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格式高き鶴岡八幡宮【鎌倉殿の13人ゆかりの地を巡る日帰り旅#1】2022年10月

皆さん、こんにちは。
今回は、わたしもめちゃくちゃはまっている大河ドラマ、
『鎌倉殿の13人』にあやかり
鎌倉幕府ゆかりの場所を中心に鎌倉を巡っていきます。

早朝の鎌倉駅に到着しました。それでは参りましょう。

鶴岡八幡宮の参道にやってきました。


この参道は、『若宮大路』と呼ばれ、由比ヶ浜から八幡宮まで約2キロ、鎌倉の中心をほぼ南北に貫いています。

こちらは二の鳥居で、一の鳥居は由比ヶ浜にあります。

『若宮大路』は、1182年3月に、源頼朝が妻政子の安産祈願のために、京 の『朱雀大路』を模して造営を始めたのだと伝えられています。
北条時政や畠山重忠などの有力御家人が携わったといわれています。

二の鳥居からはこのように、車道より一段高い歩道があります。これは 段葛 (だんかずら)と呼ばれ、段葛は、日本に唯一残されている遺構です。

早朝のため、観光客というよりは地元の方が散歩しているかんじで、とてもゆったりした空気が流れています。

いよいよ三の鳥居と境内が見えてきました。

それでは鶴岡八幡宮に入って行きましょう。

三ノ鳥居をくぐった先、太鼓橋が見えてきました。


太鼓橋は、1182年に源平池が造営されたときに架けられたものと考えられています。
当時は朱塗りの板橋であったことから、「赤橋」(あかはし・あかばし)と呼ばれていました。
現在は渡ることができません。
両側どちらかの橋を渡って参道を進みます。

太鼓橋がを挟んで右が源氏池、左が平家池に分かれており、二つの池の総称として「源平池」と呼ばれています。

源氏池には三つの島が、平家池には四つの島があります。源氏の発展を願う「産」(三)と平家の滅亡を願う「死」(四)をかけたものであったといわれています。

源氏池には「旗上弁財天社」があります。こちらは後程訪れます。

それでは鶴岡八幡宮の本堂に向かいましょう。

さて、こちらの鶴岡八幡宮ですが。源頼義が、京都の石清水八幡宮護国寺を鎌倉の由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)に勧請したのが始まりと言われています。
その後、源頼朝によって由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の位置に遷し、建久2年に火災により社殿が焼失し、それを機に、上下両宮の現在の姿に整えられたそうです。
頼朝が鎌倉幕府を開いてからは、幕府の中枢となる施設を整備し、関東の守護、国家鎮護の神社となり、武士の崇拝を集めました。

鎌倉幕府滅亡後も、足利氏、後北条氏、豊臣氏、徳川氏に崇敬され、江戸時代には幕府の庇護を受けて大規模化が進みました。
現在見られる建物が、流権現造りの代表的な江戸建築物が多いことからもそのことがわかります。

参道をまっすぐ歩くと、見えてくるのが舞殿(下拝殿)。当初は白木造りであったそうです。

こちらは源義経の愛妾であった静御前が義経を想う舞を納めたとされる廻廊跡に建っており、現在も「鎌倉まつり」ではそれにちなんだ「静の舞」が行われます。
大河ドラマのワンシーンに思いを馳せます。

大石段を上っていきましょう。

階段の左手には、ご神木として長く親しまれ、八幡宮の歴史を見つめてきた大銀杏の跡があります。
樹齢1000年といわれた大樹でしたが、平成22年に強風のため倒伏。
現在は倒伏したあとや親木から芽生えたひこばえが育てられており、親木とともに「親子銀杏」として、大切にお祀りされています。

それでは階段を昇って本宮へ。

現在の本宮は1828年に江戸幕府11代将軍徳川家斉の命により再建されたもので、屋根に曲線を与えた流造と、本殿と拝殿を一体化した権現造、その両方の特徴を兼ね備えた、流権現造の代表的な江戸建築となっています。

さて、楼門がみえてきました。
扁額「へんがく」に記された八幡宮の「八」は鳩の向き合う形を表しています。これは八幡神の使いが鳩であることにちなんだものです。

源氏池に浮かぶ「旗上弁財天社」はたあげべんざいてんしゃ にやってきました。

源頼朝の旗上げのときに、守護神として弁財天が現れたということで、頼朝の妻の北条政子が建立したと言われています。
こちらの御社殿は八幡宮の創建800年記念となる1982年に、復元されたものです。


白旗は源氏の印です。一方、平家は赤旗です。

弁財天社の裏手にある、もう一つの見所がこちらの政子石(まさこいし)。

源頼朝が妻の政子の安産を祈願したとされる石です。夫婦円満の祈願石で姫石とも呼ばれ、子宝や安産のご利益もあるとされています。

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