祖母

ずっと後悔していることがある。
同居していた祖母だ。

母方の祖母は、祖父が亡くなったあと1人で私たちの家から車で1時間ほどの集落に住んでいた。
流石に年齢を重ねたため、祖父が亡くなってから1年ほどで私たちと同居することになった。
1人にしておくのは心配だったし、当時小学生だった私も祖母が来るのはシンプルに嬉しかった。
鍵っ子だった私は家に帰ると誰かがいるというのがまず新鮮で嬉しかったし、祖母がおやつを作っておいてくれたり、「〇〇が見たいからビデオを流してくれ」と頼まれる時間も嫌いじゃなかった。

祖母が体調を崩したのは私が中学3年に上がったばかりのころだった。
特に病気だったわけではないが、歩けなくなった祖母はデイサービスに通うようになった。
そして痴呆も始まった。食事を食べてないと言ったり、ワガママになったり、夜中に叫び出したり。私の知っている祖母からどんどんかけ離れていった。

ちょうどその頃、私は打ち込んでいた部活を怪我のせいで半ば追い出されるように退部した。行き場のない放課後を祖母の介護に費やすようになった。
両親は仕事で日中はいなかったし、妹もまだ幼い。母のいない間、祖母の面倒を見れるのは私だけだった。
家に帰り、ちょうどデイサービスの人が連れてきてくれた祖母を言葉は悪いが受け取る。
おやつを食べさせたり、体が痛いといえばさすったり、ベッドから降りたいといえば抱えて車椅子に座らせたり。夜中に大声を上げた時は、両親や妹を起こすわけにはいかないと祖母の部屋に行き、寝かしつけた。そんな生活が3年弱続いた。

高校1年くらいのころ。あまりにワガママな祖母に嫌気がさしたこともあった。デイサービスではなく、施設にいれてしまてばいいのにと母に訴えたこともある。だが、今後大学進学を考えている高校生と中学生の姉妹がいる普通家庭からすれば、金銭的にも難しかったのだろう。

痴呆が進み、祖母はいつしか私の名前を呼ばなくなった。私のことをデイサービスの職員と思っているようだった。
「この人の中では孫でも無くなったのか」と思うと、やるせなさが募った。
私は途中から祖母の介護に手を抜くようになった。
食事もちゃんとしたものを渡さず、呼ばれても無視するようになった。夜中も耳にイヤホンを入れ、寝かしつけるために祖母の部屋に行くなんてことはしなかった。
「どうせ私のことなんて忘れてるし」

そんな中、祖母は本格的に入院することになった。
そしてあっけなく逝ってしまった。
もういい年だったし、老衰だから苦しむこともなかったようだ。悲しさはもちろんあったが、少しだけホッとしてしまった自分がいた。

祖母の遺品を片付けているときだった。
祖母が「ここは大事なもの入れだよ」と言って滅多に人にあけさせなかった引き出しを開けると、小銭入れや薬、先に逝った祖父の時計など細々したなんてことないものがたくさん出てきた。
「こんなとこにいろいろ溜め込んで」と半ばため息をつきながら出していると、引き出しの一番下から私の小さい頃の写真が出てきた。
ピアノの発表会だろうか。ワンピースを着た私が写っていた。
それを見た瞬間、いろんな感情が湧いてきて私は声を出して泣いてしまった。

もっと優しくすればよかった。もっと丁寧に介護してあげればよかった。体が悪くなる前にもっといろいろ話しておけばよかった。亡くなってほっとした自分が情けなくなった。

何年も経ったいまでもこの後悔は無くならない。

後何年後に私が向こうに行くかわからないが、行ったときにはすぐに祖母に謝りに行こう。

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