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小説「アイムシリウス。」(7)

「カット!」
 助監督の豊島(トヨシマ)が進行中の演技を止めた。部下役のエキストラが、動き出すタイミングになっても一向に動かなかったためである。周りのスタッフ達は、何が起こったのかと気にしながらも、相変わらず自分の役割に集中している。

「え?」
瀬名月見(セナツキミ)は、自分が招いた事態であるにも関わらず、まるで何も理解していない声を発した。すると、いつの間にか間近にいた助監督の木部(キベ)と目が合う。
「月見さん、大丈夫落ち着いて。ため息聞いたらスタートですよ!」
 月見はここでようやく事態を把握した。自分は手元のコーヒーカップに本物のコーヒーが注がれていることに焦って周りが何も見えなくなっていたのだった。それまでずっと中身の入っていないコーヒーカップで動きの練習をしていたため、中身のたっぷり入ったコーヒーを今まで通りのやり方で動かして良いものなのかどうかわからず、おぼんから伝わる奇妙な重力に、月見には恐怖を感じていた。そこから、中身が入っている場合の動きを考えようと思案していたところ、段取り開始の合図を聞き逃していたようだ。
 月見がふと足元を見ると、そもそも決められたスタート位置にすらつけていなかったことを認め、慌てて戻ろうとした。その時、突然誰かの手がすっと月見の両肩に乗った。振り向こうとすると、
「大丈夫、大丈夫。コーヒーって案外こぼれないから」
勾坂雅弥(サキサカマサヤ)の声だった。勾坂はそのまま木部にコーヒーの量を少し減らすように頼むと、自分の持ち場へ戻っていった。一流の俳優ともなると、取るに足りないエキストラの1人が何に悩んでいるかまで把握できてしまうのか。月見は偉大な勾坂の背中を見送り、もう落ち込むのにもいい加減飽きたので、一呼吸して持ち場に戻った。

 月見はその後の段取り、そして本番前のテスト撮影までをなんとか乗り切り、いよいよ本番を残すのみとなった。月見はぎこちないながらも木部から指示された動きをしっかりとこなした。それでも安心することなく、頭の中で何度も段取りを反芻したり、現場の邪魔にならない範囲で小さく動いてみたりした。監督の悠木刹那(ユウキセツナ)からは相変わらず演技の中身に関するダメ出しが続いており、木部伝えで月見の耳に指示が届けられた。この時点で、月見の動きはただの動きであり、勾坂演じる白金誠示(シロカネセイジ)の部下という役の人物には、到底たどり着いていなかった。
「じゃあ各所直し終わったら本番行きますよ」
 豊島の号令で、それぞれがスタンバイ態勢に入る。月見も覚悟を決めたようにふっと息を漏らし、自分のスタート位置に戻ろうとする。そして白金のデスクを通り過ぎかけた瞬間、白金のデスクに何か黒いものが落ちていたことに気づいた。月見はふと足を止めるが、視界に見えるのは既にスタンバイを完了している人達がほとんど。月見は申告するのを諦めて、というよりそもそもこの空気でそんなことを言い出す勇気も無かったので、そのままスタート位置へ戻って行った。スタート位置に戻るまでの間は、特に歩くスピードを遅くしたつもりはなかったが、なぜか十分に落ち着いて考える時間を持つことができた。
 月見は今見た黒いものの正体に心当たりがあった。それはおそらくコーヒーだった。落ちていた場所もちょうど自分がカップを置く位置付近だったし、思い返してみると先ほどの本番調整中、助監督の浜司(ハマジ)が月見の置いたコーヒーカップを片付ける際、カチャッと音がしたのを聞いていた。あの時にテーブルへこぼれたのかもしれない。もしあの黒いものがコーヒーだったらどうだろう。いや、たとえコーヒーじゃなくても、テーブルの上に何かが見知らぬものが乗っている時点で、一切のイレギュラーを許さないあの白金誠示がそれを見逃すわけがない。もしあの黒いものを、白金さんに見つかってしまったら・・・
 そこまで考えた時に月見はスタート位置にたどり着き、止まって後ろの芝居場へと振り向いた。そしてここから、月見の頭に不可解なことが起こる。意識ははっきりしていたものの、ここから少し先までの記憶がほとんど残っていないのだ。

「はいでは、各所スタンバイよろしいですね・・・それでは本番行きます。本番! よーい、スタート!」

一つ大きなため息を漏らす白金。
と、部下がコーヒーを持って執務室に入ってくる。
白金「あぁ」
白金は慌ててデスクに移動。
白金「ありがとう。ここに。ここに置いてくれたまえ。もち…」
部下が突然白金のデスクを撫でる仕草を取る。すると部下の腕がデスクに置いてある書類に当たって崩れてしまう。それに反応した拍子に持っていたコーヒーもひっくり返す。

「カット!すいません、現状復帰お願いします」
 豊島の号令でスタッフ達が一斉に白金のデスクへ集まる。月見は、ただ立っていた。その内スタッフの1人が気付かず月見にぶつかってしまい、月見はよろめいて後ろの人にぶつかる。見ると、それは悠木であった。
「すいませんが、邪魔になるので一旦出てもらえますか」
怒りを露わにしているわけでも、配慮しているわけでもないロートーンの悠木の声が、月見の意識を起こした。ここから先の記憶は、むしろ鮮明に月見の頭に刻まれている。月見は、床に這いつくばったりしてコーヒーの汚れを拭いているスタッフや、びしゃびしゃになった本や書類を選別しているスタッフ、それに、トレードマークのライトグレースーツを茶色に染めた勾坂雅弥がこっちを向いて笑いながら何か喋っているのを見て、1歩、また1歩と後退りする。そして、気づけば月見は走り出していた。現場の部屋を飛び出て外へ。どこでも良い、どこか、隠れられるところへ。どこか、誰にも怒られないところへ!

 月見が部屋を飛び出して少し経った後、悠木は勾坂に、一旦控え室へ戻るよう指示を出した。
「今日はさすがに撮りきれないかもですね」
「いやー、大丈夫でしょ。悠木ちゃんなら」
「まぁ、はい」
先に持ち場へ戻ろうとする悠木を、勾坂が止める。
「監督」
悠木は勾坂の方を振り返ると、勾坂が白金のデスクの方に目線を向けるので、自分もそちらを見る。そこに、一滴のコーヒーがこぼれていた。
「そうですね。でも、ダメです」
「まぁ、ダメか」
勾坂はコーヒーの粒を見たまま、小さく笑った。

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