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小説「アイムシリウス。」(6)

 本番前の現場に戻った瀬名月見(セナツキミ)は、周りのスタッフに迷惑を掛けないことを最優先にしながら、助監督の木部(キベ)に教えてもらった芝居の段取りを1人で確認していた。演技を見た事はあってもしたことなどは無かったため、相変わらず自分の心臓の鼓動は聞こえていたが、もうこれ以上人に迷惑を掛けまいと覚悟を決めていた。ふと部屋の窓から下の広場を覗くと、デモ隊がわらわらと動いているのが見えた。彼らの中には、彼女の夏来こころ(ナツキココロ)がいるはずであった。月見は、人の粒のどれがこころなのかはわからなかったが、その中にこころがいると思えば、皆が自分を応援してくれているような気がした。
「勾坂さん入られます!」
 助監督豊島(トヨシマ)の声が飛んだ。現場はまもなく本番前のテスト撮影に入る。本番前の最後の調整となるため、ここからはキャストも参加して行われることとなる。撮影現場となる部屋の入り口から、俳優勾坂雅弥(サキサカマサヤ)が入って来た。部屋は狭く、動線を塞いでいたスタッフ達が次々に勾坂の通る道を空けるため、まるでお殿様が進んでいくような形になった。だが当の勾坂はといえば、「すいません、すいません」とスタッフを気遣いながら腰を低くして歩いており、どう見てもお殿様の格好では無かった。そして勾坂が演じる主役、白金誠示(シロカネセイジ)のデスクまでたどり着くと、そこで硬直している月見に正体する。
「おはようございます。セナツキミ君? 今日はよろしくお願いします!」
勾坂は、先ほど助監督の浜司(ハマジ)に教えてもらったばかりのエキストラの名前を口にして、その硬直したままの月見に手を差し出した。

 豊島の声を聞いた瞬間、月見は咄嗟に部屋全体を見た。自分の段取り確認に集中して、半分くらいは自分の世界に没入してしまっていたのだ。月見がキョロキョロとスタッフ達の様子を見ていると入口の扉が開き、そこから勾坂が入ってきた。月見は勾坂の姿を目の当たりにした瞬間、全身の筋肉が一斉に収縮したのを感じた。今まで自分の役の段取りを覚えることに集中するあまり、いつしか月見の脳内で、憧れの俳優、勾坂雅弥の存在が端に追いやられていたのだ。そこに来て本人が、テレビを通してではなく、3Dになった実物が突然目の前に現れたのである。月見は、勾坂が自分に道を開けるスタッフを気遣ったり、後ろから付いてきたマネージャーへ気さくに喋りかけたりする光景を観て、これまでテレビの前で妄想するしかなかった勾坂雅弥像そのままの姿を重ねていた。

 11年前、小学2年生だった月見は生まれて初めてテレビドラマを観た。当時はまだ仲の良い幼なじみだったこころからの熱烈な勧めを受けた、「Higher」という恋愛ドラマである。月見とこころはテレビの前に2人並んで一緒に観ていた。同じような姿勢で観ているようでも、2人が見ているテレビは全く別のものだった。こころは、推しの女優で本作のヒロインを務める日山真琴(ヒヤママコト)の演技にひたすら目を輝かせていたし、月見はというと、初めて観るテレビドラマというものの見方がわからず、初めはただ目まぐるしい映像の流れを目で追っていた。それでもだんだん慣れてくると、いつしかドラマが映し出す世界に入って行って、最終的には、日山真琴の相手役を務めている優男から目が離せなくなった。その優男を演じたのが当時23歳、絶賛売り出し中の若手俳優、勾坂雅弥である。
 その日から、月見にとって勾坂雅弥は特別な存在になった。なぜなら、当時8歳だった月見は彼の演技を見た時、今までの生活では決して感じることのなかった、自分の強い心の動きを感じたからだ。その事を母に話すと、「勾坂さんが大好きなのね」と言われたので、月見はその時、初めて「好き」を体感することにもなった。月見はそれから、勾坂が出演するテレビ番組だけを全て観るようになった。
 「Higher」で観た勾坂は優男であったが、別のドラマでは悪役を演じたり、情けない男を演じたりもしていた。月見はそれら全てに対して、初めて観た「Higher」と同じか、それ以上の興味を持って観た。連続ドラマのメインキャストはバラエティ番組に出演して番宣をするため、その都度月見の興味を引き立てたのだ。さらにバラエティ番組では勾坂雅弥自身の人となりを紹介するような内容も多かったため、月見は役者以外の勾坂のことも好きになっていった。というよりもむしろ、初めて「Higher」で勾坂を見た時から、僭越にも自分と同じ人間味を感じ、思い返せば、演技よりも優男を演じていた人間そのものの方に、より関心があったかもしれなかった。それを強く思ったのは、あるバラエティ番組で、勾坂がインタビュー形式で自分の半生を振り返る企画を観た時だった。
 勾坂は小学生時代の話の時に、「なぜかわからないけど、周りのみんなとずっと話が合わなくてしんどかった」と言った。その言葉が月見に、共感を伴って深く刺さった。会ったことも無い勾坂雅弥が自分の気持ちを代弁してくれている。月見はその事に、奇跡的な引力を感じていたのだった。
 それからというもの、勾坂の言葉の言葉、芝居、人間性、ありとあらゆる要素が月見の糧となった。そして歳を重ねていくにつれ、「今回の作品は勾坂さんらしい役だった」とか、「普段の姿とのギャップで視聴率を狙ってる」とか、小賢しいことを考える頭が出来上がってきた頃には、月見はすっかり勾坂雅弥オタクというキャラクターを完成させていた。

 月見が我に返った頃には、勾坂が目の前で自分に右手を差し出していた。
「あ、お、おはようございます!」
月見は咄嗟に勾坂の右手に向かって挨拶し、両手で手を握り返した。月見の声量がバカみたいに大きく、周囲のスタッフの笑いを生んでいたことなどは、彼の耳には全く入っていなかった。
「ではご本人で一回段取りしますよ!」
再び豊島の声で現場の空気が締まる。悠木組に気を緩める暇は無い。月見は勾坂と握手をした自分の両手の平を眺める間もそこそこに、バタバタとスタート位置に戻っていく。移動する過程で勾坂の方を見てみると、既にスタンバイが完了しており、悠木から動きの指示を受けていた。
 月見の元に、助監督の浜司(ハマジ)がコーヒーカップをおぼんに乗せて運んできた。月見はそれを受け取ると、今までとは明らかに違う、気味の悪い重力を感じた。その正体を見て、月見は瞬間に言葉を失った。
 カップには、底が見えないほどに黒々としたブラックコーヒーが、なみなみと注がれていたのだ。

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