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#82 朝日記 「ビジネスマンこそ学ぶべきギャルの哲学」「マーケットイン型のキャバ嬢とプロダクトアウト型のギャル」「チャラさとマッチョ」 (2021/05/18)

7:46起床。1:30/5:17。また夕食後に少し寝てしまい、寝つきに失敗。赤ちゃん。

昨日、録画していたマツコデラックスのTV番組「マツコの知らない世界」を見た。ギャル特集。そこで、マツコが大いに感動していた姿を見て、日本の未来はギャルにあるのかもしれないと、私もまことしやかに思った。ところで、ギャルの定義とはなんだろうか。そういえばあまり考えてこなかった。

出演していた伝説のギャル雑誌egg編集長に言わせると「自分の好きなものを好きなように着飾る」のがギャルの定義だという。男にモテるより、私がしたいの要素が強いと伺える。ちょっと腑に落ちた。なんとなく、キャバ嬢とギャルが混同していたのだが、むしろ一緒ぐらいに思っていたのだが、どうやら全く指向性が違うものだと思った。

キャバ嬢は、男性に貢がれるためを目的とした、媚を売るスタイルのファッションや職業、社会的機能のことを指す。一方、ギャルは、私が私であるためのファッション。男性ウケとかは二の次。むしろ、女性からの支持が高いことがわかる。

そして、出演していた現役のカリスマギャル曰く、マツコデラックスはギャル界の親分だという。現役10代のギャルの中でも、マツコはリスペクトの対象となっている。そのエピソードとして、マツコは一度TVで着た服は、二度と着ないというマイルールがあるという。これをどこかで知ったというカリスマは「やべえ、カッケェ」と唸っていた。言いたいことをズバズバ言うあの姿勢もギャルのリスペクト対象になっている。

どうやら、私はギャルをみくびっていたようだ。

ギャルは、チャラさの哲学ではなく、むしろマッチョな哲学だと認識した。ローランドはチャラさの哲学の人ではない。マッチョでギャル的な哲学を持っている。ギャルから学ぶことはある。自分が自分らしくあるための追求と発信。これらはビジネスマンこそ学ぶべきことだろうと感じた。

ビジネスマンは、マッチョな哲学に見えて、実はチャラさの延長線上の存在なのではと思う。本音より建前を気にする姿は、チャラさの哲学に寄っている気がする。もちろん、大事なことではある。しかし、ギャルの哲学である、本音の追求と発信、いわばアートな感覚は日本を復活・再始動させるのに非常に重要な観点だと考える。

ギャルは、人間の営みの本質を捉えているような気がしている。人間の営みに意味などほとんどなく、ムダで構築されている。個別にたいした意味がなくとも、その文脈に後から意味がついてくる。意味があるものは、だいたい後付けだと言うことだ。だから、マツコが指摘していた「意味を求めすぎな社会はおかしい」という警鐘は、人間の傲慢さへの指摘であると感じた。ともすれば、日本のビジネスマンや意識高い系は、随分と高尚なお考えをなさっているんだと、私自身も反省することがあった。

GOの三浦崇宏さんの指摘を思い出す。「大衆とかマスとか言っている時点で、人間ナメている」操作対象としての民衆とかの発想は傲慢で高尚なことだ。

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