竜川に沿って豊橋にまで至っている。

 「砂時計」はまさに権兵衛街道と飯田線のクロスするポイントにあって、1時間に1回は警報器が鳴り遮断機が降りる音と、遠くから聞こえてくる2両編成の車輌のガタンゴトンというのどかな音と振動に見舞われる小さなお店だった。
 田舎の高校生にとってひとりで喫茶店に入るのはかなりハードルの高い行為だった。行くのは土曜日、半日授業が終わって丘の上に立つ学校から割と急な坂を下って、市街地をゆく。「街に降りてくる」という表現が、週末を迎える開放感と相まってピッタリとはまっていた。
 街で食べるお昼ご飯は、決まって伊那谷のソウルフードと呼ばれている「ローメン」だ。焼そばとラーメンの中間ほどのカンスイ強めの太麺を、キャベツとマトンとともにソースで炒めた独特の食べ物である。お店で注文するのは「チョウ」か「チョウチョウ」、すなわち「超大盛り」か「超超大盛り」か。とにかく胃袋が若かったのだ。

 急激に満たされた食欲をさますようにして「砂時計」の扉を開けたときに包まれるコーヒーの香りは、いまでも思い出すたび胸がときめく。そしてそこに全巻置いてあったのは、手塚治虫の『ブッダ』だった。潮出版から新刊が出るたびに並べられ、むさぼるように読んだ。そういう時代だったのだ。
 これまでの人生で最良の時はいつだったかと問われたら、迷わず高校時代と答える。そしてその理由のかなりの部分は、毎土曜日の昼下がりをこの店で過ごしたことによる。

 味は時代をも引き連れてくる。といって「砂時計ブレンド」の味は「昭和」へのノスタルジーか? というとそうではない。平成も令和もひっくるめて、ブルーボトルも何のその、つまりは最強なのだ。
 もしかしたら全編にわたって「手前味噌」に終始する話かもしれない。だとしたら、それでもかまわない。毎日飲む味噌汁は、郷土の味噌で作るのがいちばん美味うまいに決まっているのと等しく、身体の隅々にまで沁みわたっているのは「砂時計ブレンド」の味なのだから。

【エッセイ】
大槻慎二 田畑書店HP http://tabatashoten.co.jp/
田畑書店社主。1961年、長野県生まれ。伊那北高校を経て名古屋大学文学部仏文科卒。福武書店(現ベネッセコーポレーション)にて文芸雑誌『海燕』や文芸書の編集に携わったのち、朝日新聞社出版局(現朝日新聞出版)で『一冊の本』を創刊。その後『小説トリッパー』、朝日文庫の編集長を歴任し、2011年に退社。2016年より田畑書店社主を継ぎ、現在に至る。

【イラスト】
カイヅカノリコ https://www.instagram.com/kaizukanoriko432/
東京都在住。武蔵野美術大学卒業後、制作会社にてグラフィックデザイナー、コピーライターとして勤務ののち、イラストレーターとして活動スタート。最近は短歌から絵を描くことにチャレンジ中。

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