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小説「アイムシリウス。」(10)

「初めまして、陸上と申します」
「あ、どうも。すいません今日名刺持ってきて無くて」
 瀬名月見(セナツキミ)は、財布に数枚でも名刺を仕込んでおかなかった過去の自分を責めた。目の前の男に初対面でいきなりナメられるのが嫌だったからだ。陸上(クガミ)と名乗るその男はスーツの着こなしに一切の隙がなく、いかにもやり手の若手実業家、といった印象であった。ところが本人の話によると、彼は月見の高校時代のクラスメート林原剛(ハヤシバラゴウ)と同じ大学に通う同級生であり、今は剛のビジネスパートナーであるとのことだった。
 剛から突然、「見せたいもんがあるから明日ここに来てくれ!!!!!」と雑に位置情報だけが添えられたメッセージを送りつけられ、たまたま予定が無かったから何となく来ただけの月見には、寝耳に水でしかなかった。
 この日は、剛が経営するトレーニングジムが完成したとのことで、そのお披露目会を行う日だった。月見の知らない間に、剛は経営者になっていたのだ。と言っても、先ほどから剛を連れ添って笑顔で挨拶回りをしているこの陸上という男がブレーンであることは、何も事情を知らされていなくても容易に想像することができた。
 それにしても、お披露目会は昨日の今日招集されたにしては割と多くの人が参加していた。見知ったクラスメートの顔もあったので聞いてみると、やはり他の連中も昨日いきなり招集されたようだった。「ひょっとするとこれも陸上に仕組まれている?」と思いたくなるほどに、陸上の存在感は異質であった。
 ようやく状況が整理できるようになってくると、剛に聞きたいことは山ほどあったが、やはり皆の興味の中心は、陸上との出会いについてであった。
 剛は高校卒業後、柔道のスポーツ推薦で大学に進学した。スポーツ推薦枠で入学した学生には一部単位の免除が与えられており、剛はより柔道に専念できるはずだったのだが、「真の強者は文武両道だ!!!」と必要のない講義までわざわざ受講し始め、入学早々八方塞がりとなっていた。そしてある日の講義後、月見のように真面目で人の良さそうな受講生にノートを借りようと人を探していたところ、出会ったのが陸上だった。
 陸上は人に興味を持たれないことがコンプレックスであり、これまで人から話しかけられる経験など数えるほどしか無かった。そのため陸上は、喜んで剛を受け入れた。剛は自分のどんな話でも新鮮な表情で聞き入ってくれ、たまに話が全く伝わっていないと思う瞬間もあったが、そんなことはどうでも良いと思えるほどに楽しく話すことができた。そして陸上は、せっかく楽しい時間をくれたかけがえのない友達に、何か力になってやりたいと思ったのだった。2人はそれから、色々な事を話し合うようになった。
「文武両道って具体的にはどういうことを勉強したいの?」
「どういうこと? さぁ…あ! 筋肉!!!」
「筋肉? 解剖学だと専門性高いし、スポーツ科学とかか。柔道は人間の運動構造を利用する武道だって聞くし、知識を実践に活かせるとシナジー高そうだよね!」
陸上は喋りながらどんどん手元のスマホで調べ物をしている。
「へぇ、筋学って筋肉専門の学問があるんだ。知らなかった! ありがとう、へへ」
「ん? おう、お安い御用だ!」
「え、剛くんは将来オリンピックとか目指すの?」
「いやそれがなぁ、英語がなかなか馴染まんもんでな」
「じゃあ理学療法士? それか指導者の方面?」
「指導者? ああ、教えたりすんのは好きだぞ! みんなで一緒に筋トレだ!!」
恥じらいもなく学生食堂でボディビルのポージングを取り始める剛を、陸上は羨望の眼差しで見つめていた。
「俺、剛くんと一緒にビジネスやりたい」
「ビジネス? おう、いいぞ!」
「元手の資金は俺が集める。登記とか色々、会社作るのに必要な事は俺が全部やる。だから剛くんは、」
陸上は持っていた手帳の白紙を1枚千切って、剛に渡す。
「筋トレジムの名前、考えといて。社長として!」
「社長? あ、おい!」
陸上は走り去っていった。剛には柔道や取りすぎた講義があり、その他にも様々な障壁が存在したが、この時の陸上はそんな剛の事情を慮る隙間も無いほど、心が躍っていたのだった。

 集中して聞いていても所々置いていかれそうになるほどぶっ飛んだ話であったが、月見はひとまず陸上が剛と同じか、あるいはそれ以上にキテレツな男であるということを理解した。そして剛は陸上の勧めで、「ヤワラ剛(ゴウ)」という名で動画投稿を始めていた。今ちょうど「Theatre U(テアトルユー)」という動画投稿アプリを利用した動画配信が流行し始めており、その話題になった時にはその場にいた皆がこぞって「ヤワラ剛」を検索した。

 月見の目線は、自分のスマホではなく、少し離れたところにいる男女の姿にあった。男子が女子にスマホ画面を見せて笑い合っている。おそらく、「ヤワラ剛」の話題で盛り上がっているのだろう。女子の方は御神湖心(ミカミココロ)、月見の彼女であった。こころも剛のお披露目会に出席していたのだ。昨日のメッセージのやり取りでこころも来る事は知っていたので、目の前の光景には何の不思議も無かった。ただ、以前のデートでこころが参加すると言っていた「カップル役のオーディション」というワードと目の前の光景が、月見の脳内で嫌でも重なってしまったのだった。
 この時月見の心をざわめかせたものは何だったのか。そもそも高校時代に、他のクラスメートがいる前で必要以上に話さないという決まりを作ったのは月見の方であったし、自分の彼女が他の男と喋ることに対する嫉妬、ということでは無かった。おそらくこころも、剛も陸上も、今こころの隣で喋っているクラスメートも、高校を卒業してから新しい生活をスタートさせ、忙しい毎日の中のほんの余暇活動として今日を迎えているのだろう。自分はどうだろう。月見が今の自分の生活を振り返ってみて思い浮かぶのは、スマホ画面に映し出されるメールの文章やtodoリストの無機質な文字の羅列だけだった。月見は、今の仕事にやりがいを感じることができていなかった。感じられなくなったのではなく、始めから感じていなかった。さらにはその比較対象として、こころに連れられ、憧れの勾坂雅弥(サキサカマサヤ)に出会うことができた撮影現場での思い出が頭に並び立つ。月見はあの撮影現場で「事故」を起こしており、苦い記憶として残っているはずだったが、それから1ヶ月半以上も経った今では、「あの日は楽しかったなぁ」と呑気に思うことさえあった。

 お披露目会が終わり、月見はこころと2人で帰るつもりでいた。ところがこころにはこの後に撮影の仕事が控えていた。
「ごめん、さっき急遽仕事入っちゃってさ。もうすぐ行かなきゃなんだよね」
そう言い残すとこころはさっさと帰ってしまった。月見はこころを見送ると急に他人の敷地に迷い込んだような感覚になってしまい、心細さに間も無く1人帰路についた。

 月見が家に着いた時には時刻は夕方となっており、夕食の準備がほとんどできていた。
「月見。これ、凛莉ちゃんに持って行ってあげて」
「ん」
母から出来たてのカレーを受け取ると、上の階にある妹の部屋に持って行く。凛莉(リリ)は月見の妹で、最近は1日の大半を部屋の中で過ごしていた。特に仲が悪いわけでは無かったが、顔を合わせる時間が限られていたし、月見の性格上、内情を根掘り葉掘り聞くようなことも無く、凛莉が何を考えてずっと部屋にいるのかはわからなかった。ただ今日、剛のお披露目会からずっと、何か取り残されている感覚を感じ続けていた月見にとっては、部屋に閉じこもっている凛莉が、フラットに接することのできる数少ない貴重な存在だと思えた。
 月見は妹の部屋を勢いよく3回ノックをして、少しの間を空けてから、「凛莉、ご飯」と大きめの声で放った。
「置いといてー」
「ん。カレーだよ」
「やべ、冷めるじゃん」
これで会話は終わっていたが、月見は扉の前にカレーを置いても、その場を離れる気にならなかった。
「なぁ」
凛莉からの返事は無い。
「凛莉、今、楽しい?」
月見は言った直後に後悔した。当然悪意など無かったものの、少なくともネガティブな返事を期待した発言だったからだ。
またも凛莉からの返事は無い。月見は安心して、凛莉の部屋から立ち去ろうとした。
「おにい、あたしのこと引きこもりの暇人ニートだと思ってんだろ。古いなー。悪いけど、おにいが週5で家から出勤してるみたいに、あたしは毎日PCから外の世界に出勤してるから。充実しまくってるから、これでも。じゃあまた配信始めるので。おやすみ」

 月見は1人、真っ暗な自室のベッドに横たわって、目を閉じることも無く、孤独を感じていた。電気を消して寝ようと思ったが、今日1日の体験の濃度があまりにも濃かった。高校時代のクラスメートで、当時はどちらかと言うと下に見ていた林原剛は、大学に進学して気の合う親友と出会い、一緒に起業して今は動画配信までやっている。妹の凛莉は部屋に引きこもっているだけかと思いきや、部屋の中から自分の居場所を見つけ、矜持を持って仕事に取り組んでいるようだった。そして彼女のこころは、俳優の仕事に全力投球していた。今度もカップル役のオーディションに参加するらしい。
 株式会社ココビール営業部の新入社員となった今の自分の仕事は、居酒屋やその他の会社に自社のビールを売り込むことである。たくさんの人達に美味しいビールを届ける、とても大切な仕事だった。そうやって考えを巡らせているとどうしても眠れそうになかったので、月見は机のランプをつけて、そこに置いてある2つのスマホのうち地味な方、会社から貸与されたスマホを手に取り、画面を見た。そこには新規メールや、上司から付けられた新たなtodoリストの通知がいくつか貯まっていた。まだ入社2ヶ月目の月見には、この毎日流れてくるタスクを淡々と消化していく日々の意味を理解することができなかった。凛莉はPCから外の世界が広がっていると言っていたが、月見が普段会社で睨みつけているPC画面の向こう側は、一人の気配も感じられない闇だった。
 月見はスマホを閉じ、画面を下向きにして机に戻した。そうすると隣の、こころからプレゼントされた派手すぎる柄のカバーをつけた自分のスマホが気になった。
「カップル役オーディション…」
派手なスマホを手に取って開くと、すぐに例のオーディションの案内画面が出てきた。そういえば少し前の自分も気になっていたのだった。

 今日は2021年5月13日。この日の23時59分、カップル役オーディションの募集が締め切られた。

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