『あなたの「音」、回収します』 第11話 音楽ダンディと音楽談義(2)
「関川百尋さん。父がレコードを持っていたので、子供の頃から聴き親しんできました。ベルリンフィルと共演した、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。実に見事でした」
卓渡の言葉に、少女二人が文字通り飛び上がった。
「チャイコのヴァイオリンッ!! ベルリンフィルーッ!!」
「マジで!? じーちゃん、そんなの言ったことないじゃん!」
「まあまあ。もう四十年も昔の話だしなあ」
「えーっ、じーちゃんって今いくつだっけ?」
「今年で七十二尋じゃ。百尋までは死なんぞ~」
老人のソリストとしての輝かしい経歴に、二人の少女がきゃあきゃあと花を咲かせる。
ヴァイオリニストなら一度は目標にしたくなるような、大作曲家の名高い協奏曲、世界最高峰のオーケストラ。
そこまで昇り詰めたヴァイオリニストの、現在の姿がここにある。少女二人の目にはどう映るのだろう。
卓渡の無言の視線の意味を、関川は敏感に感じとったようだ。
「そこまで行っといて、その後どうしたんだって言いたいんか? あんたもクラシックを知っとるなら想像つくだろう。わかりやすく『壁』にぶつかっとったんだよ」
少女たちが、黙って顔を見合わせる。
「あそこは、常に諸刃の剣に両側から刃を向けられているような、あまりに危なっかしい世界だ。個性がなければ埋没する。個性を出せば叩かれる。二言目には『作曲家の意志を汲めー』『楽譜は絶対ー』だ。作曲家本人に会ったこともない評論家たちに、そう言われてはボロクソに酷評される。かと思えば、ちょっとお偉い誰かさんに気に入られれば一気にスター街道まっしぐら。
結局どう演ればいいんだ? 悩むのがバカらしくなって、クラシックから手を引く輩のなんと多いことか。ワシのように、てっぺんの領域に足を踏み入れたとたん、転げ落ちるのが怖くなって自ら業界を去る者も少なくない。幸い、ヴァイオリンにはクラシック以外にも多くの居場所があるしな。しかも、そんな時に、ワシはアイルランドの本場の音楽を知ってしまった」
そこまで一気に語ってから、老人は手元のギネスをグイッと飲み干した。少女二人は何も言えずにぽかんとしている。
「アイルランドはな、大陸から離れているからクラシック音楽があまり入ってこなかったんだ。国民の大半が農家で、楽しみといえば酒場の酒とおしゃべり、それにダンスと音楽だ。
音楽はあくまでもダンスのためのものだから、ダンスのリズムの上に旋律が乗る形で、楽譜もなく、聞き伝えで受け継がれてきた。少人数でやるものだから和音の概念もなく、全員が同じ旋律を奏でる。時代と共に色んな地域のリズムや伝承曲と混ざり合って、これといった決まりもないからみんなが好きなように演奏してどんどん変わっていく。今でも、世界中に散らばったアイルランド人たちの音楽が現地の音楽と融合しては次々に新しい音楽を生み出している。
アイルランドの音楽は自由だ。ああしろこうしろ、なんていう指揮者も楽団も作曲家もいない。クラシックとは対極と言ってもいいかもしれん。おまけに、演奏しながらこんな風に気軽に酒が飲めるしな」
「うーん、なるほど。なんとなくわかる。あたしも窮屈なのは苦手だし」
歌希が、眉間に皺寄せてうなずいている。
彼女も卓越した演奏技術の持ち主だ。この先、音大へ進むか、プロとしての道を究めるのか、考え中だという。
たまたま見かけた南米のバンドに突撃したほどバイタリティあふれる彼女は、祖父に倣って、「自分も今すぐ海外へ飛ぶ」などと言い出してもおかしくない。
「ふえ~。やっぱり言うことが凄いです。わたしなんて楽譜どおりにやるだけで、もういっぱいいっぱい」
琴名が、軽く自分のおさげをいじりながら苦笑した。
「でも、自分の思うとおりにやりたい気持ちと、楽譜どおりに曲に向き合いたい気持ち、両方とも、なんとなくわかる気がします。クラシックってのは、長い年月、たっくさんの人たちが繰り返してきた、経験と思いの積み重ねで。少しずつ変わっていくものの根底に、ずっと変わらない、大事なものがあって……。それが、もう何百年も、世界中の人たちに繰り返されて、受け継がれている。それも凄いなあ、って思います。すみません、よくわかってないくせに生意気なこと言って」
「いやいや、可愛らしいお嬢さんの音楽談義はいつでも大歓迎じゃー」
卓渡のようなむさい男の談義はいらんということか。
幸い、卓渡自身の意見はすでに琴名がわかりやすく話してくれたので、特に言いたいこともない。
「では、関川さん。回収方法の詳細は後ほど連絡します。今日は純粋にライブを聴きに来ただけですので」
――それに、関川が言うことも。
彼自身、どこかで、身に覚えがあった。
* * *
思うように、指揮が振れない。
そう感じるようになったのは、いつからだったろうか。
クラシックの伝統を、曲を、作曲家を尊ぶ気持ちはもちろんある。
もっと曲に没頭したい。悩みたい。試したい。
曲の真髄を知りたい。魂を昇華させるほどの曲を作り上げてみたい。
しかし、周囲がそれを許さない。
格式。歴史の重さ。楽団員との軋轢。
求められる音と、自分の欲しい音との差。
見えない領域にまで存在する、既にこの世には存在しない作曲家の「意志」。
守らなければならない伝統と、生き残るために会得しなければならない自分だけの個性。
クラシックの世界は、矛盾だらけだ。
別れ際に卓渡を見た、かつてのソリストの目は。
まるで、卓渡自身の深淵を見透かしているようだった。
* * *
一週間後。
関川は、まるで料理人のように、片手で卵をコツンと譜面台にぶつけた。
卵からラ音が鳴る。「Aー♬」
こいつも卵をチューナー代わりにしてやがるー! と、内心ツッコむ卓渡。
卵の能力は千差万別。音楽業界だけでも、他にメトロノーム卵や譜めくり卵、アンプ卵などがいてもおかしくない。
ちなみに今日の黒玉ちゃんのコスチュームは割烹着だ。オカンなのか。そっち路線へ行くのか。
譜面台にいきなり卵をぶつけられて、眉をひそめた人物がいる。
この舞台の提供者、ピアニストの川波音葉だ。
ここは、すでにおなじみの川波邸。卓渡がここで録音を行うのは三回目だ。
てっきり関川所有のあのパブ&カフェを使うのかと思ったが、店のピアノは現在調整中だという。場所を借りるついでに、孫が騒ぐ「音きゅん」に伴奏を頼んでみようということになったらしい。
「ついで」扱いで伴奏に駆り出される音葉はいい迷惑……とはならず、彼は関川に会うなり表情を引き締めた。一目見ただけで、一流演奏家としてのオーラのような何かを感じ取ったのだろうか。
今回、卓渡が指定したのは二曲。
二曲とも、「関川自身が『自分の命の音』だと感じる曲」を本人に選別してもらった。
つまり、本人任せ。何を演奏するかは、卓渡にも知らされていない。
音葉との音合わせもしていない。これがぶっつけ本番だ。
途中で止まっても問題ない舞台ではあるが、関川本人にそんな気はないらしい。
まるで大ホールのステージ前面に立つ時のような、数千人規模の観客を前にした時のような意気込みが、表情に、たたずまいに現れている。その気合いは当然、音葉にも、卓渡や聴きに来た他の人間たちにも伝染している。
演奏を聴きに来たのは、歌希と琴名。
店で演奏していた、アイリッシュ・トラッド・バンドのメンバーも揃っている。
みな、関川の演奏を聴きたくてたまらないという顔をしている。
関川が、弓を構える。
音葉も、鍵盤に指を構える。
二つの深呼吸の後。
音葉による前奏が、始まった。
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