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生きる目的と信仰

なぜ生きるのか。
私はその答えをずっと探していた。

以前は『結婚して、子供を産む』という目標があった。
そこに向かって頑張った。
自分の過去と散々向き合い、結婚後はパートナーとも向き合い、無事にその目標は達成された。

次の目標は?
息子を立派な大人に育て上げること?

それは母としての役目ではあるけれど、生きる目的とは違う。

答えはもっと深いところにあって、私はずっとその答えに手を伸ばし続けてきた。

占星術で使命を知る?
潜在意識を使って能力開花させてたくさん稼ぐ?

巷にはそんな話がゴロゴロしてる。
なんちゃらコンサル、起業、引き寄せの法則…

どれもこれも違和感でしかなくて、私は息子を育てながらも、何かとてつもなく大切なものを忘れているという猛烈な感覚を抱え続けていた。

外側は一切関係のないもの。
私自身の、深い深いところにある欲求。


そして私は、それを見つけた。

というか、その答えに導かれた。

私の過去の縁、そして自分の中のエゴや猪突猛進さ、その全てをフル動員させて、神様は私を導いた。

その『答え』に。


先に言っておくが、私はなんの宗教にも入信していない。

ただ、神様は信じている。

私は昔からずっと、自分の道は自分で決めてきたけれど、心の中では『導かれている』と確信していた。

私の生きる道のその先に、道が用意されている。

私はただ、人よりも少し本能的で、頭で考えるよりも流れに乗って生きてきただけなのだ。

八百万の神と日本では言うけれど、その中にはキリストもアッラーも仏陀も含まれる。

みんな本物で、みんな実はひとつなのだ。

でも、その実はひとつであるその神は実態がなくて、人間の概念で理解するのがとても難しい。

だから偶像崇拝が生まれたのだ。


八百万の神の中の、どの神様を信じたって全然良いと思う。
それが真の信仰であるならば。

信仰。

それは、自分にとって都合の良い人生を歩ませてほしいと神に願うことじゃない。

『自分の自我、エゴ、過去の経験からくる不安や恐れ、そういったものを全て脱ぎ捨てて、良い考え良い行動をし、世のため人のために命を使うことができる人間になること』

それを生きる目的として、日々自分と向き合い、祈りながら生きていくこと。


神様は、自分に都合の良い人生なんて歩ませてくださらない。

自分の中の自我、エゴ、恐れ、怒り、嫉妬、嘘などの穢れを祓うために、いらないものを削ぎ落とすために、私たちに試練を与える。

それはもう思いがけない形で。

ことが起こった時、私たちは慌てふためき、感情的になり、その出来事に囚われ、人生を停滞させる。

私たちは、無知だから。
なぜこの出来事が起きたのか、なんのために起きたのか、考えることすらしない。

知らないから。教えられてこないから。

人のせいにして、何かのせいにして、なんとなく時が経過して乗り越えた気になっている。

けれどもその出来事がなぜ起きたのか?

自分の中にあるその原因を見つけ出して手放さない限り、そのうちまた同じようなことが起こるのだ。

日々謙虚に自分と向き合い、悪癖や自我を手放し、祈りながら生きる。

そうして一歩一歩、自分の魂を磨いていって、そして最後には自我がなくなり、『真我』となる。


修行僧のようだけれど、私は今の世界に必要な生き方だと思っている。

みんな迷子だから。
何が幸せなのかわからなくなっている。

今この時代のことを、『カリユガの時代』と言うらしい。
神から最も離れた時代。

欲を指針にして生きたところで、そんな喜びは刹那的すぎて、欲望はどんどん暴走して私たちの魂を蝕んでいく。

もう、行き着くところまで来てしまったのだ。
私たちは。

これ以上人間の欲望を暴走させ続けたその先に、一体何がある?


みんな蝕まれている。
みんな心に虚無を抱えている。
そのブラックホールのような虚無を何かで埋めようと必死になっている。

誰かで。何かで。

でもその虚無は誰かや何かでは埋まらないのだ。
ほんのひと時埋まったように感じるかもしれない。でもそれを埋めたのはただの感情であって、感情ほど流動的なものはない。

またすぐに別のことに心を奪われて、流れて消えてしまう。


そうじゃない。

肝心なのは、無知を知にすることだ。
経験から学んで、知恵にして、手放していく。

そうすることで、人生に何が起ころうとも豊かであることに変わりはなくなる。

そして虚無も消える。

なぜならその虚無は、神と離れたことで生まれたものだからだ。


今こそ信仰が必要だと本当に思う。

宗教という枠組みすら取り払って、ただひたすら謙虚に、祈りながら、自分と向き合う生き方が、当たり前になればいい。

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