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リビングの本(掌篇小説)

 私は、気づくと知らない家のリビングにいる。
 リビングには、ダイニングテーブルがあり、椅子があり、ソファーがあり、ローテーブルがあり、テレビがあり、本棚があり、棕櫚竹(しゅろちく)があり、庭に続く窓にはレースのカーテンが引いてある。壁にはスルバランの絵が掛かっている。
 私は直ちに逃げださなければならない。ここは自分の家ではないのだから。
 子どもの頃、探検と称して近所を歩いて回り、勝手に他人の家の庭に入って、怒られるかもしれないとスリルを味わったものだ。しかし、今、私が置かれている状況はもっと深刻なものであるに違いない。
 時を経て成人しており、誰の許可も得ず、庭どころか家の中にまで侵入しているのだ。
 どうして、自分がこのような場所にいるのか、心当たりがない。これまでの記憶を探ってみる。名前は――漆鳥(しちとり)キイリ。職業は、住所は――。頭の中で、錆びついた歯車が回転するような痛みがある。
 ふと、視線に気づく。ひとつではなく複数あると感じる。どこから見ているのだろうか。
 周囲を見回してみるが、人影はない。
 どうやら、視線の元は本棚にあるようだ。収納された数十冊か数百冊の本たちに眼があり、私を監視している。
 それに、ああ、本だ。やはり、あの本だ!あの本が本棚にあるではないか!。
 そうだ、そうだったのだ。私はあの本から逃れようとして、失策を演じ奸計(かんけい)に嵌(は)まり、このような場所に引きずり込まれてしまったのだ。
 一刻も早くここから離れなくてはならない。
 私は窓へ向かって走る。庭から脱出した方が、玄関から出るよりも人目につかないと思ったのである。
 しかし、まったく進まない。何かがおかしい。足を前に踏み出し、床を蹴る感触が確かにある。にもかかわらず、依然として同じところから動いていない。
 一度休み、再び走る。全力で腕を振り足を上げる。息が続かなくなってくる。
 ――もしかしたら、段々わかってきたかもしれない。たぶん、こうである。驚くべきことに、私の移動する方へ向かって、同じ速度で、リビング全体だけでなく庭までも移動しているのである。
 私は身体の向きを変え、ドアへ向かい走ってみた。ところが、今度も部屋全体が私の動きに合わせてついて来て、最初の場所からまったく移動できない。
 これでは、ここから出ることなど、到底かないそうにない。何か手を打たなければならない。早くしないと、家の誰かが戻って来てしまう。
 こうしている間にも、無数の視線が私に向けられ続けている。私はそれに耐えきれなくなり、また本棚を振り返る。
 すると、亞ノ翻(あのほん)が抜き出て宙に浮いている。カバーにそう刻印がある。本棚に収まっていたときよりも巨大化している。長辺が四十センチメートルくらいあるだろうか。
 亞ノ翻は、徐々に私に迫ってくる。
 私は恐怖する。悪魔の書物が厳然と襲いつつある。
 しかし私が走っても、リビング全体が同じ速度でついて来てしまい、移動することができない。その中で浮遊する本だけが、わずかずつ、だが確実に接近している。長辺はもはや一メートルくらいになっている。
 亞ノ翻は、全体の半分くらいを境に大きくページを開いた。
 そして、獰猛な野生の動物が獲物を食いちぎるように私を挟み、胴を真っ二つにした。
 上半身は表紙になり、下半身は裏表紙になって、結合し、一冊の本になる。私は本になったのだ。
 足音が聞こえる。やがてドアの開く音がする。誰かがリビングに入って来る。
 その人に拾い上げられ、私は本棚にしまわれる。

<了>

書籍代にします。