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アクションゲームはいかにして「死に覚えゲー」となってしまったのか、「アーマード・コア6」を起点に語る


# 公式よりバランス調整の発表がありました(2023-09-12 追記)

※2023年9月11日、アーマード・コア6の武器、敵キャラクターに関するバランス調整、事実上の難易度緩和が行われました。本記事は「アーマード・コア6が高難易度で死にゲーだ」という評判がたっている頃の、その際立ったゲームバランスを前提とした記事となっているため、バランス調整後の今作をプレイされる方にとっては「この程度で死にゲー云々言ってんの?」と言いたくなるような共感度の低い内容となっている可能性があることを踏まえてご閲覧ください。

# ことのあらまし

来たる2023年8月25日、多くのゲーマーが待ち望んだ「アーマード・コア」シリーズの新作、「ARMORED CORE VI FIRES OF RUBICON」が発売された。ネット上には「待っていたこの質感」という喜びの声とともに「難しくて進められない」「昔のゲーム性が損なわれた」という悲しみの声もあがっている。

たしかにフロムソフトウェアの作品はどれも品質が高いとして世界中で大きく評価をあげている。だが、同時に「すぐ死ぬから難しくてクリアできない」というゲーム性にコレジャナイ感を覚える人たちも多い。そういった人々は「単にアクションゲームがヘタなだけ!根性なし!努力が足りない!弱虫!」という烙印を押され、「アクションゲーム」というゲームジャンルそのものへのネガティブな印象を持ち、操作技術のうまさを自慢したい特定層と場外でケンカするような憂き目に合う。

これは一体何事だというのか。私は2000年代のオンラインゲームである『PSO』の雑なレベルデザインの管理区チャレから生まれ、モンスターハンターを通じてデモンズソウルに繋がり、2020年代の今となっても「アクションゲーム」に呪いをかけ続けているこの「死に(覚え)ゲー」という概念について考察を続けてきた。何度も繰り返し導き出される結論は、「これはアクションゲームの作法ではない」というアンサーだ。それについて今回は長々と語らせてもらう。

事実としてフロムソフトウェアのゲームは世界中で評価されており、難易度の高さから「俺達の求めていたゲームだ!」という意見も多い。それに対しては否定はしない。だが、「世界中で話題になり売上として人気が証明された今の姿こそが、求められしアクションゲームとしての究極至高の理想である!(全てのゲーム製作者はこれをお手本にゲームを作れ!)」という大きな声に対して「違うよ。」と警鐘を鳴らしておくのが本記事の目的となる。

フロム作品はどちらかと言えば好きだが、この記事には批判的な内容が含まれるため、「せっかく燃えがっているこの体に水を差すな!この素人め」と反発したくなる人はまだ読まないほうがいい。そのような人々が活き活きとする場や風潮を2020年代に提供できたことはフロムソフトウェアにとっても、日本のゲーム業界にとっても大変誉れなことである。全くもって。

「アーマードコアはこれからもっと良いゲームになる」と信じている人や「アクションゲームって全部こんなのになっていくのかな…」と不安な人は読んでみてほしい。このゲームは、置き去りにしてきた人々をまだ鉄火の戦場へご招待していない。

# 私のレイヴン歴について

(このセクションは読み飛ばしてもいい。)

私がレイヴンとして初めてACに搭乗したのは、ACMA(マスター・オブ・アリーナ)の時代である。それほどうまくはならなかったが、楽しくてひたすらやり込んだ。強化人間という隠し要素やアイテムの引き継ぎ要素が魅力的に感じ、あとからAC1とACPPを追加購入してACMAをやり直したほどだ。

きっかけは、同じくゲーム好きであった従兄弟からの紹介である。隣でゲームプレイを見せてもらい、「遊んでみたい」となってからは一緒に対戦をするためにやり込み、研究してアセンブルの好みや勝敗について語り合った。プレイの上手かった従兄弟にはほとんど勝てなかったが、奇抜なアセンブルで驚かせたり、難易度の高い空中斬りを決めあって白熱するなどゲームとしては非常に楽しんでいた。「楽しいゲームは負ける側も楽しい」という発想があることを知った。

AC2以降は単純に経済的な事情と、次々と難解になっていく操作方法に対してのゲームプレイの満足度が少ないなと感じ始め、レイヴンとしての鍛錬をやめてしまった。AC2、AC3、ACNB、ACFAはゲームディスクとしては持ってはいるが、多少プレイしてその後はきっかけが足りず、他の娯楽やゲーム、日常生活に時間を割いている。

そんな私がAC6をプレイしているかというと、「興味はあって積極的に動画などを見ているがまだ手をつけていない」という状況である。ちゃんとやってないのに語るなよというツッコミは甘んじて受け入れるが、まあそう言わずに興味のあるかたは読んでほしい。きっと今しか響かない。

# AC6は「フロムお得意の死にゲー」として多くの人の心をつかんでいるが…。

・「リトライ」を面白さの軸とするゲームが伝えられないこと

フロムの死にゲー代表格である「ソウル」シリーズ

冒頭で述べた通り、AC6は難易度が高いが故に「フロムお得意の死にゲーだ!(楽しい!/やめてくれ!)」という評価の分かれる結果となっている。私もどちらかといえば好きではなく、「それは意図が違うからやめてくれ」と言いたくなる。プレイ映像を見れば見るほど楽しそうだと思うけど、ゲームの第一印象としては悪く、遊ぶのはしばらく後になりそうだ。

好きではない理由は、「死にゲー」だと度々ゲームオーバーで中断されてストーリーに没入できないからだ。劇中に登場するボスキャラクターにやられ続け、NPCのボイスを何度も聞くのが辛くなる(快感になる)といった滑稽なニュースも届いているが、ゲームの世界観に浸りたいプレイヤーにとって「主人公なのに劇が進行しない、続きを見せてもらえない」はプレイ難易度によるゲームオーバーや「ヘタクソ、ド素人」といった不名誉な称号を遥かに上回る究極最大のストレスなのである。いくらドラマチックな演出が各所に施されようと、何度も繰り返し見せられては「その再々再々再放送はもう飽きたよ」と冷水をかけられたような感覚でゲームシナリオを眺めることになる。同じ展開が繰り返されることで以前にどんなことが起きていたかの感動も忘れ、次回の展開や物語の結末への興味が薄れていく。それがなにより辛い。

リトライを繰り返すゲームの面白さは、難問を解決する体験のみにフォーカスできることにある。それは裏を返せば、その他の要素はゲーム体験としてプッシュするつもりがない、ということでもある。そして、ゲーマーたちはかつてその体験に特化した遊びを「エンドレスモード」「サバイバルモード」と呼んでいたことがあった。それらには、伝えられない(伝えるつもりがない)ことがいっぱいある。

・歴代のアーマードコアが伝えてきたこと

当時の若者たちを熱中させた『ARMORED CORE MASTER OF ARENA』

アーマードコアシリーズはストーリーと雰囲気から1人の傭兵としての目線で社会情勢を邪推する考察の楽しみがあり、それによってファンを広げていた。すべてのクリア済みプレイヤーが「レイヴン」の称号を得て覚醒めることで対戦コンテンツが過熱し、日本各地で「ラストレイヴン」を決めるための疑似的な殺し合いが行われた背景こそがアツかった。なぜ盛り上がったのかと言えば、「すべてのプレイヤーが同じ体験をした同族でありライバルだった」のが大きい。

アーマードコアはゲームクリアという「一次試験」を軽々乗り越えたプレイヤー同士が「二次試験」として本気のバトルロワイヤルを楽しむ、ひと粒で二度美味しいシリーズであった。通してゲームをプレイすると一見して孤独な身であるが、眼の前には自分を打ち倒そうと不敵に笑う戦友たちが立ちはだかっている。「レイヴン」としての役目を果たして手に入れた、荒廃した社会の絞りカスのような安い名誉を自ら握りつぶして戦火の中に再び身を投じる、どうしようもない死にぞこない共が、このゲームをここまで昇華させてきた歴史があるのだ。

もう今だと許されないレベルの熱気です。もはや狂気ですね。みんな顔が「殺すから死ね」なんですよ。

――

対戦中は静寂に包まれていましたね。お互いの息遣いとコントローラーの音しか聞こえない。周りも凄い緊張感を持ってくれている感じになっていました。

 本当に殺気だっているんですよ。「これに負けたら死ぬ、だからお前を殺す」ぐらいの(笑)。なので負けた時も紳士的な人もいましたけど、中には椅子を蹴っ飛ばしてしまう人がいたりとか、そういう感じでやっていましたね。

旧作の有名プレイヤー「YOU」氏のインタビューより

その熱気は、同じ地獄の釜の底にいる悪鬼羅刹、阿修羅の類が集まるからこそ生まれる。だが、その資格を得られずに土俵にすら立てなかった人々は単に蚊帳の外だ。社会から「お前じゃない」と言われることの白け具合といったらそりゃもう、世間に溢れるありとあらゆる酷評や罵詈雑言の追随を許さないほどに萎える。萎え続ける。

アーマードコアがアーマードコアであり続けるためには、「おめでとう、この瞬間から君はレイヴンだ」という賛美と承認、そして地獄の底への甘い手招き、”集団幻覚”と言えるほどの体験の共有こそが必要なのである。

・フロムソフトウェア”らしさ”の移り変わり

今のフロムゲーはフロムソフトウェアが作っているゲームであるが、ユーザー体験としては「難しいのはわかる、それ以外はわからない」になりつつあり、フロムだからこそ作れるゲームではなくなってきている。「ソウルライク」というジャンルが確立できたのは、UnityやUnreal Engineの普及も要因として挙げられるものの、「ダクソのようなゲームを作りたければ、単に重厚なアクションゲームでひたすら敵が強ければなんでもよい」と世間的に捉えられてしまっている結果だとも言える。

かつては「少ない情報からありもしない背景や設定を作り出して二次創作のように楽しむ」という(シナリオライターやデザイナーの考えを読む)意味だったフロム脳という言葉が、「フロムの人間ならこんな嫌らしいトラップをしかけてくるはずだ」という開発者の脳みそを推察する(レベルデザイナーやプランナーの考えを読む)意味に変わってきた。トレンドの移り変わりとして捉える動きもあるが、トレンドとは得てして「ユーザー離れによる価値観の転換」のことである。今まで重厚な雰囲気のロボットゲームをブーンドドドドと楽しんでいた無邪気なユーザー層はお払い箱にされ、どんなパターンのゲームで何が一番効率が良くてどこが一番稼げて最強ビルドはどれだ、という攻略、支配、蹂躙といった要素を楽しみとしているユーザーおよび開発者の声がどんどん大きくなっていく。

私は、そういう人々の声が強くなる度に「ゲームがきちんと遊ばれていなくて可哀想だな」と思う。数字いじりの好きなマネタイズプランナーやバトルプランナーだけが注目されて、シナリオライターやデザイナーやサウンドコンポーザー達の細やかな配慮がその人たちには届かないんだぜ?残念だろ。

もちろん、そういう人たちに向けてフロムソフトウェアが「ただひたすらにクリアさせないゲーム」を狙って提供し大いにウケていることは否定しない。ただ、クリアできないという事はその分ユーザー層を偏らせることになり、”本来獲得するはずだった客”を失って”本来届けられるべき声”を失うことになることは理解してほしい。要は勘違いヤロー共が名作を別ゲーにしてしまうという事態が発生する。これまでも様々なシリーズで発生してきた。満を持して登場させるなら、「ゲーム自体の障壁を大きくしてプレイヤーに続きを体験させない」はPSO2NGSが引き起こしている事象である。

PSO2NGS:凡人には挑戦権すら与えられないボス「ダークファルス・ソウラス」

心当たりのある方もいると思うが、この「ゲームシステムの攻略能力と操作技術の優劣」だけを競い合うゲームコンセプトは格ゲーのそれだ。だから格ゲーのスキームで色んなアクションゲームを語ったり罵ったりする人たちもいることだろう。だが、大手の格ゲーになぜストーリーモードやアーケードモードが未だに実装されているのか、考えたことはあるだろうか?純粋に操作技術の優劣を競いたいプレイヤーからすれば、まどろっこしいヒーローごっこは逆に煩わしく感じるはずだ。

一見無駄に思えるようなそれらはゲームの体験をカジュアルに提供し、その界隈に没頭してもらうための入場ゲートを担っている。多くの人が勘違いしているが、ゲームの間口の広さとプレイヤースキルの低下/向上は直接の因果関係はないし、あなたのプレイヤースキルが相対的に低い評価にされ貶められることもないのだ。そうなると、なぜ「死にゲー」は世間にこんなにも求められているのだろう?

# アクションゲームはいつしかシューティングゲームの様相になってしまった

・人々は何をもって「アクションゲーム」だと思うのか

まず、曖昧に語られるアクションゲームとは一体何だろうか?

1980年代に庶民の娯楽としてビデオゲームが普及した際、ゲームジャンルというものは考慮されていなかった。日本中のゲームメーカーが「面白い」と思った遊びのシステムを独自に提供し、それに対して人々が「メトロイドヴァニア」だなどと呼び名をつけていったのである。

80年代当時のゲームは、ハードやディスプレイの制約により表現できる動きが少なく、操作系統も多彩ではなかった。天下の任天堂が売り出したゲーム&ウオッチを見ても、ボタンを押してスイッチを切り替えるだけの単調な操作の遊具を「ゲーム」と呼んで一般に認知させていた背景がある。

そんな中、「アクション性が高い」ことが魅力となって「アクションゲーム」という呼び方をされるものが現れはじめた。「右へジャンプしている最中に左へ行きたい」というように、状況や視覚情報に応じて直感的についやってしまう操作を(現実にはありえない動作を)リアルタイムに受け止めてくれるその懐の広さこそ、「アクションゲーム」をアクションたらしめる要素となった。ゲームにおけるアクションとは「難しい操作」のことではなく、操作キャラクターに「可動性や自由度がある」ということだったのだ。80年代〜00年代におけるアクションゲームは少年少女達に「スーパーヒーローみたいにスタミナやケガを考えず縦横無尽に走り回れて、自由に空を飛べたらこんな感じなんだろうな」という制限からの解放という夢を与えてきた。

人々に夢と自由を与えてきた説明不要のスーパーヒーロー

・スーパーヒーローに課せられた「死」の概念、死をかわす曲芸は必須のスキルへ

自由自在なスーパーヒーローを手軽に体験できるアクションゲームに対して、開発者はゲームオーバーの概念を設けるため、主人公に「残機(クレジット)」や「体力(HP)」という要素を加えていった。「体力や装甲が少ない」というのはゲームシステムの中での縛りで、あくまで味付け的なものでしかなかったが、その味付けは多くのゲームにおいて成功を収めた。特に「可動性や自由度は高いがすぐ死ぬ」というゲーム性はアーケードゲームにおける回転率との相性がよく、数々のゲームにその手法が使われてきた。かのバーチャファイターが短時間でゲームが決着するためにとんでもないインカム(売上)をたたき出したのは有名な話である。

数あるアクションゲームの中でもロックマンはその「可動性は高いがすぐ死ぬ」というゲーム性をうまく落とし込んだシリーズで、とっつきやすい子供向けビジュアルのわりにすぐ死ぬというインパクトから認知度は抜群。「ティウンティウン」というAAでのネットミーム、そして死に覚えゲーの原初にして究極『人生オワタの大冒険』に発展している。

ロックマン2 エアーマンステージ

そして「オワタ式」と呼ばれた、1発食らったら死ぬような状態、瀕死や裸一貫、素寒貧での縛りゲームプレイスタイルは、独特のスリルを感じられるとして多くのアクションゲームのやり込み=超人的テクニックの披露の場として人気を博し、モンハンなどに遊びの要素として取り入れられてきた。筆者も過去に星のカービィ初代のエクストラモードをHP1残機1の設定でノーダメージクリアしたことはあるが、それは本来ゲームプレイの上手さとは無関係でどちらかと言えば特定のお遊びに特化した”芸”として楽しんでいた。それがいつの間にか"芸"ではなくなり、”必須スキル”と取り扱われるようになっていった結果生まれたのが「高難易度のアクションゲーム」だ。

・アクションゲームとシューティングゲームの狭間を行き交うテセウスの船

上記の歴史から、死に覚えゲーとして評価を高めてきた昨今の高難易度ゲームは3Dに究極進化したロックマンおよび\(^o^)/の系譜と言える。世間では「フロム作品は初心者お断りの高難易度死にゲーである」と称されて話題をかもしているが、オワタ式やアイワナ、友人マリオに熱中してきた人間からすれば「こんなものは序の口、まだ甘い、スリルが足りないな、死ななきゃ安い」とイキリたくなるものであるだろう。

それら「高難易度」と称されているもののゲーム性を一言でまとめると「操作が難解なSTG」であると再定義できる。そのゲーム性が悪いとは言わない。私だって上手にクリアはできないがグラディウス、ダライアス、レイストームは好きだ。仮にそれらに体力ゲージが導入されると「ヌルい、緊張感がない」と残念に感じるかもしれない。

フォートナイトやAPEXの普及もあり、アクションゲームとシューティングゲームの境目がなくなってきているのも影響は強いだろう。アクションゲームだったはずのものから様々な「ヌルい」要素を取り去り、シューティングゲームのような遊びになってしまったとしても、人々はテセウスの船のようにアクションゲームだという認識を覆さない。でも、アクションゲームに欲しかった、可動性と自由度、スーパーヒーローとなって空を飛ぶ夢を与える体験と、1〜2発食らったら終わりでゲームオーバーやり直し上等というシビアなシューティングゲームの体験はちょっと違う。

令和になって復活した「ヴァリストレスナルト」に見られる、かつてのSTGの美学

このまま「操作が難解なシューティングゲーム」の様相がエスカレートし、仮に操作が12ボタン必要で難解なグラディウスやダライアスが発売されたとして、私にその忙しさを「難しい、楽しい」と感じさせることは到底不可能だろう。一撃で死んでしまうばかりか、格ゲーのような操作をミスなくこなせてはじめて100点のパワーが出せる、とても弱い主人公でいろと言われるわけだから。

# 「クリアされることが寂しい」と訴え続けてきた平成の開発者、「クリアすることが寂しい」と泣きついてきた平成のプレイヤー

・囚われているのはどちらなのか、寂しがり屋のデス・ゲーム

開発者はどうしてこのような「高難易度」のゲームを作らなくてはいけなくなったのか。それは「クリアされること」に対する異常なまでの恐怖心とトラウマに関係がある。

平成のコンシューマ機、つまりスーパーファミコンやプレステ1〜プレステ2にかけては「ゲームの回転率」を考える意味が薄くなったため、何度もクリアを促しては「また来てね」という周回プレイを楽しませる工夫が施されてきた。クリアされて当たり前、何度も足を運んでもらおうというこの姿勢は特に90年代のスクウェア黄金期に強く、FF、ロマサガ、聖剣、ゼノギアス、クロノクロス等での「取り返しのつかないコンプ要素」には数多くの少年たちが頭を抱えたことだろう。だけど、クリアされたあとにも「また遊んでもらえる」という自信が彼らのゲームに温かみと余裕を与えていた。

Final Fantasy IX: Memoria Project

それに対し、世間に広まっている「死に覚えゲー」はクリアまでの道筋や攻略方法が限られていることが多く、クリアされる=脱出の手口が確立されているということに近いため、逃げられないように必死に工夫を凝らすこととなった。開発者としては「クリアされたら死ぬ」ぐらいの気持ちで血眼になって作るが、「でもクリアさせないと売れない」という雁字搦めのジレンマに苛まれる。そして、UNDERTALEのアイツのように「クリアされたらお別れなんて嫌だよ、もっと僕とこの世界で遊ぼうよ」と引き留めている。

SEKIRO、エルデンリング、アーマードコア6はそれぞれ「クリアできない、引き留められるという話題性」によって盛り上がってきた。フロムソフトウェアの方々が直ちにそうだとはさすがに言えないが、クリアできないゲームの実現のためには、プレイヤーの足を引っ張り「もっと遊ぼうよ、どこへも行かないで」としがみつくような共依存気味なゲームデザインが不可欠になる。本当はクリアされたところで死ぬわけでもないし見放されることもないどころか好きになった人は何度でも訪れてくれるのだが、「クリアされたら飽きられる(飽きられたら終わる)」という呪いの釘が日本の労働者の胸にグッサリと突き刺さっており、「行かないで、行ったら殺す」と束縛彼氏のようなメンヘラ具合で目を覆いたくなるような寂しさを作品の中に込め続けているのだ。

それはさぞプレイヤーにとってハタ迷惑なものだろう、近寄らないほうが身のためでは…と思いきや、全然そんなことはないのであった!プレイヤーはプレイヤーで「ゲームプレイが終わってしまう…!」という対象喪失にこれ以上ないほどの恐怖と寂しさを感じていたのである。だが同時に「見渡しても誰もいない!」という寂しさとも戦っており、身寄りのないプレイヤーたちはどこなら寂しくないかを探すので毎日毎日精一杯だ。

視聴覚を刺激するコンテンツが秒単位で生み出され続ける昨今、1回アニメを見たら終わり、1回ゲームをやったら終わりという忙しい若年層にとって、「みんながいつまでもクリアできないゲーム」は目の上のたんこぶであると同時に「そこに留まってもいい、取り残されない」という免罪符、隠れ蓑となった。開発者、プレイヤーともども「お前まだそのゲームやってんの?」という言葉や取り残される不安に怯えており、エルデンリングなら、アーマードコアなら、という免罪符が手に入るなら金を払ってでもそこには依存する。「社会から取り残されずに死ななくてすむ術」を「みんなが留まる死にゲー」によって手に入れようとしている。

ソウルシリーズにおける多人数プレイ

私達は「死に覚えゲー」に挑むとき、脱出不可能なデス・ゲームに囚われているのかもしれない。しかし、そこには声の届かない冷たい孤独よりも遥かに安心な、誰かによって見届けられる暖かな死が約束されている。

・2010年から続くソーシャルゲーム時代の「難易度」設定

社会性とかどうでもよくそっちのけで同じゲームを黙々と繰り返しソロで遊べる仙人、「積んでおいてそのうち周回遅れで遊ぼう」とのんびりゆっくり世界を旅したい放浪者には、この手の「また来てね〜がしんどいデスゲーム」はしつこくて面白くない。では、昨今のゲームにおいて「難易度」を面白さの指標とすることは果たして適切と言えるのか?

一見、束縛彼氏のエゴかと言いたくなるような鬼畜難易度のゲームは「みんながクリアできない(=留まっている)ゲーム」としてニュースサイトやSNS、リアルタイムにモニタリングしてくれるSteamプラットフォームとの相性がよく、他人と繋がる感覚が欲しい人ほど切望し、プレイを続けている。SNSにどっぷり浸かった現代のプレイヤーは飽きっぽく流動的で時間効率(タイパ)を求める傾向があると共に、1本で自分たちをいつまでも引き留めてくれる費用対効果(コスパ)を求めるという矛盾を抱えているが、「みんながクリアできないゲーム」はその相反する欲求を満たし続けるエリクサーだ。かつてはモンハンがその役目を一身に背負っていた。

「ひと狩りいこうぜ!」で仲間が繋がった

そのような「みんながクリアできないゲーム」を拠り所としてきたプレイヤーは、「クリア済み卒業生の同窓会」よりも「未クリア仲間のパジャマパーティ」を選んできた寂しがり屋の傾向が強い。アーマードコア6は歴代のアーマードコアらしさからは離れてしまったが、その「みんながクリアできないパジャマパーティ枠」の穴にスポッとハマった。昨今のSNS時代に向けての難易度は「プレイヤーが留まってくれる程度の理不尽さ」こそが良い塩梅と考えられており、難易度の高さは人を注目させ続けられるかどうかの指標としては使えるが、ゲームの面白さとしての指標には残念ながら使えないと言わざるを得ない。

私の理解ではSNS時代におけるゲーム難易度とは「社会的、物理的な離れにくさ」の指針であり、言い換えれば「お付き合い」の難易度だ。操作がうまいからといって、「お付き合い」の難しいゲームは表情1つ変えないし決して褒めてくれない。

だが、それがお互いにとって温かいのであれば、それもまた必要な繋がりなのだろう。フロムソフトウェアはきっと、冷たい眼差しを持った、寂しがり屋の鬼なのだ。

# 最後に:「死に覚えゲー」は人気だがアクションゲームとして至高の形ではない

「死に覚えゲー」は人々の漠然とした不安と期待を確かなものに昇華させられるゲームの形としてここ20年のトレンドをかっさらい、成功を収めた。ひとつの究極の形ではあるがアクションゲームの作法で生み出されているものではなく、格ゲーの成長曲線を交えたシューティングゲームの作法である。「失敗すると死んじゃう!」という制約を設けることで可動性と自由度は失われたが、人々はその隷属的な環境でのデスゲームに閉じ込められることを喜び、むしろ酔いしれている。

だが、「死に覚えゲー」はシューティングゲームの作法であるがゆえに閉塞的なゲーム仕様、融通の利かない固定パターン化や単純作業化を助長する。偶然性やアドリブによるドラマやロマンを排斥する風潮を生み出し、偏ったユーザー層による勘違いしたゲームへの変貌を招きやすい。あえて言わせてもらえれば、それはPSO2が何年も何年も前に繰り返し辿って立証し続けてきたことだ。シリーズのもともとのコンセプトが「死に覚えゲー」ではないものを、アクションゲームの大正義だと思い込んで無理やりに作り替えるのは破滅への一歩にしかならない。これはPSOを20年以上追い続けてきた当事者からの警告だ。覚えておいてほしい。

フロムソフトウェアはアーマードコアを自らの巣のように愛したレイヴン達がどのような人々だったのかを思い返し、もはやお家芸となっている「ソウルライク」への偏向をほどほどにとどめ、アクションゲームとしての可動性を重視し世界観に没入させる間口の広いゲームモードを入口に置くことでより多くのプレイヤーを「レイヴン」として迎え入れることができると思われる。アーマードコアにソウルライクを当てはめるやり方を諦める、その決断が必要な時が必ず来る。…しかし、現代人の願望を見るに、今はその時ではないのかもしれない。

アーマードコア6は一瞬にしてこの世を祭りの夜に変えた。良くも悪くも、アーマードコア6は一時的に熱に浮かされるお祭り、つまり集団幻覚であるというスタンスを形にした。起きるべくして起きた、カラス達が集まるワルプルギスの夜だ。この夜が終わると、またカラスたちは散っていき青い鳥がいなくなった古巣で「寂しい」とつぶやくだろう。それに呼応するように、地の底の鬼たちは「寂しい」と夜を再び紡ぐだろう。

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