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1. 本はインスパイアする! 三上章『象は鼻が長い ―日本文法入門』 くろしお出版 1980 [1960]

あくまで個人的な事情

筆者は、1970年代後半、アメリカの大学院で言語学を学ぶことになった。それと同時に学費免除のために、日本語プログラムの助手として日本語を教える必要があった。語学の経験は豊富(AFSでアメリカの高校に一年留学したこと、東京外国語大学でポルトガル語、スペイン語、フランス語を学んだこと、など)だったので、母国語である日本語を教えることは、それほど難しいことではないだろう、と高を括っていた。博士課程で勉強するのは刺激的で楽しく、美しいキャンパスや膨大な蔵書が並ぶ図書館で、自由時間を満喫するという典型的な天然大学院生であった!

ところが、当時の日本語教科書の最初に出てくる「わたしは日本人です」とか、「机の上に本があります」という表現について、すぐに学生から「は」と「が」は何をしているのか、という声が上がった。これらの例文が日常あまり使われないような日本語であることはさておき、教科書に出てきているからには、説明する必要があった。日本語プログラムが全米の大学で新設されつつある時期であったものの、日本語教育関係の参考書はまだほとんどなかった。藁にもすがる思いで読み漁った辞書、辞典類にも、納得いく答えは見つからなかった。不覚にも、納得できる説明ができないまま、学期は終わってしまった。(当時の学生さんたち、ごめんなさい! そして日本語を外国語として学ぶことでしか気付かない質問を投げかけてくれたこと、本当にありがとう!)

本とのめぐり逢い

そんな頃、日本に帰るたびに訪れる某本屋さんで発見したのが三上章の『象は鼻が長い ―日本文法入門』であった。まず、こんなタイトルの本を出版するくろしお出版さんの斬新さにショックを受けた。まさに、この短い文の中に、「は」と「が」が共存しているのである。本書はアメリカまで持ち帰った大切な一冊であり、それは今も自宅の本棚に並んでいる。

『象は鼻が長い』を読んでいくうちに、「は」は(文法論で言う)主語に使われるという当時ありがちであった説明が、誤解を招くウソであることに気付かされた。「は」は主題(題目)を提示し、「が」は主格をマークするもので、両者の性能は格段に違う、という指摘には、なるほどと納得した。三上は「は」と「が」を対立したものとして捉えるのではなく、重複する部分があることも指摘している。また、「は」のピリオド越えという機能は、後に筆者が談話分析の必要性を説くヒントのひとつとなった。こうした三上のアプローチは新鮮であると同時に、本書全体にわたって、日本語の用例を数多く示しながら、わかりやすい日本語を使って、話しかけるようにデス・マス調で論述するというスタイルが印象的であった。

本がもたらすインスピレーション

もっとも「は」問題は、談話分析の枠組みの中でさらに掘り下げていく必要があり、結局、筆者の博士論文は談話における「は」の機能を、stagingステージングという概念で説明するという内容になったのである。なおstagingは、後にトピックについて出版された編著『Perspectives on Topicalization :  The case of Japanese wa』の書評で、山口光氏が「上場化」という日本語訳を付けてくださった。

その後、日本語学や日本語教育では、「は」が否定表現や、比較対照する際に強調のため使われるとする立場、また、機能主義言語学に基づいて、「が」は新しい情報(未知)を、「は」は古い情報(既知)をマークするという説明などが知られるようになった。しかし、「が」もある人や物を取り立てて、強調効果を生み出すことがある一方、既知と未知の情報もその状況や話し手の思い入れの変化によって明確に区別し難いこともあり、十分な説明には至らなかった。筆者は、その解決策としてステージングという概念が有効だと感じている。

日本語学、言語学の出発点に導いてくれたこの一冊は、本扉に、『象ハ鼻ガ長』イナア!という文字が突如現れる名著である。


■この記事の執筆者
泉子・K・メイナード(Senko K. Maynard)
山梨県出身。AFS(アメリカン・フィールド・サービス)で米国に留学。甲府第一高等学校およびアイオワ州コーニング・ハイスクール卒業。東京外国語大学卒業後、再度渡米。1978年イリノイ大学シカゴ校より言語学修士号を、1980年ノースウェスタン大学より理論言語学博士号を取得。その後、ハワイ大学、コネチカット・カレッジ、ハーバード大学、プリンストン大学で教鞭をとる。現在、ニュージャージー州立ラトガース大学栄誉教授(Distinguished Professor of Japanese Language and Linguistics)。会話分析、談話分析、感情と言語理論、語用論、マルチジャンル分析、創造と言語論、ポピュラーカルチャー言語文化論、言語哲学、翻訳論、日本語教育などの分野において、日本語・英語による論文、著書多数。
くろしお出版から刊行の著書

■この記事で取りあげた本
三上章[著]『象は鼻が長い ―日本文法入門』1960年刊(初版)くろしお出版
出版社の書誌ページ

三上章 生誕120年記念 全帯デザイン

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