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「タトゥーは自己表現じゃない」アーティスト亜鶴ロングインタビュー

記事概要
亜鶴(あず)は、「顔」をモチーフにした油絵を描くアーティストだ。しかし、そんな彼にはもう一つの「顔」がある。彼は持てる皮膚のほぼ全てに、タトゥーをはじめとした身体改造を施しており、また彼自身も、依頼者の身体にタトゥーを彫る仕事を生業としている。いわば「彫師」として生きている。
 さらに彼は、昨年逆転無罪を勝ち取ったことで話題の「タトゥー裁判」にも遠くない関わりを持っている。自身が参加した「自営と共在」というグループ展覧会で彼は、会期中にこの裁判について扱ったシンポジウムを企画し、そこに同裁判の弁護人である亀石倫子氏を招いていた。
 そのように強い関わりと緊張をもってこの裁判を見守っていた亜鶴が、この判決の喜びを共有しつつも、ある違和感を漏らしていたと聞きつけた。黒嵜はその真意を聞くべく、ロングインタビューを敢行することにした。

※本文中にはいくつか、刺激の強い写真や動画へリンクが貼られた箇所があります。クリックする際はご注意を。

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タトゥー裁判について

黒嵜:今日はよろしく。タトゥー裁判を巡る報道への違和感をはじめとして、タトゥーがおかれている社会状況や、亜鶴くんのタトゥーそのものについての考え、などなど掘り下げて聞いていきたい。
 さて、2017年9月の大阪地裁での第一審から一転、2018年11月に大阪高裁で無罪判決を勝ち取った「タトゥー裁判」だけど、さっそくこれについて所感を聞かせてもらえるかな。

亜鶴:サブカルチャーと法の兼ね合いってなかなかに難しいと思うけど、職人としてお客さんに接していた諸先輩方の背中を見つつ、学生時代から今までを歩んで来た身としては、裁判所にて無罪判決の知らせを聞いた時は、やはり嬉しかったね。ただそれと同時に色々な違和感を覚える事もあった。
 控訴審での亀石さんの反論が印象的で。「タトゥーを彫る過程とできあがったタトゥーを分けて、前者は表現でないというのは、ピカソから筆とキャンバスを、ベートーベンの楽曲からその演奏を切り離して論じるのと同じである」と。元は2010年にアメリカで行われた裁判で述べられた言葉を引用したみたいやけど。

黒嵜:「タトゥーを彫る過程とその出来上がったタトゥーを切り離すことはできない」と。「タトゥー裁判」というのは、要はタトゥーを「彫る」のは医療行為かどうかを争ったもの。代表として訴訟を起こしたのが増田太輝さん。弁護側がメディアを通して発信した主張というのは、第一に、タトゥーがアートであるということと、第二に、したがってアートとしてのタトゥーは保護されなきゃいけないんだという主張。彫る過程を医療行為として禁止するのは表現を規制するのと同じなんだということだね。 

亜鶴:そもそもこれまでがおかしくて、タトゥーはいいけど彫るのは違法という変な法律になってたんよね。そこで、さっき述べたような理路を通したんやと思う。

黒嵜:そこで亜鶴くんは裁判の勝利とは別に、原告側がとった戦略に伴って現れた報道のテイストや、その受け取られ方に違和感があったと。

亜鶴:亀石さんの意図とは別に、タトゥーを彫ることはアートか医療行為か、と二者択一を強調をするように報道され始めたことで、何か引っかかりを感じ始めた。医療行為でないにしてもアートでない場合もあるし、アートであるからと言って医療行為ではないっていうこともないと思うし。
 お互いが独立して考える問題をセットにして二択の構造にしちゃうと、タトゥーはそもそもアートでなきゃ存在しちゃいけないことになってしまう。逆にいえば、アートであれば即無罪みたいに、「アート」が世間に訴えられたときの免罪符になってしまうんやないかと。自分が開催したシンポジウムは、裁判の関係者たちに密に話したりとかして、この問題が二者択一にされる手前で、考えてみたかった。

黒嵜:裁判の推移を改めてみてみると、決定的な転換点になったのは亀石さんの広報戦略だね。マスメディアからウェブメディアに至るまで、様々な場所でこの問題を衆目に触れるようにうまく扱った。結果、同裁判は「個人の権利保護」や「表現の自由」といった大文字の論題を引き受けた形をとり、世論を味方につけたことが無罪獲得につながった、と。凄まじい手腕だったね。

亜鶴:亀石さんが立ち上げたクラウドファンディングのコメント欄には、タトゥーには反対だけど今回の裁判には賛成、といったものが多かった。

黒嵜:国が個人の身体の権利までも規制しようとしているが、個人の身体は個人のテリトリーであって、アートの拠点だろうと。つまり「個人の自己表現としてのアート」がここで勝ち取られたわけだね。

亜鶴:自分の彫ったものや自分に彫られたものが「アーティスティックだね」と言われるのは単純に嬉しいけど、アートやってますって感覚をもったことはなかった。そもそも、自分はタトゥーの前にピアスを開けていたし、その延長という感覚もある。自分が購読していた雑誌には、タトゥーは他の身体改造と共に紹介されていて。


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身体改造としてのタトゥー、亜鶴の場合

黒嵜:なるほど、たとえばタトゥーを身体改造の一部とすると、確かに「個人の権利としてのアート」と「非医療行為」はセットにできなくなるね。実際に亜鶴くんの体じゅうを覆うタトゥーは、他の身体改造と共に刻まれているけど、タトゥーに限らずいままでどんなことをしてきたか教えてもらえるかな。

亜鶴:9年ほど前に、右肩からひじ下くらいまで「バイオ」と呼ばれる柄を入れてた。彫った当時は、これが流行ってて。「バイオメカ」やと機械仕掛けを思わせる柄、「バイオ」やと内臓や植物を思わせる柄やね。

黒嵜:右腕の能面は?

亜鶴:2011年に入れた柄やね。

黒嵜:淡い色合いで目を引く。タトゥーは強い色合いが多くてトーンの種類が少ないと思ってたけど、これは濃淡が繊細で能面の滑らかな隆起も再現できてるね。

亜鶴:これを彫ったのは、普段から和彫をメインにやっている人。面が好きだったから入れてもらった。当時の流行はリアリスティックタトゥーという、写実系の柄だった。彫師に美大出身の子が多くなり、マシンの性能が上がってきたことでこの流行があったと雑誌で読んだな。

黒嵜:腕や背中にあるのは民族的な紋様は何だろう?

亜鶴:Instagramで民族系の柄が流行ったことがあって。
 彫師は自分の脚で練習するんやけど、練習を重ねて黒くなった脚をみて、大島托さんが「縄文タトゥーのプロジェクトに身体を貸してくれませんか?」と声をかけてきたのよね。背面に何も入ってなかったから「好きに使っていいですよ」と受けたら、いきなりやたら黒くなっちゃった。

黒嵜:(笑)

亜鶴:今後なんらかの身体改造の過程で、切ったり剥いだりすることはあるやろうけど、背中に関してはここに重ねてタトゥーを入れることはないやろうね。

黒嵜:切ったり剥いだり!そのような身体改造は何と呼ばれているのかな。他にはどのようなものが?

亜鶴:タトゥー、ピアスあるいはその穴の拡張、カッティング(切り傷で描く)、ピーリング(肌を剥いて描く)、ブランディング(火傷で絵を描く)、インプラント(肌に異物を埋め込む)、あとより過激なのは体の部位を欠損させたりするものもあるな。
 自分が試したものといえば、かつて小説『蛇にピアス』で話題になったスプリットタンに始まり、ピーリング(右腕)と、ソーラーブランディング(左手親指、左前腕)と呼ばれる太陽光での焼きかな。あと、身体改造を伴うプレイとしてサスペンション(背中に穴を開けフックを通し吊り上げられる)があって、それ用の穴は背中に空けたことがある。数日で塞がったけど。俺が体験したのは、マグロ用のフックで吊り上げるもの。一般には登山用のクライミングフックを改造したり、今はそれ専用の器具も流通しているらしい。一本釣りは「チェスト」や、「オーキーパー」と呼ばれていて、たまに千切れることがあることがあるらしい。俺がやったのはスーパーマンスタイルで、つまり寝転んだまま10本のフックで吊り上げられる用の穴。破れたことはない。人間の皮膚は5キロぐらいの重さには難なく耐えるみたいよ。

黒嵜:5キロくらい引っ張りには耐えれる…のか…(困惑)。なるほど、タトゥーの前にピアスも試していたようだし、少なくとも亜鶴くんはタトゥーを身体改造の一部として捉えているわけだ。
 右手の各指に×マークが入っているけど、それがハジチと呼ばれる、沖縄の民族紋様だね。

亜鶴:せやね。タトゥーのなかには、当然地方におけるかつての風習であったものもあって。例えばこのハジチなんかは沖縄の女性の成人儀礼の一つで、あったそう。先も話題にでた、自分が登壇したシンポジウムでも、開催地が沖縄であったこともあって議論に上がったな。
 また、裁判長が読み上げた主文にも、民族のデザインがどうとか本人の感覚で入れるのは当たり前でしょ、という文言があった。

黒嵜:そんな中で、油絵を描き出したのはなぜ?

亜鶴:彫師になりたかったからやね。高校を出て、大阪美術専門学校に入った。タトゥーっぽい絵柄、和彫やさっきも話題に出たバイオも描いてた。そのうち、より早くいい感じに描ける絵がやりたくなって、人の顔面を描くようになった。

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首から上、首から下

黒嵜:それで、顔面を描いた絵に集中することになったわけだね。でも現在に至るまでずっと続いたのはなぜだろう。何か描くにあたって決めていることはある?

亜鶴:あんまし顔に感情を意識させないようにして描いてる。見る人によっては全然リアクションが違う。「嬉しそう」だったり「悲しそう」だったり。「すごく怒ってるように見える」とか、「この目は何かを表している」とか。勝手な憶測を当てはめられるのがすごく面白くて。自分が思っていないところで判断されるのよね。

黒嵜:面白いね。亜鶴くんが、顔を描く油絵作家でありながら、顔以外のほぼ全ての身体的部位を改造してる人、というのは興味深いコントラストだ。いわば亜鶴くんにとって首から下は「何者かになる」テリトリーであって、首から上、つまり顔は「何者かにされる場所」なんだね。そういえば亜鶴くん本人の顔面にはほぼ「改造」が施されていない。
 人間の顔認識の能力はすごい。人工知能の技術のパフォーマンスが、顔認識で示されていたのもよくわかる。僕たちは過去の記憶との類推から、目の前の顔に対し即座に誰であるか弁別するのはもちろん、誰と似ているかも分類する。首からの下の改造はそれと分かるよう装飾するのに対して、首から上の改造、つまり顔の整形はそれとわからないよう隠蔽する技術が研鑽されているのも興味深いね。

亜鶴:最近、顔にタトゥーを入れて見たのよね。柄が可愛いから、アメリカのスー族が扱っていた紋様を。でも当初はタトゥーを顔面に入れるよさがわからなくて。BME (Body Modification Ezineの略称。 身体改造を扱った英語圏の一大サイト)には多いんやけど、一切かっこいいと思えなかった。顔面に入れると、どうしても表情が固定されてしまうのが怖い。
 Instagramとか見てたら顔面を真っ黒にしたり、国旗の柄を入れてる人がいるけども、マスクしてるように思えてしまう。

黒嵜:哲学においてもそうだけど、顔は他者と自分の間にある界面であると捉えられている。意識的であれ無意識的であれ、当人のリアルタイムの内面が現れているからこそ顔は、「何者かにされてしまう」場所というわけだね。表情と引き換えになったマスクは、他者の目に抗う術を失ってしまうと。

亜鶴: あくまで、変容へのプロセスが自分にとっては重要。その点では、顔面の整形にはあまりポジティブになれない。口の輪郭を少し上げるために、タトゥーを口角を線取るように施してみたけども、それもヒゲ生えてるしバレへんと思ったからであって。むしろ、不特定多数の目を恐れているってことが理解できたのが収穫かな。「変容のプロセス」というのは、自分の身体に具体的な他人が入ってくるということ。
 筋トレに今ハマってるのも同じやねんな。まず最初に着手したのが、もともとコンプレックスだった撫で肩。以前は下ろしたらストーンってなるから常に3センチぐらい意識的に上げてた。あと、お腹が出てる男性が好きじゃなくて、自分も腹が出てるのがすごく嫌でずっと腹圧をかけ続けてた。それが、筋トレを始めてみると、バルクアップのためにあえて太るというのをラフにやっていく必要があることがわかった。昔から肩は少し上げて腹は扁平にしとくはずっとやってきてたはずなのに、筋トレをするうちに、そういうことをしなくなった。体に対しての自意識はめちゃくちゃ強くなったはずなのに。

黒嵜: 亜鶴くんの整形に対する不審は、不特定多数の眼差しへの不審なんだね。対して筋トレで亜鶴くんが得たのは、コンプレックスの解消であるというよりかは、タトゥーと同じく、特定のコミュニティに共に帰属する具体的な他人たちの眼差しのあり方だった。

亜鶴:世間からは暮らしにくい身体になっていくはずなのに、身体改造を施すたびに自分の感覚がものすごく楽になっていった。この感覚こそ自分がタトゥーに求めているもので、それがアートと呼ばれることに違和感がある。

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身体をどこに帰すのか

黒嵜:タトゥー裁判は、タトゥーを彫る行為が医療行為か否かを争うものであった。しかしこの裁判の賛否を巡って、メディアはタトゥーが「アート」かどうかという二択を付帯させた。結果、判決は「個人の医行為」ではなく、「自己表現としてのタトゥー」に花を渡した。けれども亜鶴くんはその二者択一の手前で、タトゥーという皮膚に刻まれた痕跡と、タトゥーを彫る行為そのものを分けて捉えていた。亜鶴くんにとって後者は身体改造に連なるもので、特定のコミュニティに属するための行為だったわけだね。

亜鶴:「何になりたいの?」とかよく聞かれるんやけども、何かになりたいわけじゃなくて、何かに帰っていく感じだと捉えてる。自分が思っているものに帰っていく。変な話やけど、実家に帰るくらいの感覚でやってる。

黒嵜:身体を帰すためにやっている、ということか。すると、身体改造から始まって辿り着いたリアリスティックタトゥーを経由して、今民族的な紋様を背負っているのも別の側面が見えてくる。
 余談だけれども、このインタビューを収録するにあたり、梅田で落ち合った亜鶴くんがとても緊張していたのが印象に残ってる。先日、アメ村で打ち合わせたときはあんなに堂々としていたのに(笑)。身体改造が「自己表現」でなく、自分の身体が属すテリトリーを設定するためだというのは、それを含め納得するところだな。

亜鶴:もしタトゥーが世間でアートとして扱われたら、生活上の違和感の最たるもんはそこかもしれんなあ。もちろん、身体を扱ったアーティストという人たちも現代アーティストのなかにもいるけど、彼らとも大きく違うのはそこだと思う。身体改造を体に施した仲間で集まったときに、「本町を北に越えたらあかんよな」という話もよくでる。本町を越えたら「パブリック」な場所に出されたようで、浮いてるよなー、申し訳ないなーと思う。

黒嵜:そういうとこでドヤるためにやっとるんちゃうんか、と思われてるだろうにね(笑)。

亜鶴:マジで目立ちたくない。「すごいね」とか声かけてくれる人がいて、嬉しいんやけど「あんまり見ないで」って思う(笑)。

黒嵜:逆に、身体感覚として近くなった場所というのはどこだろう?

亜鶴:当然ミナミ。アメ村には前々から住んでみたいと思ってた。いわゆる奇抜な人がいっぱいいてて、かっこいいなあって、そこに住みたい、居たいと思って。雑誌に載ってる「奇抜な人」たちを見てすげえなあ、こうなりたいって。今や載ってた人より派手になってしまったのかもしれんけど…

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刺青=ヤクザ、のイメージの来歴

黒嵜:タトゥー裁判をめぐる話でもう一個気になったのは、亀石さんによる広報戦略が功を奏する前の空気のこと。つまり、そもそも根強くある、タトゥーに対する世間のネガティブな印象についてだね。
 銭湯で見かける「暴力団関係者の方と体に刺青がある方お断り」といった注意書きにあるような、タトゥー(刺青)と暴力的な人物とがセットで存在しているかのような世間のイメージは強い。タトゥーが「自己表現」で個人の権利なんだ、というスローガンだけだと、バックラッシュが起こったときに返す言葉を持てないと思う。このネガティブイメージは何に来歴するものなんだろう?

亜鶴:和彫に対する警戒感かなと思う。山本芳美さんの『イレズミと日本人』という本に詳しいけど、以前タトゥーはもっと生活のなかで近い距離にあったもので、職人さんが腕に入れて服の裾から柄が覗くのを「粋だ」と言っていたりしていた。銭湯に行けば、体にモンモンが入っている人を見るのも珍しくなかった。俺らのおばあちゃんくらいの世代までは刺青に対しそこまでの嫌悪感はないはず。内風呂になって地域の人たちで互いの裸体をみることがなくなったことも一因やないかな。
 家族の裸体にしかタトゥーを探せなくなったあと、ヤクザ映画が流行ったことでタトゥーとヤクザがセットにされたイメージが補強されたんやとも。かつて、タトゥーを目撃することで人は地域コミュニティに接してる実感を得ていたと思うし、銭湯はその場所やったんちゃうかな。そのときは、蛮族の行為だとは見られてなかったはず。

黒嵜:家の近所の銭湯には「刺青お断り」がないのだけど、そこへたまに行くと和彫タトゥーの入った人をたくさん見るんだよね。舎弟と思しき人が、兄貴分の背中を洗っている。その度に、排斥されたタトゥーのことを思うと共に、「内風呂」に閉じ込められては成り立たないコミュニティがあるんだな、と考えさせられるんだよね。
 タトゥーというのは体に特徴を刻みつける行為であって、同じコミュニティに属している身体的な証なんだよね。こういうことを考えるたび、スティグマという言葉を想起する。「烙印」という訳語をあてられる言葉なんだけど、かつて濱野智史という批評家がこの言葉が元になった「スティグマジー」なる概念を扱いながら、WEB上の「タグ」の機能を論評していたことがあった。例えば、「ニコニコ動画」において、個々の動画に一見無作為に貼り付けられたタグは、ある段階で視聴者たちの自治によって整序され始め、各タグにコミュニティがおかれたことで、新規の動画もやがてこの個別のコミュニティに届くような内容を意識することになる。自分の制作物が届くべき、協働すべきコミュニティへ向けて、特定のスティグマを求めるようになるというわけだね。

亜鶴:実際に、「スティグマ」ってマシーンがあるよ。

黒嵜:おお、まさに。

亜鶴:ただ、そういう自分のイデオロギーみたいなもんは、アートをやることでまたひっくり返された感じがあった。根強くある流儀や規範みたいなことから離れていて、アートの方がより自由で楽やなって思った。タトゥーだけに活動を絞らないのは、この両方の感覚を同時に大事やと思ってるから。

黒嵜:アートはまさにそういう流儀や規範に疑いを向けるものだからね。千葉雅也さんの『意味がない無意味』における主題を連想させるような話だ。あらゆる前提に疑いのメスを向け、その無根拠さを掘り崩していくなかで、原理的に無限に続けられうるその「疑い」に一定の有限性を与えている物質的なもの。そういえば千葉さんは以前ツイートで、本書の内容をパラフレーズするかのように、「主体に擬似的な根拠を与え、なぜいまここにいるのかの全き偶然性を飼いならすため」の「エンブレム」としてタトゥーを挙げていたことがあったね。

亜鶴:その通りだと思う、あってるあってる絶対そう。「コンベンション」という、タトゥーの祭典みたいなものがあって、こういうとこに行くと、地域性の中にタトゥーがあるんやなくて、もはや「誰に彫られたか」がコミュニティの在りかになっているのを目の当たりにする。
 それと前から思ってたんやけど、タトゥー好きな人って顔をあんまり覚えてないねん。再会して顔を見ても、腕や脚の柄を見るまで誰か判別できなかったりすることがザラやし、むしろ有名な彫師の柄を体に入れていることで覚えてもらってたりする。例えばやけど、「彫よしさん」という老舗の彫師の柄を体に入れていると、それだけを認識されていたりするんよな。タトゥーのコミュニティの人たちは、柄で人を覚えている。

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タトゥーにおける、痛み

黒嵜:ここまでは、社会におけるアートの身分との対比の中でタトゥーが元来持ち得ていたはずの社会的な身分について語ってきたのだけど、ここからはよりタトゥーとそれを彫る行為そのものの性格について掘り下げていきたい。

亜鶴:儀式としてのタトゥー、やね。

黒嵜:そう。ここまで話していて感じる大きな謎というのは、例えば身体改造と連続する側面があるように、タトゥーは単なる肌をキャンバスとしたペイントなのではなくて、それを彫る過程の「痛み」自体に儀式性が付与されているように思えるところ。タトゥーにおける「痛み」とはどのように求められるものなのだろう。

亜鶴:あんましこの話はこれまでしてなかったんやけど、少なくとも現在俺のところにタトゥー入れにくる人っていわゆる「弱い人」が多いんよね。スーパーアッパーな人ももちろん居るんやけど。この話をすると、タトゥーをネガティブイメージでパッケージングされがちだから、あくまで一つの側面として聞いて欲しいのやけど、例えば、コンプレックスで鬱屈した人だとか、家庭に難がある人、犯罪者はもちろん、貧困にあえいでる人。その人たちに残った、自分の意思で乗り越えることのできる「ハードル」は、わかりやすい形での「痛み」なのかもしれんとは思う。追い詰められた承認欲求の形なんかもしれん。でも、結果としてその弱い面に、深層心理で肯定する作業に当たれるというのは「強い人」だとも同時に思う。
 そもそも、俺自身がタトゥーを入れることになった一番最初の動機も承認欲求やった。2013年ごろに活動し始めたとき、タトゥーをSNSにあげて「いいね!」を沢山もらえるのは嬉しかったし、顔を題材に描いていたのは、自分がSNSに顔をアップすることができなかったから、というのも関係してる。リストカット痕をネットにアップしようという人たちと、タトゥーを入れてアップしようという人たちは、きっかけとしての動機はあんまり変わらないのかもしれへん。

黒嵜:なるほど。「中二病」という言葉もあまり聞かなくなって久しいけれど、SNSというのは承認欲求を刈り取るサービスであり、またユーザーたちも互いに向けられたその欲求に敏感。僕は、それ自体をネガティブだと思ったことはない。僕を含め、誰だって初めの動機はそういうもの。だけれど、その承認欲求の先に、良い出口と悪い出口を作れるかというのが重要に思う。つまり、自分と同じような形式に基づいて、その欲求を表現している人を見つけてしまい「俺だけだと思ってたのに」とショックを受け、当初の欲求以上の動機を得てしまうようなきっかけだね。問題はそのあと。

亜鶴:せやなあ。リストカットがタトゥーと動機がたとえ同根だったとしても、マズいのは、前者が「よりハードに傷をつけて唯一になろう」という出口になりがちなところやな。身体に他者が入ってこない。ためらい傷が見えようものなら「本気やないやん」というツッコミが入る。そうなると、その先には生命の維持に関わる出口しか待ってない。
 ただリストカットについては、俺は必ずしも否定的な目線ではない。それがタトゥーであれリストカットであれ、個人のその時のベストな判断なのであれば俺は出来る限り肯定したい。でも問題は、傷と、その傷をつける行為を評価してくれるコミュニティがリストカットには見えにくいということ。どでかいケロイドを作れれば敬意を集められる、ぐらいにスッキリしてればまだええんやけど。

黒嵜:リストカットはちゃんと儀式化できてないので危険だ、と。先にも触れた、具体的な他者の眼差しが想定できないから顔は苦手だ、という話にも繋がるところだね。互いの眼差しのありかた、評価のありかたが想定できる具体的な他者たちの中で行われるのが儀式だ、ということだね。タトゥーのコミュニティのなかでは、痛みに耐えるというのは自己承認を超えうる大事な要素なんだろうか。例えば、亜鶴くんにとっても痛みは重要?

亜鶴:痛くない方がそりゃええけどね(笑)。タトゥー入れに行く前日はナーバスになったりする。けど簡単な話、痛みに耐えて彫った柄が体に残るというのは、それだけで翌日から自分を讃えることができる。彫れなかった人も当然いるわけで。

黒嵜:手の甲に入れるのは特に痛いと聞くね。さっき見せてくれたハジチとかも、その部位に彫ること自体にも意味があったのかもしれない。

亜鶴:ようやったなあっていうのは言われるね。そもそもタトゥーは仕上げるまでにかなり時間がかかる。大きい柄になってくると、最長で一日に8時間かけたりもする。しかも、それを完成するまで数日間繰り返す。やけど、いずれにしても問題になるのは、人が痛みに耐えられる時間というのは一日で限りがあるということ。限界に達すると手が震えて、スマホも持たれへんようになったり、ペットボトルのキャップすら開けられへんようになったりする。

黒嵜:もし痛みを感じない施術が現れたら変わると思う?

亜鶴:より施術がイージーになるのは間違いないやろうね。ただ、オーダーの範囲を定める基準がなくなってお互いにわけがわからなくなると思う。痛いっていう大前提があるから、入れるお客さんはタトゥーについて事前にそれなりに調べるし、「痛みに耐えて彫るなら」と柄もこだわってスタジオも選んで、施術にかかる時間や、通える回数も入念に彫師に聞くと思う。そういう、柄の大きさや自分の体力、彫師との関係も、何をもって良し悪しとするかの基準がなくなってしまうようにも思う。

黒嵜:柄によって痛みが違ったりするのかな?

亜鶴:もちろん、ある程度人によるのやろうけども。タトゥーは点で描かれていて、線に見えるものも、ベタ塗りに見えるものも同じく点を打って描かれたもの。線を引くときの針と、塗るときの針に違いがあって、これは大きく言えば細筆と平筆といったようなもの。で、一点中心型の「線」の痛みに強い人と、どちらかといえば平板型の「面」の痛みに強い人とがそれぞれいて、この体質で痛みの感覚が変わるな、という実感はある。俺はライン、「線」が苦手やな。けどそのどちらも、耐久できる時間には必ず限界がある。それは一つには、アドレナリン切れによるものやな。

黒嵜:なるほど。アドレナリン切れか。

亜鶴:あくまで経験則やけど、最初に針が入って痛覚が刺激されて、だいたいの人が10分くらいで順応する。けれども、1時間に一回は休憩が必要やな。強い人でも3時間がマックス。そっからは小康状態から、だんだんと強い痛みが戻ってくる。もちろん、一回休憩挟んだ後の一発目は痛い。けれども、再びアドレナリンが出れば1時間はもつ。

 よくお客さんに勧めるのは、糖分の摂取やな。チョコとかコーラ。血糖値が下がっとるから。けれども、だいたいは3時間も経てばあとは沈んで行く一方。血糖値が下がって寒気が出たり、体液など浸出液の浸潤が激しくなったり、あるいは炎症反応が出やすくなったり、筋肉が痙攣したりして、こういう状態に入ると痛みから意識を飛ばす事に集中出来なくなる。俺の場合は大抵、寝て意識を逃がしとるんやけど。

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突き針とハネ針、二つの痛み

黒嵜: 山本芳美さんの『イレズミと日本人』を読むと、「古くは突き針とハネ針があった」という説明があるね。突き針は、針先を同じ方向に前後させ皮膚に深く入り込むようにする施術で、疼痛が強くなる方法。ハネ針は針を抜くときに表面で跳ねあげる施術方法で、こうすると比較的浅く施術ができ、深さも色素もほぼ一定に拡散しやすくなると。ハネ針は筋彫りと筋彫りの間を埋めるぼかしに利用される、とある。
 また、山本さんの本によると、かつては施術が終わると熱い湯に入るようにしていたらしくて、これを「色を沈める」というらしい。全身の血液循環を盛んにして、針を刺した箇所に沈着すべき色素を残す意味を持ったのだと。また、疼痛をその湯で鎮めていたそうだね。

亜鶴:消毒も兼ねてたんやろうね。そこらへん難しい話やねんけど、伝統的な彫師のなかには昨今の滅菌技術に頼らず、熱湯が入った桶で道具を消毒する人もいたりした、と聞く。俺はもちろん針は毎回捨てて、その他の器具も機械に入れて滅菌消毒するけども。
 彫り方に関しても同様で、筆とかと一緒で使い込むとしなりが出て「その人の身体にとって使い勝手が良い」ということで、AさんにはAさん専用の針を用意して、今は衛生上「針は使い捨て」が常識やけど、しっかり都度滅菌したAさん専用の針を固定化して使う場合もあるのよ。そうすることで、こなれた色気を出す伝統的な工夫とかもあって、この辺りは今後賛否両論出るかもしれないけど、その人専用を厳密に守って滅菌を徹底すれば本当は感染なんて起こらないはずなんやけどね、どうなんやろうね。
 これも、法では括られへん伝統的なタトゥーの一つの側面やろうね。色気のある発色がこれで出せるということで、確かに実際見てる限りではその人なりのぼかし方とかが綺麗に出るようには感じる。

黒嵜:さっき見せてもらったタトゥーマシンは、パチパチと音を発していたように思えたけど、あれはハネ針的に動くものということかな。

亜鶴:もちろんマシーンによるのやけど、ハネ針的に動くものは多いな。皮膚には3層あって、これは人工皮膚というもので彫師が練習用に使うものなんやけど、それを再現してる。突き針というのは、さっきも説明したように、(人工皮膚を持ちながら)まっすぐ針を深く刺すもの。で、ハネ針っていうのは、まっすぐ入れてやや斜めに引くことで、あくまでイメージやけども三角形の墨溜まり作るもの。極端に言えば、縦に入れて横引くとL字型に傷が広がって平面的に墨が伸びて、ぼかしが効率的に彫れるということやな。まあ、音を出すパフォーマンスとして行う人もおるけど。

黒嵜:突き針はどのような柄に用いられるものなの?

亜鶴:曼荼羅とかの細かく規則的な線を必要とするものだったり、幾何学模様なんかは突き針的な施術で使うね。近くで見られるような柄、不用意な滲みができてはまずい柄は、タイトな線を要するから。

黒嵜:終わった後の痛みっていうのは「線」を描くものと「面」を塗るものとで違うものなの?

亜鶴:俺の感覚では、「面」を塗った方がでかいぶん、全体的にだるさがあるまま痛い感じ。「線」の場合は、字のごとくタイトな線を引かれてるイメージのせいか、切られてるという感じがして、こっちは鋭くハッキリとした痛みやね。まとまった面積での痛みは、だるい。治癒の経過がとにかく痒い。肌という畑を耕されてる感覚。

黒嵜:山本さんの本にも細かく紹介されていたね。 かつて彫師が扱う器具は畑道具の比喩で名付けられることがあったようだね。

亜鶴:ノミと呼ばれる器具もあるね。あとその点で言えば、肌とキャンバスの、支持体として大きな違いはそこにあると思う。絵描きの人と話していてもすれ違うのは、彼らが真っ白いキャンバスに対して神秘的なイメージを語ったとき。その感覚が俺には欠落してるねんな。四角く、パリッと貼られてる真っ白なキャンバスを「無垢」と見立てる感じがわからない
 もともと自分が、肌に絵を描きたいというところからスタートしたのもあってか、手つかずの支持体に単一の「無垢」があると思ったことがない。肌は、人によって千差万別やし厚みも弛み方も違う。彫ってるうちからボコボコと隆起して柄が歪み、体液も滲んでくる。タトゥーを彫るというのは、その人なりの体質を抱えた土壌を掘って耕す行為なんよ。

黒嵜: 一昨年亡くなったパフォーマンス集団「悪魔のしるし」の主宰、の危口統之さんが病床で書いた日記に、「痛みとは徹底して「いま・ここ」の存在なのだ」とあった。この言葉は重い。まどろむことのない痛みに直面したとき、人は「いま・ここ」に縛り付けられる。批評にしろアートにしろ、「社会」を俯瞰的に見渡すとき、僕たちは「痛み」を忘れている。あるいは「痛み」に瀕していないときにそれができる。しかし、個人の「痛み」を忘れた論や創作は、しばしば「暴力」の暴走を来す。
 この点で、たとえ経験則とは言えど、さきほどの「痛み」の質の話は、意識の飛ばし方の話と併せて興味深かった。仮にタトゥーが「痛み」と共にある儀式だとしたら、そこではアドレナリンによって意識を「いま・ここ」から離し、しかし再び「痛み」に立ち向かわせるリズムがあるように感じた。

亜鶴:リズムという言葉で連想したので付け加えたい。 マシンでも手彫りでも肌を打つときに音がする。さっきも述べたように手彫りだと肌、皮膚を弾くパチパチという音。マシンだとモーターやコイルの電気音の連続。この音が、ある程度慣れた人がやると一定した音がして非常にリズミカルなんよね。ミニマルテクノを小さい音で慣らされてるようで、これをアドレナリンを分泌しながら聞いていると精神が浮遊するような感覚になるときがある。軽いトランス状態やね。「痛み」への集中から離れて、音だけがすごく明確に聞こえる。

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鎮痛剤化するドラッグ

黒嵜:最近NetflixやAmazonプライムで動画を見ることが多いのだけど、ドキュメンタリーにしろドラマにしろドラッグを扱ったものをよく見るんだよね。特にドラマ『MR.ROBOT』の主人公エリオットが常用している合法ドラッグや、ドキュメンタリー『DOPE』で紹介されるものなど、安価なスマートドラッグとして「鎮痛剤」が貧困層の中で交換されているのを映像でよく見る。

亜鶴:鋭敏でいたくない、ということなんやろうな。

黒嵜:そう、鈍重になる為にドラッグが用いられている。他方、あくまでも映像の中の話だけど、Netflixオリジナルドキュメンタリー「テイク・ユア・ピルズ スマートドラッグの真実」では、ライトな覚せい剤としてのスマートドラッグが、学習や仕事の効率化を促すものとして比較的階級の高い人たちに常用されている様子が映し出されている。
 鋭敏にさせる「覚せい剤」と、鈍化させる「鎮痛剤」。仮にこの対比の中で語るなら、タトゥーは鋭敏に痛みを入れてアドレナリンを分泌させるわけだから、覚醒と鈍重化の往還を経験させているのだろうね。なんたって、「痛み」そのものを与えて、脳内の「鎮痛剤」を分泌させているわけだから。けれども重要なのは、初めには鋭敏な「痛み」が希求されていることと、施術後にもそれが待っていること。

亜鶴:少し前に亡くなった、キャットマンという人がいて。顔面に猫のタトゥーを入れて、シリコンとかヒゲも入れていた人。彼女が悩みを吐露していた発言の中には「目立ちすぎて嫌だった」というものもあったらしくて
 前に述べた、「顔」に対する不特定多数の眼差しの話も関係するのやろうけど、他方には、鋭敏になりすぎて耐えられなくなってしまったんやないかとも思う。

黒嵜:タトゥーの他の身体改造には、どのような痛みがあるのかな。死に匹敵する痛みが求められることもあるんだろうか。

亜鶴:経験したことのないところでいうと、エリックという人が、緑色のひし形に顔面を変形させて、ベロを裂いたりしているな。あとレッドスカルかな、顔を赤く色を入れて、鼻を削いで骸骨のようになった人もある。

黒嵜:そ、そう…鼻を削ぐことで骸骨になるのね…そっか…(困惑)。それは顔面のイメージを成り立たせる要素に迫る話でもあるね。亜鶴くんも経験した、焼くだとか、剥ぐだとかの身体改造はどうかな。痛みの質は違った?

亜鶴:違ったね。ピーリングはピリピリとした痛みが続く感じ。ブランディングは、焼きごてでジュってやるのだけど、打撃感がある強いドンっという痛みが一発くる感じで、インパクトを感じたね。毛穴も開く。

黒嵜:これらの痛みでも、質によって、意識の飛ばし方が変わるのかな。

亜鶴:それこそリズムが全然違うな。水晶に太陽光を集めて焼いたソーラーブランディングは、親指の甲の一点にピンポイントで瞬間的なパアンッて痛みがきて、手を離し、また再び手を近づけてパアンッ……の繰り返しやね。あと痛みそのものの強さでいえば、ピーリングはタトゥーより断然痛い。ケロイドの隆起そのもので柄を作る行為やからね。生傷をメスで作ってその傷にまたメスを入れて皮を削いでいくから。これもそうやけど、施術後にまたかさぶたを剥いだり擦ったりしてケロイドを肥大化させるものは、痛みがとても重い。

黒嵜:なるほど、身体改造それぞれで、「痛み」へ揺り戻す間隔が違うんだね。焼きは特に短く、ケロイドを触るものは長く、という感じかな。過激なものになるにつれ、鎮痛そのものへの抵抗も含まれていると。一定の痛みは、やがて慣れてしまうものだからかな。
 …いやしかし、いつのまにか過激なところに来てしまった…(笑)。さあ、改めて振り返ると、タトゥーを「アート」とする側面が強調されたことで勝ち取った無罪判決は、タトゥーを「個人の自己表現」に押し込めてしまうかもしれず、亜鶴くんはそこでタトゥーは身体を「あるべきコミュニティに帰すもの」だと異議を唱えているわけだ。そして、タトゥーが体に施すものは柄だけではなく、その過程で与えられる「痛み」のリズムだった。つまりタトゥーで得られた柄によって特定のコミュニティへ帰るのなら、その手前、彫るという行為のミニマムな次元では「痛み」への揺り戻しによって、この身体に自分の意識を帰しているわけだね。

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タトゥーの柄と、他者の焦点距離

黒嵜:タトゥーとは、第一に痛みの痕跡であり、第二に彼ら彼女らの身体が帰属するコミュニティに向けられた眼差しの痕跡である。ここでようやく、「アート」でないタトゥーが、どのように柄を変遷させてきたのか考える上でのヒントが掴めたように思う。僕が今日、亜鶴くんの施術スタジオにお邪魔して、これまで手がけた柄や、ここに置かれた資料、そして亜鶴くん自身に彫られた柄をみて思うのは、想像以上にディティールを凝らしたものが多いということ。

亜鶴:そうやね、最初に見せた「バイオ」という柄もそう。タトゥーの細部へのこだわりは年々強くなってきていて、凝った人になってくると、肌に異なる深度で墨を入れて、複雑なレイヤー構造を持たせたものを手がけたりする。さっきの刺し針とハネ針の話でも出たけれど、大きい面積をベタ塗りで作る柄というのは、輪郭がぼやけてしまっていたり歪んでしまっていたりしがちで、もちろん技術によりそれをクリアすることも出来るけども、近くで見られると粗が目立つ。俺が背中に入れている、ブラックワークと呼ばれるこの縄文民族の紋様は見ての通りのベタ塗りで、近くによると輪郭線は決して綺麗には仕上がってないんよね。手に入ったハジチという柄にも言えることなんやけど、かつてのタトゥーと昨今のタトゥーとでは、想定してる他者の眼差しの距離が全然違う。現在に近づくにつれ、どんどん近くなってきている。刺し針はソリッドな輪郭を、ハネ針はレイヤー構造を作る。それだけタトゥーが前提にしている焦点距離が近くなってきているんよ。

黒嵜:とっても興味深い話だ。そもそもこの話は、タトゥーを身体改造の中に位置づけ直すところから展開してきた。タトゥーとは身体に新たな特徴を刻みつける行為なのだと。そしてこの「特徴」はコミュニティの規模や、彼ら彼女らの集住の条件によってその都度変容してきたということだね。

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亜鶴:古い柄のものほど近くで見たらかなり雑なんやけど、これは逆に言えば、タトゥーってそもそもこんなに近くで見るもんやなかったんやないか、と思うんよね。ブラックワークなんてまさにそうやけど、黒塗りで広い面積をとった柄の民族紋様は、だからこそ数メートル先から見てもはっきり視認できるようなパターンが大胆に施されてる。丸とか三角とかやな。この野蛮さはかなり惹かれるものがある。遠くから見ても、一目でブラックワークであることがわかり、パターンに目を凝らすと、誰であるかわかる。

黒嵜:まさに俺が亜鶴くんと初めてあった時の感覚のようだ…。「半袖半ズボンでそこに立ってるのが俺です」と待ち合わせ場所でメールをもらってもわからず、周囲を見渡すと、黒長袖のインナーと黒のレギンスを履いてるように見える男性がいて、よく見ると黒い四肢を露出させた亜鶴くんだった(笑)。
 こうして見ると、様々なブーム、プロジェクトに合流しながら、タトゥーをはじめとした身体改造をいたるところに施した亜鶴くんの身体は、確かにそれぞれの部位が異なる焦点距離に向けられているようだ。これを踏まえて、タトゥーを施す側として、依頼の傾向について思うところはあるかな。

亜鶴:恋人や肉親の名前や、彼ら彼女らとの記憶を示すメッセージというのはやっぱり根強い。ときには肉筆のコピーを持参されて、この通りにお願いします、と依頼されることもある。
 あと柄のブームでいえば、タトゥーの柄が国内の若者の間で流通するにあたって、タトゥー雑誌の存在はやっぱり大きいと思う。さっきも話したような、ヤクザ映画での和彫や、海外の映像コンテンツでみるタトゥーから離れて、国内の若者がどんな柄を彫っているのか伝えるメディアができた。『TATTOO BURST』や『TATTOO TRIBAL』とかやな。で、これらの本をめくって見ると、まず柄は体の特定の部位をピックアップした接写とともに掲載されている。バイオ柄のブームももちろんここで紹介されたし、いわゆる「超絶技巧」の彫師もよくここで紹介されてる。これにあたるもんが、現在ではSNSなんやろうな、これまでも話に何度か出たように、今タトゥーを彫る若い子たちはまず出来上がった柄をSNSにアップして親密圏の人たちと共有する。


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黒嵜:とても重要な話だ。ここで再び山本芳美さんの『イレズミと日本人』を引くと、この本では、大まかにいえば、内風呂とヤクザ映画によって生活圏から切り離され周縁に追いやられたタトゥーが、ハリウッド映画にどのように表象として伝播し、あるいは国内雑誌文化によってどのように若者に回帰してきたか、を語っているのだけど、ここでも『TATTOO BURST』が紹介されているんだよね。
 しかし、亜鶴くんの話にも出たように、そこで注目される「トライバル」が目指す柄はもはや、かつての民族紋様が前提にしていた焦点距離よりもだいぶ近いものになっている。タトゥーはかつて、ムラの中で見られるものであったものが、やがてイエの中で確かめるものになり、そして今は特定の人間関係の中で見せるものになっている。集住環境の変容とメディア環境の変容が、タトゥーの柄の変遷を作っている。 言い換えれば、タトゥーの柄には、他者の身体との距離感が刻まれているんだね。かつては文字通りの「お家柄」だったものが、今や二者関係の中で相互に見つめ合うものに限りなく近づいている。

亜鶴:個人的に興味があるのは、ブラックワークを施して、例えば背中を真っ黒に、全身黒く塗る人って肉体のフォルムに対して意識が強い人が多いのよ。鍛えてめちゃくちゃムキムキな人や、あるいは極端にガリガリか。なぜか極端にこの二つに分かれてる。俺も筋トレにハマっとるしね。そういった人たちが自分に欲しい眼差しの焦点距離と相性がええのかもしれん。
 あと、タトゥーの柄の変遷にはもちろん、タトゥーマシーンの発展も関係しているやろうね。マグネット式から、ロータリーだとかのモーター式にとかになりだしたこと、加えて単純にマシンの性能が上がったことで、大幅にできることが増えた。油絵っぽいテイストや、水彩っぽいテイストなんかに自在に描けるようになった。ちなみに和彫りとかではメインの図柄に対して波とか風を表した模様を白と黒グレーのグラデーションで施し、背景を作る手法があるけどこれを「額」と呼ぶ。
 俺は常々、「タトゥーはアートじゃなくて額装」と言っとるんやけど、たとえばこの「額」なんかをとっても、タトゥーはコミュニティの中でその人の身体に額装を与える行為なんやと思う。あってもなくても成立するけど、あれば作品(肉体)を引き立たせる。

黒嵜:額装という言葉が出たので続いて聞くけれど、亜鶴くんが手がける「顔」の油絵にも、似たような意識はあるんだろうか。

亜鶴:あんまし意識してなかったな。けどタトゥー、特に縄文プロジェクトに関わり始めて、大島托さんとよく話すようになって意識するようになったな。絵に関しては、当初は「でかい顔面があったらかっこいいやん」ってぐらいにしか思ってなくて。近く見ないとわからないような、モチーフがごちゃごちゃあるのは好きじゃなかった。だから大判のキャンバスにとにかくでかい顔を描きたかった。

黒嵜:「タトゥーはアートじゃない」、「タトゥーは個人の自己表現じゃない」、という亜鶴くんの主張の裏には、焦点距離がどんどん近くなるタトゥーの柄への問題意識がある。ちょっと前に、首から上と首から下、という対比で前者を「顔」、後者を「タトゥーの入った身体」として話を整理したけども、亜鶴くんにとって首から上の「顔」ではコミュニティに帰ることができず、首から下の「タトゥーの入った身体」で具体的なコミュニティに自分を帰してやれるということだったね。この延長で今の話を改めて振り返ると、「顔」とはいうまでもなく「個人」が認識される拠点であり、そして焦点距離の近いもの。
 自分の顔のアップを写す「自撮り」と同じくSNSにアップされるタトゥーは、今や個人を写した「顔」と極めて近しい位置にまで焦点距離が縮まってきている。すると、とにかく大きい肖像画を描く、というのは無意識であれ亜鶴くんにとって縮まる焦点距離への抵抗であるのかもしれない。つまり、首から上の「顔」を、遠い眼差しに置き直し、首から下の領域に帰そうという。より乱暴にいってしまうなら、亜鶴くんにとって「タトゥーはアートだ」だという提言も、焦点距離が近くなる一方のタトゥーの柄も、「身体全体を顔のように扱う」ようで違和感を覚えるものなのかもしれない。これらの絵画作品では、「顔=個人」の輪郭など特定の焦点距離にしかないもの、と暴いてる。

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がまん、痛みの非対称性

黒嵜:極めて二者関係に近しい焦点距離、「顔」に類するところまでタトゥーの柄が前提とする距離は縮まってきた。ただそれでも、やはりタトゥーはまだ特定の誰かに見られるものであることは前提になっている。恋人の名前、メッセージを彫るなんてのもそうだよね。そこで気になるのは、やはり「彫られること」の儀式性がどうなるのか、ということ。
 かつて、関西ではタトゥーを彫ることを「刺青」でなく「がまん」と呼んでいたんだってね。これはとても象徴的な言葉だと思う。「がまん」は他者から与えられる痛みなしには成立しない。「がまん」が賞賛されるのは、自己決定の外にある痛みに耐え抜いたときだ。この語の存在自体が、亜鶴くんが先ほども述べた「痛み」のリズムの話、タトゥーを「彫られる」ことの根源的な儀式性を端的に示していると思う。他者から痛みを与えられる、それに耐えたことへの賞賛というタトゥーの儀式性は、縮まるコミュニティの中でどのように変遷しつつあるのだろう。

亜鶴:「痛み」に対する原理主義、みたいな人たちがポツポツ出てきているのは確かやね。例えば、「痛みに一緒に耐える」をコンセプトにしてるlittle swastikaという人もいる(アーティスト名:little swastika スタジオ名:Psyland 25 )。人間の体って、どんだけ鍛えてもガリガリにしても、皮膚の面積には限りがあるし、やから必然的にタトゥーの柄のサイズにも限界があるんよね。この彫師はその限界を超える可能性として、5人くらい床に寝転ばせて彼らの彼女らの身体を1枚ずつのピースとした大判のキャンバスに見立てて、大型の柄を彫る、ということをやっている
 これは彫る過程自体が、パフォーマンスとしても注目を集めてる。面白いのは、「同じ痛みに耐えた」ということで、施術を共にした人たちはシャーマニックな連帯を見せていること。全体として、柄以上に、この痛みの共有自体がスピリチュアルな魅力を見出されているように見える。ちなみにこの彫師は、いわゆる「アンピュテーション(欠損)」という身体改造をやっていて、指を落としてる

黒嵜:痛みの共有って、すごい快楽をもたらすだろうね。

亜鶴:客が彫師に対して恋愛感情に近い好意を抱く、というのも業界あるあるなんやけど(笑)、これも同じことなんやろうなと思う。この私に、代え難い痛みを与えてくれた人、耐え抜くまで付き添ってくれた人に対する連帯感って、とてつもなく強固なもの。親子以外でそんな関係ってなかなかないで。
 ただ、「痛みの原理主義」に挙げられるものの中では、「痛みを与えること」自体が目的となった、より過激なものも出てきてる。「ブルータルブラックプロジェクト」というのがそれ。活動を動画で見せていて、それはもう酷くて、ひたすら黒でスクラッチの柄をつけていくだけやねんけど、3人がかりで被施術者を抑えて、痛みで吠えているのを御構い無しに一気に描きあげる。依頼者も、柄や場所についてほぼ大まかにしか指定しかできなくて、出来上がった柄も当然、美的とは言い難いものになってる。タトゥーはこれまで、美的な判断基準があったものだけど、彼らはそれを取っ払って、「痛み」にフォーカスした活動を展開してる

黒嵜:それは、いつ頃から活動し始めたグループなのかな。

亜鶴:2017年くらいかなあ。そもそも、「ヘビーブラック」っていうやたらと黒いタトゥーを好む人は俺を含めて多いんやけども、その柄がより暗く、より痛く、と展開し始めたのが2017年あたりで、彼らもこの流れの中で出てきたグループやね。彼ら以外にも、ヘビーブラックを彫る過程を撮った動画を例えばInstagramなどで見ることができるんやけど、まあこれらも過激。泣き喚きながら彫られて、黒い線が入りまくってる顔面が最後に現れる。ブルータルブラックプロジェクトはPVも作っていて、これもとにかく暴力的なイメージ。イカツイおっさん達が現れて被施術者を押さえつけて……

黒嵜:ほとんどスナッフムービーのような作りであるわけか…。SNSにおいてタトゥーの柄が焦点距離を狭めるのに比して、動画においてタトゥーの施術は、黒魔術めいた拷問の様相を呈したものも現れてきた、と。まさに「痛みの原理主義」だね。痛みに耐えている過程こそタトゥーの本懐であって、それを記録することで「がまん」を賞賛してもらうわけか。タトゥーの動画時代、という感じだ。しかしそれは、もはや「痛み」とも関係ない別種の快楽を呼び込んでるんじゃないだろうか。

亜鶴:SNS、動画サイトの隆盛で、そこがタトゥーや施術を見せる場所になったことで現れてきた傾向だと思う。一周回って、「特定のコミュニティ」ではなくて「不特定多数の眼差し」に触れることを目的としたようなものになったものが現れてきたってことちゃうかな。例えば、施術後の写真をアップするなら、より血まみれの方がいいねがつく。過激な写真をアップしてフォロワーを稼ぐ彫師もいるんやけど、見て楽しむぶんには良いが自分はしたくないという事もあってか、ネット上での注目度と依頼者の数が見合ってないことも多い。

黒嵜:Netflixにも公開されているドキュメンタリー映画「くすぐり」を連想するような話だ。本作は、「くすぐりガマン選手権」なる動画に隠された不気味な背景を追ったもの。件の動画はというと、若い男性が四肢を拘束された男性が他の男性にくすぐられるだけの内容。その一見牧歌的な内容と、破顔する「被害者」の顔に、視聴者も最初は笑ってしまう。だけれども、この用途不明の動画について取材を重ねてるうちに、特殊性癖の人々のために作られたフェチビデオであったり、レイシストによる同性愛差別を目論んだビデオであったり、様々に不気味な可能性が浮上する。ここで視聴者はゾッとする。さっきまで牧歌的な内容に思えた動画は、ともすると「レイプムービー」かもしれず、破顔して笑い転げてたのは「被害者」の苦悶の表れであったのかもしれない。例えばこの映画を観てもわかるように、客体化された「痛み」への共感ほど、間違えやすく危ういものはない。

亜鶴:テレビのバラエティー番組なんかでも、無理矢理にくすぐって声を出させず我慢させるのとかあるやん。ああいうのは苦手やな。

黒嵜:映像化された「痛み」も、やはり顔にフォーカスする。しかし、その表情を読み間違えることもあるし、あるいは「痛み」を読み取れたとして、その顔を見ること自体が快楽になってしまう。以上のように「顔」においてはもちろんのこと、「がまん」という言葉もまたそうであるように、「痛み」というのはそもそも非対称な関係を作るもの。柄は見えるが、「痛み」は見えず当人だけのもの。だから「がまん」は尊かったはず。その認識が揺らぎつつあるのかもしれないね。

亜鶴: ここまではマシンと柄の関係、メディアと柄の関係について例をあげながら話してきたわけやけど、俺が普段実際に施術するときは基本的にはマシンを使わない「ハンドポーク」という針1本だけを持って彫る技法を主にしてる。これはマシンに比べて当然出来る行為がかなり限定されるもので、かつ時間もかかる。綺麗なグラデーションもドットの目を荒くするとかで対応することは出来るけども、基本的には難しいのよ。
 非常に原始的な手法やねんけど、「彫る」「彫られる」というタトゥーが根源的にもつ非対称な「痛み」の関係、異なる二つの欲望に施術者として立ち会うことができるんよな。自身の手癖や、一点一点の打刻に対する依頼者の「痛み」を意識しやすい。

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ふたたびタトゥー裁判へ

黒嵜:タトゥーについて、様々なトピックについて話してきた。ここで再び、タトゥー裁判の無罪判決について戻ろう。勝ち取った判決自体は当然喜ばしいものだとして、この先にどのような問題があるだろう。

亜鶴:タトゥーが個人の自己表現たる「アート」となることで、柄とそれを彫る行為とがセットに語られてしまって、それがどんな誤読を生んでしまうかは、これまで語ってきた通りやな。それに付け加えるなら、無罪となったことで今は一切の法規制が入ってない状態で、ある意味なんでもできちゃうし当事者もなんでも言えちゃう状態になってしまったから、この無防備さは危うく感じてる。タトゥーに対するネガティブイメージと、タトゥーがもってきた文脈がすり合わされることなく、「アート」という言葉でなんとなく留保されてる。これを放っておいたまま、また今回のような問題が紛糾したら、今度は言葉を聞いてもらえない。このインタビューで述べてきたことは、無罪判決が出てタトゥー当事者を反対派の緊張が一瞬ほぐれた今だからこそ必要な話やったと思ってる。

黒嵜:それはタトゥーの話に限らず、他の文化現象においても共有されてほしい問題意識だね。「個人の表現」として庇護されているときにこそ、文化としての文脈がマスキングされてしまうことがある。

亜鶴:「痛み」を与えられることでの自己肯定感は、それこそ精神医療との比較で考えるべきものなのかもしれんしね。柄を彫る前の下書きのステンシルを貼った状態から、実際にラインが入った肌を見た時への感覚は言葉にできない多幸感に包まれる。この感覚の効能についてはこれまで語ってきた通りやねんけど、これがきっかけで危険な身体改造へとズルズルと向かっていってしまう人も、もちろんいるわけで。さすがにこれら全てを「個人の表現」で手放しに賞賛してしまっては危険に思うし、そこで得られているのは「個人の表現」というわけでもないと思う。「彫る」行為をフォーカスして争点にした裁判だったからこそ、「彫られる」ことについてもフォーカスせなあかんと思う。

黒嵜:「がまん」して「痛み」に耐えたから立派、得られた柄は当人を一目見ればわかる人間にする、というのがこのインタビューで語られてきた「彫られる」側の話だね。この、あまりに端的かつ具体的な儀式のあり方は、だからこそ強いのだと思う。リベラルにしろ保守にしろ、あるいは異性に対してだって、僕たちは「こう振舞っておけば立派だ」という模範解答を失いつつある。目の前の人は見た目通りの性別、文化背景をもつ人じゃないかもしれない。「顔」とまなざしの話は逆も然りだね。僕たちだって、当人をどのように眼差すべきかがわからない。「痛み」を「がまん」する施術と、当人を「見たとおりの人間」にするタトゥーは、他者の身体との距離感を極めて具体的に再定義してみせる。

亜鶴:「ホワイトインクタトゥー」というのも流行りつつあるんよ。これは字の通り、白いインクで描くタトゥーのこと。白人はもともと白いから、バキッと見えるけど、俺らみたいな黄色人種はパッと見た程度では全くわからんのよね。最近、日常生活でタトゥーを入れていることを秘匿したい人が好んでこれを依頼するようになった。一見して柄が入っていることがわかる、というタトゥーの良さはなくなるんやけど、けれどこれを入れている者同士のコミュニティはしっかりあって、そこへのパスポートは手に入れられる。Instagramでは顔面にホワイトインクのタトゥーを入れている女の子なんかもよく見る。このタトゥーの存在を知らない人にはなんともない自撮りやねんけど、わかる人には一目でわかる。これは面白い展開やなあと興味をもって追っかけてる。

黒嵜:なるほど、「顔」ほどにタトゥーの焦点距離が縮まるなかで、むしろ「隠しリンク」のようにタトゥーを色彩で隠匿する流れも出てきたわけか。それは興味深いね。

亜鶴:その延長で、今は化粧そのものにも興味があるな。これまで「顔」がそういう風に扱われるなんて思いもしなかったけど、それは俺が男であるからで、女性は化粧でこれをやってきたんやないかと。同じように、ハイヒールにも惹かれる。女性は身体に特定の矯正を施して、俺が身体改造で体験したようなことを、すでに得てきてたんやないかと思えて。無論こういう見方自体が、俺なりの異性への偏った見方でできたものでもあるやろうから、アウトプットは難しいんやろうけど…。

黒嵜:そうだね、ある意味ではトランスジェンダーの性適合が構造的にもってしまう問題と似ているのかもしれない。変身の快楽は、「別なるもの」になることにある。でも言い換えれば、それは自分と「別なるもの」の間に過剰に違いを作ってしまっているとも言えるわけで、それは「偏見」と不可分。でも、無数の個別性を訴える身体に対して、それぞれ当人の自認通りに正しく理解を試みる、なんてのも全員に徹底させられるもんじゃない。タトゥーといい異性装といい、亜鶴くんは他者の身体が一目見たままに誘発する幻想をこそ、守ろうとしているように思える。
 最後に、このインタビューを読んでいる人に向けて、一言もらえるかな。

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おわりに

亜鶴:タトゥーやピアスってファッションとしてくくられる事も多いけど、俺は少し違うと思ってて。ファッションとしての側面ももちろんあるけど、ファッションは外装的、パッケージングのイメージ。タトゥーは元来内包されている自我が皮膚を通して露見、表出したものであるっていう感覚だから、それこそ感覚的な話にはなってしまうけど皮膚に対しての矢印の向きが逆なんよね。
 自分の身体を自分で意識する。けれども、その意識も身体に裏打ちされている。そもそも、いわゆるアートの畑に入る前は精神分析や脳科学にも興味があったんやけど、タトゥーを始めとする身体装飾はこれを可視化された形で実践しているように思えて、惹きつけられたんよ。

 ちなみに最近は、その興味の軸線上にハイヒールも含まれたりしていて。たまに履いてウロウロしては、自分に起きた変容をコラムとして書いていたりもしとるで(笑)
 彫師やタトゥー関係者に関しての記事って、国内外を見ても図柄や技巧性に注視したコラムやインタビューは多いけど、アートとタトゥーの両方に関係しながら両者の違いに向かい合ってる作家は、そういう記事には見つけられなかった。だから、こういう視点で論じてもらえるきっかけに今回のインタビュー記事がなればええかな。

黒嵜:不可視の痛みは当人だけのものだが、残された可視的な傷は共感を呼び込む。個々人バラバラの痛みに耐えながら、しかし一様の傷を持つことで、自己意識を身体に、身体をあるべきコミュニティに帰してやることができる。そんな亜鶴くんの話を聞きながら、タトゥーとは「敵なき傷」を愛するものかもしれない、と考えた。
 それぞれが見据えた仮想敵へ向かって軽々に当事者の痛みを「代弁」してしまう運動の他方、タトゥー裁判をめぐる報道のように、身体が「自己表現」の拠点として閉じ込められてしまうことも、どちらも「敵なき傷」がありうることを忘れている。敵がなくとも傷は痛い。そして、傷が繫ぎ止める愛着というものがありうる。亜鶴くんが話してくれたことは、そんな状況の中で、広い問題提起にもなりうるものだと思う。
今日はありがとうございました。

2018年11月某日、心斎橋某所、亜鶴の施術スタジオにて収録
撮影・構成 黒嵜想

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プロフィール

亜鶴(あず)  1991年生まれ。美術家。主に、実在しない人物のポートレートを描く事で、他者の存在を承認し、自己の存在に思慮を巡らせるような作品を制作している。また、大阪の心斎橋にて自身の拠点となる刺青施術スペースを運営。自意識が皮膚を介し表出・顕在化し、内在した身体意識を拡張すること、それを欲望することを「満たされない身体性」として表す。これらを電子機器を一切使用しない原始的な手法であるハンドポークを用いた施術で「刺青を彫る」という行為から考察している。
ツイッターIDは@azu_OilOnCanvas

黒嵜想(くろさき・そう) 1988年生まれ。批評家。音声論を中心的な主題とし、多岐に渡る評論活動を展開している。活動弁士・片岡一郎氏による無声映画説明会「シアター13」企画のほか、声優論『仮声のマスク』(『アーギュメンツ』連載)、Vtuber論を『ユリイカ』2018年7月号(青土社)に寄稿。『アーギュメンツ#2』では編集長を、『アーギュメンツ#3』では仲山ひふみとの共同編集を務めた。
ツイッターIDは@kurosoo

協力:林美月、首塚

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