「カフェの聖地」で好きなコーヒーを再確認する
人形町から清澄白河に引越したのは3年前のことだ。両国橋から新大橋、清洲橋など連なる橋に魅せられて散歩を繰り返すうちに、隅田川を渡った土地に日に日に興味を覚え、吸い寄せられるように転居を決めたのだった。
そこは木場公園の脇、仙台堀川のほとりに建つ賃貸マンションの8階で、南向きのベランダからは公園の南北をつなぐ大きな吊橋が見える。はるか向こうの空に分刻みで羽田空港を飛び立つ飛行機が小さく見えて、それを眺めながら飲む酒が美味い。
東京都現代美術館まで徒歩3分という距離もありがたい。豪華な企画展ももちろんだが、編集者という職業にとって、無料で閲覧できるここの図書室はインスピレーションの宝庫だ。
「なんとなく」と「仕方なく」と理由は様々だったが、都内に限っても両手に足りない数の引越しを繰り返してきた。そんな中でもこの地が住むに最高な場所だと確信するに至るのに、そう時間はかからなかった。何より子どもと若い夫婦が多いことは、少子高齢化に怯えるこの時代にあって、かりそめの希望を与えてくれる。朝の木場公園は格好のジョギングコースだし、江戸時代に水運のため隅田川から引かれた小名木川、大横川、仙台堀川などは、乾いた都会の空気に潤いを与えている。
ただし、都営新宿線(菊川駅)と大江戸線(清澄白河駅)の2本の都営地下鉄が通り、東京メトロ半蔵門線 (清澄白河駅)が三越前から延伸される以前は、さぞ不便だったに違いない。特に南北の移動に使える公共交通機関はバスだけだったはずなので、自家用車かバイク、あるいは自転車に乗らない人は大変だったのではないか。実のところ、若いファミリーがここに移り住んで来始めたのも、都心への通勤の便が整って以降だろう。
ここに転居してきて気づいたことのひとつは、ウイークデイと週末の街を行き交う人の違いである。もちろん生活者である地元民に変わりはないのだが、外来者、つまり観光に訪れる人々が違うのだ。ウイークデイは熟年のカップルないし年がいった女性のグループが多く、週末は若いカップルないし若者のグループが多い。そして前者は“深川ブランド”の名所旧跡をめぐり、後者は“カフェの聖地”としての清澄白河を楽しんでいる模様なのだ。
聞くところによれば、清澄白河に自家焙煎装置を備えたカフェの出店が増えてきたのは、アメリカのコーヒーチェーンである〈ブルーボトルコーヒー〉が日本1号店をここに開いた2015年あたりかららしい。
木場という土地は文字通り材木商が集まった木材の集積所だったが、1960年代の終わり頃、新たな埋め立て地、新木場にその役割が移転された。いまも現役の材木店がちらほらとあるが、大半は衣装替えをして他業種に看板を譲っている。材木を蓄える天井の高い倉庫を1階にもち2階は事務所にあてるという造りが多く、これらをリノベーションするとたちまちお洒落な空間が現れる。 自家焙煎装置を持つカフェは煙を排出するダクトを設けなければならない関係上この造りが理想的だし、天井の高い空間は開放感があって気持いい。カフェだけでなく、レストランやバー、ベーカリー、ギャラリーや蒸留酒の醸造所、サイクリングショップなどもあって、独特な町並みを創出している。
実は昨年の夏に千代田区は九段南にあった田畑書店の事務所を、森下と両国の中間あたりに移した。通勤はもっぱらバスか自転車で、職住近接、生活のほとんどが深川で完結してしまうようになった。そしてカフェ銀座も清澄白河から森下のあたりにまで延びてきていて、それは森下の方が家賃が安いので若者が起業するのに閾が若干低いことによるらしい。生活圏に新しいムーブメントが起こっていることは単純に楽しいし、休日などは若いカップルが手を繫いで散策している姿を眺めるだけで、多少は若返ったような気にもなる。
では、この地に住んでそれらのお洒落なカフェ巡りをしているかといえば、そうでもない。もちろんどの店にも興味はあって1、2度は入ってみるものの、それ以上の常連にはなりえない。
なぜかといえば、コーヒーの味がことごとく好みからはずれているからだ。それはたまには好みの近似値にせまる味もある。それにしたって「近い」のであって「ドンピシャ」ではない。
だいたいにおいて、好みは深煎りであって浅煎りおよび中煎りはターゲットから外れる。だからいま流行りのカフェで主流の、「果実のような」とか「干し草のような」とかいうような、まるでソムリエがワインをテイスティングする時に使うような言葉で表現された味のコーヒーは、まず苦手である。酸味が勝ちすぎる気がしてしまうのだ。
また、深煎りの豆も、たいがいがケーキやクッキーと一緒に楽しむことを前提としているので、コーヒー自体の味は苦味に走りすぎるきらいがある。それならいっそのことエスプレッソにしてくれ、と言いたくなる。
実に意地の悪いようなことを言うようであるが、結局は自分の淹れたコーヒーに勝る味はない、と思ってしまうのだ。傲慢である。そして味の好みは人それぞれなのだから、流行りのカフェに喧嘩を売っているわけでもないのだが、その一線はどうしても譲れないのである。