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アクションゲームはいかにして「死に覚えゲー」となってしまったのかの余談:それぞれの抱える深層と課題

前談となる記事はこちら。

「死に覚えゲー」が発展していった歴史の周辺を深掘りした結果、冗長的になってしまい前談には載せるのを控えた見解や考察について、余談と銘打ち本稿で掲載する。前談の補足情報や別紙だと思って読んでほしい。

ここ数年のゲームを取り巻く風潮に関する個人的な感想、批判も含まれるので、気分が悪くなりそうなら別に読まなくてもいい。より良いゲーム作りを志す多くの人に向けて、知っておいて欲しいから書き殴った手記にすぎない。


# 余談1:アーマードコアらしくないけど今どきのゲームっぽい要素の是非

アーマードコア6においては、フロムソフトウェアの直近の大ヒット作「エルデンリング」のシステムの影響が大きく見られる。これらはエルデンリングという完成度の高いゲームのシステムを持ってきたのだから当然正解大正義だろうというイメージが広まっているが、アクションゲームとしてあるいはアーマードコアのゲーム性としてどうなのか?という点について私見を述べる。総じて「なんだかなぁ」である。

1.わからん殺し、初見殺しによる愚直なパターン化とその埋め合わせとのアンバランス

クリアさせない工夫の1つとして、敵がどのような攻撃を行ってくるのかのヒント抜きで戦闘が開始され、対策が取れずやられるという展開が狙って作り出されている。格ゲーでは「わからん殺し」、RPGでは「初見殺し」と呼ばれ賛否を呼ぶパターンだ。

このやり方はあまりにも理不尽な仕様とならないように攻略方法を予め開発側が定めることが義務付けられ、正解の行動を取ったときのみ「死なずにすむ」ように仕込むこととなる。弾幕系シューティングゲームやFF8、FF9などでよく見られたものの、どのゲームジャンルの要素かで言えばパズルゲームの要素であり、パターンを分析して正解を選び取っていくゲーム性に着地しがちである。

「操作が上手かどうか?」ではなく「開発者の意図通りに動けたか?」が問われ、アクションゲームとしては乱発されてもワンパターンに感じてあまり楽しくはならないのと、正解が1つしかない場合は特に繰り返し作業となりがちなのが、プレイするうえでも制作するうえでも難点だ。よく計算されていると称賛されるゲームも多いが、基本的にはブービートラップ、びっくり箱の類だと考えてもらいたい。

エルデンリングの「ツリーガード」

わからん殺しによって理不尽なゲームオーバーを与え、復讐心を募らせて意固地にさせるのが開発者側の目的であるが、「なんでその程度の攻撃で死んじゃうんだよ装甲ダンボールか?」という様な、主人公が弱すぎることへの疑問や違和感に繋がったり、同じ武装、同じサイズに見える敵が異様に強くてズルいという不公平感に繋がったり、種明かしを知ればいつもの単純作業になって飽きが来やすいといったマイナス効果はでかいと思っている。

2.「スタッガー」によるチャンスタイムの概念と、自身が強大な存在という認知とのミスマッチ

昨今のアクションゲームでは、主にモンハン(やパチスロ)などの影響で「特定条件を満たすと敵が行動不能になり、タコ殴りのチャンスタイムが発生する」という仕様が広く知られ、楽しみの要素として採用されることが多く、アーマードコア6も例に漏れずその運びとなった。(※AC5にもスタッガーは一応あるとのこと)

ただこれに関しては「一気に決める爽快感がある」という好意的な意見がある反面、「アーマードコアっぽくない」と言われる大きな要因にもなっており、本当に必要な要素だったのかは疑わしい。「チャンスタイムにしかダメージが通らない」「撃ちたい武器を撃ちたいがスタッガーのために我慢する」「気に入った武器があるがスタッガー性能が低いので使えない」といったプレイスタイルの制限に関するもどかしさは無論、一番の違和感は「チャンスタイムが終わると手を緩めて逃げなくてはならない」点だ。

モンハンのような生身の人間vs怪獣というような構図では、プレイヤーがか弱い存在であることが前提として強調され、チャンスタイムでしか安全に攻撃することができない理屈が立ち、危険で暴れん坊な怪獣の動きにも説得力がある。しかしアーマードコアにおける主人公は、一般的な武器ではろくなダメージも与えられない上等な兵器、戦車やパワードスーツの類を与えられており、作中では「レイヴン(ネクスト)には勝ち目がない!」と叫んでなすすべなく撃墜されるザコ敵たちで溢れ、自身が強大な存在であることが強調される。

そんな前提を持ちながら、ボス戦では一発一発の被弾に神経質になりつつチマチマとチャンスタイムを狙い、敵がスタッガー状態になったらみみっちく温存していた大火力を脳死で叩き込んで、敵が復帰したらやられないように手を緩めて逃げなくてはならないのだ。特に残りHPによって行動パターンが変化するボスに関しては、ダウン中に大量のダメージを叩き込めば叩き込むほど「行動パターン変化による初見殺しやしっぺ返し」を恐れて逃げなくてはならない。

AC6の戦車型ボス

敵の行動を気にしながらのヒット&アウェイ、これは戦火の中で活躍する強大な自己を期待しているレイヴンにとって、ACを駆る爽快感と呼べるものか?自分が世界を変えうるほどの強大な存在であると説明されながら、なにゆえ眼前の敵を恐れて機会を伺わなくてはならないのか。自分と敵とは対等な存在ではなかったのか?その疑問をアーマードコア6はどうも解決してくれないようだ。なにしろ戦争の切り札として扱われるACに乗る自分がなぜ戦闘ヘリや戦車より圧倒的に弱いのかの納得材料がないのだ。

多くのプレイヤーにとっては待ち望んだ「歯ごたえ」として認識されているようだが、私はこの「普段は弱虫だが相手がダウンするとよってたかってイジメる、復帰されると怖いから足早に逃げる」という悪ガキのピンポンダッシュのようなゲームデザインにずっとウンザリしており、ラグナロクオデッセイの小さい人間が巨人をやっつけるというコンセプトを見てから『ゴブリン理論』と呼んでいる。このゲームデザインは、圧倒的強者にチャンスタイムという情けをかけられた挙げ句、自身が弱者であることを真に裏付けるものだ。

自らが暴れん坊になって我武者羅に火器を乱射し、暴風雨のように戦場を荒らし回る体験、ライバルを見つけたら計算など二の次に、手加減なしで全力をぶつけ合う体験を提供してきたアーマードコアのような作品には、敵のダウンやチャンスタイムがあるバトルシステムはミスマッチな仕様だと思う。ゲームのウマいヘタを語る前に、「あなたはゴブリンのようにちっぽけな存在ですよ」とゲームシステム側に語られ、それを受け入れさせられるのが純粋にしんどい。

3.「リペアキット」による体力回復とその契約による代償とのトレードオフ

アーマードコアは「AP」と呼ばれる体力の概念が装備パーツごとに設定されており、それを高く積み上げることで総合体力を上げることができる。だが、こともあろうにアーマードコア6ではそのAPを回復できるアイテムが登場してしまった。

ゲームデザインにおける「回復アイテム」の意義は、HPの水増しだ。ドラゴンクエストを例に挙げると、こちらのHPが100しかない頃にボスのHPは1000近くあり、圧倒的な体力差があるわけだが、それをドラクエの勇者は「HPを50回復できる薬草x10」を持ち込んでことあるごとに使用し、100+500のHPでボスと戦い、圧倒的な不利を逆転勝利で覆すのである。

ドラクエのようなターン制バトルでは、「どのタイミングで薬草を使う選択をするか?」というカードゲームの駆け引きのような楽しみがあるがゆえに、プレイヤー側のHPの低さと回復アイテムの重要性とのバランスが成り立っている。しかし、アーマードコアやエルデンリングのような、すさまじい勢いで敵キャラが迫ってきて一瞬でも気を抜いたらやられてしまうようなゲームで「回復アイテム」はどんな駆け引きを提供できるだろう?

エルデンリングの回復アイテム補充ポイントである「祝福」

世間では「回復アイテムが3回も使えるなんて易しい」という声もちらほら見られ、難易度がリペアキットの分だけ緩和されているといった好意的な意見が多い。だがしかし「リペアキットありきで敵の攻撃力が高まっているからあまり意味ない」という意見も真実で、リペアキットと敵の攻撃力とでゼロサムゲームが行われているかのようなバランスの取り方だ。回復アイテムがもしなければ敵の攻撃力が抑えられていたのかと考えると、従来のようにスタート時がMAXだったAPというリソースを、今作では分割払いで受け取っているだけ(しかも申告漏れしたら間に合わない)というオチに着地してしまう。

しかるに、フロムソフトウェアはエルデンリングにおいてもアーマードコアにおいても「回復アイテム」を深くゲーム性に落とし込むつもりはなく、単なるフレーバー、もしかするとゲームオーバーからのコンティニューのような不名誉の類であると定義しているのではないだろうか。もう少し回復アイテムの意義について詰めてほしいと思ったりはするのだが、ノーダメージでクリアできるかを競うようなトレンドの中、何のために追加された回復アイテムだというのか、回復アイテムがアーマードコア6に提供できる駆け引きとはつまり何になるのか、正直なところ面白みを見つけることは難しい。

# 余談2:「突然別のゲームが始まる」という認知に陥るケースの難しさ

前談にて「アクションはシューティングになって死にゲーと呼ばれた」という旨の文章をつづったが、これは何も今にはじまったことではない。ファミコンの時代から「アクションだと思っていたら別ゲーが始まった」という作品は随所に見られ、たびたびネガティブな印象を与えている。ゲームシステムが与える体験とユーザーが期待する体験に乖離は許されないのだ。乖離があれば「騙された」という体験を与えてしまう。文学のテストで「作中で語られている時刻と距離からメロスが走るときの平均速度を求めなさい」という設問が出るのが理不尽であるように。

近年の具体例では、大ヒットしたニーア・オートマタは明確にシューティングゲームの様式美を備えたパートがある。アクションRPGとして認知しているゲームに突如、縦シューのゲームシステムが挟み込まれることで何人かのプレイヤーが戸惑った。星のカービィのナンバリングシリーズはシューティングゲームでラスボスまたはラスト一歩手前のボスを倒すのがお約束となっているがこれも賛否あり、ゲームの「難易度」をシューティングゲームの理不尽さで表現しないで欲しいという旨の意見はたびたび挙がっている。

今でこそ「シューティングゲームが融合したアクションゲーム」は珍しくないが、古くはパルテナの鏡やハドソンのドラえもんが見事にそうであり、ゲーム難易度やプレイ体験の評価面でかなり物議を醸した。

いずれもプレイヤーからはゲームシステムの変化に対して「突然別ゲーがはじまって…」という認知になり、しばしば嫌がられている。そして、コナミワイワイワールドのようなスターシステムのゲームにおいてはむしろ歓迎される。そういう心構えでゲームを選んでいるからだ。

・ワクワクする事前情報から期待していないゲームが始まることが双方にとっての不幸

シューティング要素のあるアクションゲームは前述のロックマンを筆頭に、コントラ、ガンスターヒーローズ、フロントライン、怒ーIKARIー、戦場の狼、メタルスラッグ、バイオニックコマンドー、魔界村など様々生まれてきた。しかし複雑な操作系統や高低差の概念が取り入れられてアクションゲームの分類に近い作品になればなるほど「これは横シューだ、縦シューだ」と認知されることは減っていく。ロックマンについては特に、近接攻撃を行えるゼロの登場によって、「仕組み的にはシューティングゲームだ」という意識はより薄まった。

これら「期待していない別ゲーが突然始まる」は無理強いされると総じてネガティブな印象を与える。人によって処理できる情報の得意、不得意が異なるからだ。比較的新しいバイオハザードやFFではアドベンチャーパートに突然「□を押せ!!」のようなQTEが挟まり、プレイ体験を逆に損なうとしてひんしゅくを買っている例もある。あなたがアクションゲームだと思ってプレイしているゲームは、もしかするとフォートナイトのような射的ゲームであるかもしれないし、大勢で最適な行動を取り続ける必要がある大縄跳びゲームかもしれない。

アーマードコアは前述の通り、ロボットを組み立てて適当に乱れ撃ちしていれば敵をやっつけられる爽快なアクションゲームであった歴史がある。それが今シューティングゲームの遺伝子を組み込んで「死に覚えゲー」と呼ばれるほどプレイが困難になったのだとしたら、それは多くの人に「突然違うゲームが始まった」と認知させたのと同じなのだ。難しくなって沸き立ったからといって、アクションゲームとして昇華したわけでは決してない。

# 余談3:様々なゲームジャンルを侵食してしまったシューティングゲームの「確実性」を競う遊び

では、なぜ「突然別ゲーになった」と感じてしまうのだろうか。例えばアクションゲームをやっていて突然ウィンドウが表示され「たたかう」「じゅもん」「どうぐ」などといった選択肢が現れたら、それは突然RPGになったと感じるだろう。シューティングゲームにもそのような要素があるはずだ。

私の独自研究では、プレイヤーがシューティングゲームを認知するトリガーには下記の2つの要素がある。

  1. プレイヤーの意志で制御できない強制スクロール

  2. 敵キャラクターの攻撃への時間制限付きリアクション

上記のうち、片方だけが備わっていてもゲームジャンルの垣根はなかなか超えない。例えばスーパーマリオシリーズでは3で強制スクロールのステージが初登場するが、まだアクションゲームとして認知されていた。

敵キャラクターの攻撃に対する時間制限付きリアクションの要素については、アクション寄りの要素と見せかけてかなりシューティングゲームの影響が大きい。例えば「パリィ」や「カウンター」「ジャストガード」を仕様に含め始めると、後出しじゃんけんが最強になったり敵がばらまく球を拾い集めるように走り回るのが正解になったりするような滑稽なゲームになり、本来は操作性や自由度を重視していたつもりなのに徐々に待ちのスタンスでしか行動できなくなる。これをやりすぎたゲームは敵の吐き出す弾が逆にパワーアップアイテムのような扱いになり、取り逃したらクリア不可、タイミングを誤ると1ミス、カウンターを決めればクリア、という構造に近づいていくことになる。最終的に「これはアクションゲームなのか?」という疑問を与えることになってしまう。(お前のことだ、NGS)

・STGの失われた先、音ゲーから人力TASへ

アクションゲーム以外の事例を挙げると、ビートマニアに代表される音ゲーは「音楽のリズムに合わせてテンポよくボタンを押す」というゲーム性から、「迫ってくる大量のノーツに構えを取り、リアクションを取って100人組手か1000本ノックの如く撃破する」というアルゴリズムで消費されるように変化してしまい、ユーザー層の移り変わりを余儀なくされた。見た目と説明こそ音楽ゲームだが、上級者のプレイスタイルは弾幕系シューティングゲームのそれである。

今のようなシューティングゲーム要素偏重の風潮が生まれた裏側には、グレーなツールでの効率化遊びを発端とするTASを人力で行う曲芸(=RTA、人力TAS)が2010年代ごろから盛んとなった時代背景がある。世のゲーマーたちは「決められたチャートに沿って緻密な操作をミスなく効率的にプレイすること(作業すること)」がゲームのウマいヘタの基準であり、ミスなく効率的にプレイする以外の要素は失敗である認められないと先鋭化していった。

奇しくもシューターがシューティングゲームの新作に飢えていた時代であり、無意識的に人々はシューティングゲームのもたらす「確実性」を競う遊びや快感を他のゲームに求めた。

それは2023年においても続いており、ランダム要素に対するアドリブ能力(=機転)やラッキーヒットによる意図的でない攻略(=運ゲー)によって生まれるドラマ、ハプニング、コントロールできない事象、未知との遭遇、ロマンやケレン味、可能性の美学を軽視する風潮に繋がっている。現代のゲーマーは過酷な理不尽作業ゲーに一日中チャレンジできるほど忍耐力は高まったかもしれないが、不確定要素に対するストレスに尋常じゃないほど弱く、現在過去未来すべてが”演算”できないと気が済まないきらいがある。

PSO2の演算至上主義の男「ルーサー」。彼は計算高い悪党の敵キャラクターにもかかわらず、同じ傾向を抱えたプレイヤーから絶大な人気を得ることになった

・柵に囲まれて広くなくなった「アクション」

こうして、幅広い可動性や自由度をモットーとして制限の解放や無限の足し算を表現してきたはずのアクションゲームは引き算の美学とも言えるシューティングゲームの要素を取り込んで「偶然性を排除して最適解が1つに絞られるゲーム性」を獲得し、その理論が覆されるようなアクシデントや制御できないランダム性を不正や反則として取り扱う閉塞的なジャンルに変貌してしまった。

それは好ましい変化だっただろうか。数々の心豊かな友人たちを見送ってきた私はそうは思えない。あれほど待ち望まれて多くの人が一緒に楽しみたいと手を伸ばしたスマブラSPで、「戦場」以外のステージは不適切であると協議され、天恵として現れる逆転要素アイテムを邪道だと跳ね除け、勇者が悪魔の子として出場停止になった流れは本当に「望まれた対戦アクションゲーム」だったのか、人々は顧みるべきだと私は思う。

大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL

# 余談4:人々が求めているのは「スリル」か「闘争」か

「死に覚えゲー」を語るにあたって「スリル」は切っても切れない関係にあり、今回アーマードコア6で「これくらいの難易度がちょうどよい(むしろ優しい)」と評しているプレイヤー達はそのスリルを体験しつつ闘争を楽しむことができる危機感のフルコースに酔いしれているようだ。では、果たして渇望され続けているスリルと闘争が人々に与えているものとは何なのか?

2000年代に『PSO』が生み出した手抜きレベルデザインの魔物「管理区チャレ」は、多くのプレイヤーに一撃死による理不尽と探検リスクに見合わないリターン、そして「弱い自分でも強大な魔獣を討伐できる」というカタルシスを提供し、人々から「スリル」という単語を引き出した。

PSO2でリメイクされた「ガル・グリフォン」

当時の私からすればただひたすらにバランスの悪いゲームシステムにクソ挙動のボスモンスターに初期装備で長時間付き合わされ、スリルスリルって何のことだよと辟易していたわけであるが、当時の人々が求めていたものは「社会的な死の疑似体験」のことだったのだろうなと今になって思う。

・人として扱われなくなるという劇薬を添加しなければゲームを楽しめなかった人々

ビデオゲームでは基本的に操作キャラクターがやられてもプレイヤーは傷つかない。だが、ゲームプレイによって何かが失われてしまうという危機感を持って恐れる人々、また「そうでなくっちゃ面白くないぜ!」と考える困った人々はいた。その人々はゲームキャラが死亡することによる精神的ショックや、他のプレイヤーに迷惑をかけてしまうかもしれない=社会的な評価が下がるかもしれないというパニックに対するリスクを「スリル」と名付けていたのだ。究極的には「影を踏まれたら命または社会性を失う」というルールを自らに課して遊んでいる。劇薬を添加して「社会的に死んだらどうしよう」という擬似的な死亡リスクをわざわざ作り出している。SNS世代に響くように言えば「ゲームで死ぬとフォロワーが減る」という怖さだろうか。

社会的に失われるものがなければ面白くないと考える人々の声により、またそういった人々がゲーム業界に混ざって携わることにより、ゲームの与える体験はここ10年で「何かが勝手に失われる」方向へとシフトした。みんながやっている高難易度ゲームをクリアできなければ、勝手に社会性が失われるのだ。これが人々の求めてきた「スリル」の正体であり、過去に渇望され現代に満たされたニーズである。そして、社会性の担保が生き甲斐に繋がらない異邦人や旅人にとっては不条理を押し付けられているようなもの。

・世界一を求めると同時に、世界一には耐えられなかった人々

続いて、アーマードコアの根強いファン達が求める「闘争」とは何が求められているのか?こちらについてはやや闇の深い話になり、「オヤジ超え依存」という概念がその答えとなる。

かいつまんで言うとグラップラー刃牙やベジータをやっているのだが、アーマードコアをはじめとする対戦ゲームにおける思考のサイクルは以下のようになっている。

  1. 動機:自分よりも強大な相手を打ち倒すことによる下剋上や復讐の快感を味わいたい、俺より強いヤツに会いに行く

  2. 前提:ボコボコにされた俺がそんなに弱いわけがない、いつか見返してやる。アイツ以外のザコには勝てて当然、眼中になし

  3. 希望:永遠のチャレンジャーでありたい、打ち倒すべき目標の相手は永遠に雲の上の存在であってほしい。自分ごときに負けてほしくない

  4. 絶望:倒す目標がいないなんてそんなこと信じられない、戦う意義を失っている、戦いたい、復讐したい、誰かいてほしい

格ゲーや対戦ゲームで最も楽しいのは「相手を打ち負かす瞬間」であり、なぜ打ち負かしたいのかと言えば「自分より強いから」である。自分より弱いものはイジメても楽しくない(暇つぶしや気晴らしにはなる)ので、一番気に入らない相手に殺意を向ける。しかしその下剋上や復讐が果たされてしまうと一気に対象喪失の虚無感を味わい、自身の存在意義を保てず一気にメンタルが崩れることになる。私はこの、1位に勝ちたいが1位にはなりたくないという思考のサイクルを『永遠の二番手理論』と呼んでいる。

ドラゴンボールZ KAKAROTの悟空とベジータ

誰にも負けない強さを身につけ自分が一番強いチャンピオンであることを自覚した人間は、突如攻める側から守る側の人間になる。多少のことでは動じない貫禄を身につけ、揺るがぬ信念を胸に教えを説き、後継者を育てる良いオヤジとならなければ守る側の人間としては大成しない。だがそのような大らかな姿勢を身につけたオヤジは一度1位から転落したとしても「自分はもうすでに大将、勝っても負けても気にしない、そのうちチャンピオンベルトは俺の手元にやってくる」という大きな気持ちを持っており、競争を煽るワードに動じなかったりする。それゆえに”二番手”の人間はそれが気に食わず、「打倒オヤジ」を掲げて下剋上や復讐のために力を注ぐのだ。

最強の名をほしいままにした格闘家のキャラクターが、より強い者を求めて旅をするストーリーは今昔変わらず描かれているが、それは強さの探求と言うよりも、絶望しないために「オヤジ越え」ができる環境を探し求めているのであり、ここに「オヤジ越え依存」と言わざるを得ない状態が発生するのだ。これが世の人々が求める「闘争」の本質であり、アーマードコアをはじめとする対戦ゲームが提供している体験である。

幸いアーマードコア6に関しては世界中で10万人を超えるプレイヤーがおり、全員がネット対戦に参加するわけではないとしても、対戦コンテンツはしばらくの間、枯れることなく復讐の泉を湧かせ続けるだろう。だが、トップランカーが揃い踏みしてチャンピオンベルトを取り合うその瞬間になったとき、なぜか和気あいあいと互いに1位を譲り合い、笑って酒を酌み交わす光景が生まれているかもしれない。

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