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小説「アイムシリウス。外伝 ーこころー」

〈あらすじ〉

 いつも明るく、笑顔を絶やさないこと。大人の人に対しては、正しく敬語を使えること。そして、確かな演技力。優秀な子役の条件を満たす子供はたくさんいるが、夏来こころ(ナツキココロ)という子はその中でもかなり目を引く。彼女は「作り方」が巧く、どこにいてもまるで本当に、ただ無邪気にその場を楽しんでいるような表情を見せる。
 業界関係者からそんな評価を受ける御神湖心(ミカミココロ)の今があるのは、月並みな表現だが、周囲の人達の支えがあったからだった。たくさんの愛を注いでくれる両親。自分の事を慕ってくれる個性豊かな友人達。それに、デリカシーの無い幼なじみ。
 これは、「こころ」ができるまでの物語。

〈本編〉

 緑葉小学校の体育館の入り口には、カラフルなデコレーションがかわいらしく飾られた、手作りの看板が立っている。

第1回 区立緑葉小学校演劇発表会
『僕はシリウス』
主催 演劇発表会実行委員会

 体育館の中では、まさに公演の本番が行われていた。舞台上では4年生の生徒達が全力で役を演じ、汗を流す。観客席では保護者や他の生徒達がその様子を固唾を飲んで見守っていた。物語はいよいよクライマックス。その会場の空気は「お遊戯会」のそれでは無く、一般にチケットを購入して観るプロの舞台で味わうようなものだった。そして、会場内の誰もがその空気を生み出す源流について理解していた。彼女は今まさに舞台上で泣き、その感情を皆の鼓膜から心臓へと絶えず届けていた。
 観客の誰かは思わず、丸めて持っていた手元のキャスト表を広げて確認した。キャスト表の一番右には、「御神湖心(みかみこころ)」と書かれてあった。

 湖心は絶好調だった。普段はカメラの前で演技する事が多く舞台の経験はあまりなかったのだが、これまで一緒に舞台を作ってきたクラスメイト達の熱量に感化されて、最高に気分がノッていた。いざ本番が始まれば、演者は舞台を成功させるためだけに全神経を捧げる。湖心は、普段やっている女優の仕事の時以上に、真剣に舞台を直視していた。
 それゆえに湖心は、足元に転がっていたボールに気づくことができなかった。
 舞台の下手から上手へ泣きながら一気に走り抜けるシーンで、湖心はボールで右足を捻って転んだ。湖心は床に伏した瞬間、客席の空気が固まったのを感じた。そのため、全然大丈夫だよ、というメッセージを伝えなければとすぐに立ち上がり、泣きの芝居を維持したまま、変わらないスピードで上手の舞台袖まで走り抜けた。
 一旦袖にハケてきた湖心は、また次の場に出演するため、演技の準備を始めようとした。すると、後ろから誰かに両肩を掴まれた。
「御神さん。休憩入れよう。そんな状態で出たら演技どころじゃないでしょ。誰か、手塚先生に言って幕下ろして」
担任の細山田小町(ホソヤマダコマチ)先生が、自分の身体を気遣ってくれていた。湖心は、小町先生が大好きだった。だが、この時ばかりは腹が立った。
「イヤです。離してください」
「こころちゃん。まだ終わってないから」
小町にではなく、自分に腹が立った。自分の仕事は舞台上で演技をすることだけなのに、それすらちゃんとできていない。先の演技の事に集中したいのに、さっきから右足首をずっと誰かに刃物で刺されているようで、それもできていない。
「みんなこんなに頑張ってるのに、私だけ失敗なんてイヤ!」
湖心は小町の手を振り払い、そのまま舞台に飛び出していった。
 舞台に出てからも、湖心は足の痛みと戦いながら演技を続けた。
 場面は、湖心演じる主人公の「ナミダ」が日頃の鬱憤を、舞台上には登場しないイマジナリーフレンドの「シリウス」に吐露する実質一人芝居である。そこで必要な苦しみの演技と、現在の苦しい状況とが偶然にも一致しており、演技には何とか支障が無いと感じていた。
 それにしても湖心は、意識が右足へあまりにも奪われてしまい、ついにはセリフが出てこなくなってしまった。こうなってくると、いくら普段から稽古を積んでいる役者であっても立て直すのは難しく、まだ10歳であった湖心は当然、その例外ではなかった。いよいよ心が折れそうになったその瞬間、湖心の身体は突然、宙に浮いた。
 身体が宙に浮かんだと思ったら、後頭部で「ナミダ」と呼ぶ声がした。その声の主とは、クラスメイトで「シリウス」の役を演じている瀬名月見(セナツキミ)に他ならなかった。ただ、その声があまりにも心地良くて、湖心は本番中であるにも関わらずリラックスしてしまった。こんな事ができるのは、自分の知っている幼なじみの月見ではあり得ないことだったため、湖心は瞬間的に、「シリウス」が自分のために助けに来てくれた、と思うことができた。それは結果的に役への復帰に結びつき、湖心はまた、流暢に言葉を話し始めた。
 その時感じた感覚は、普段母が自分を愛してくれるのに似ていた。公演が無事成功を収めた直後、閉じた幕の内側で、湖心はそんな事を考えたりした。

「この子のかわいさを発信せずこんな狭い世界に留めておくのって、逆に世の中に対して不誠実なんじゃないかと思うのよね」
 沙来(サキ)は湖心の顔を見て言った。優しい色合いの木製テーブルの上には、これでもかと言うほどイチゴが乗ったホールケーキにロウソクが5本。今日は湖心の5歳の誕生日を祝う夜だった。
「そろそろ喋れるようになってきたし、お姉さんどうですか? 芸能界とか、興味ありませんか?」
 沙来は怪しいスカウトマンのようなノリで、湖心に意見を求めてみた。
「興味あります! 女優さんになります! 湖心5歳です! よろしくお願いします!」
 湖心は沙来にではなく、正面の席に座る夫の業助(ゴウスケ)に向かって宣言する。沙来も、覗き込むように業助の顔を見る。今この話題を出すことは事前に湖心と打ち合わせ済みだったのだ。
「え、何? 裏の思惑を感じる」
「一回挑戦させてみようよ、芸能界」
「芸能界って・・・」
「業界人の私の目に狂いは無いはずなのよ」
「沙来、美術部でしょ」
「美術部でもわかんの!」
業助は、今度は湖心の方を見る。湖心は嬉しそうに笑っている。
「湖心は、本当に女優さんやりたいの?」
「やる!」
湖心の即答が業助を怯ませた。
「学校は、どうする? 子役の仕事に理解のある学校に行かなきゃか?」
「うーん」
業助が前向きなってくれたところで早速水を刺してしまうのだが、沙来は湖心に、普通の学校生活を送って欲しいという気持ちも持っていた。
「普通の学校に通って、女優さんもやるの」
次の言葉を探している沙来に変わって湖心が答えた。
「それ、めちゃくちゃ大変じゃないか?」
「うーん」
沙来は業助からの視線を受け流す。
「・・・イヤになったら辞めれば良いってさ、子供に教えたらダメな教育なのかな?」
「え?」
沙来は、大人同士でする話をあえて湖心もいる場で話し始めた。
「言っちゃったの私、湖心に。イヤになったら辞めれば良いって。大人は無理じゃん? 急に仕事投げ出すのとか。責任問題じゃん? だから大人は、子供の頃から社会の厳しさ教えるために、「一回やるって言った事は最後まで責任持ってやりなさい!」って、みんなそうやって子供をしつけるじゃない。でもそんなのってさ、とりあえず社会に迎合してる感じで、なんかヤじゃん! イヤなものをイヤって言えない社会に、最初から染まらせたくないんだよ。だからさ、業助。私は湖心に今のうち、やりたいだけの事をやらせたい。でも私の今の生活習慣じゃ、到底湖心にそんな経験させてあげられない。苦労かけるのは重々承知の上なんだけど・・・どうかな?」
業助は少し考えて、沙来と湖心の方を見ながら答えた。
「もうすぐ始まる小学校の入学準備。撮影現場への送り迎え。普段の家事全般に仕事に。それに、湖心のお芝居の練習相手? ふぅー。まぁ、やるか!」
業助が立ち上がったので、家族3人立ち上がって歓喜した。
 湖心はどれくらい、今の話を理解しただろう。隠し事が嫌いな沙来は、とにかくなんでも大事な話は家族2人共に話すようにしていた。今回も話して、業助の理解を得られて、いよいよ新しい生活が始まる事になったが、沙来は不安だった。業助や湖心に話をしながらも、我ながら荒唐無稽な話をしていると思っていた。ただでさえ夫婦共に忙しい毎日を送る中、小学校が始まる湖心に、その上更に仕事をさせるなんて。沙来の頭では到底その生活がイメージできなかった。だから沙来は、夫に最終的な判断を丸投げした。「娘からのお願い」という姑息な手段まで使って。
 結婚する前、業助は将来の子育ての事を考え在宅勤務できる職場を探すと言い、デザイン設計の会社に就職した。専ら家にいられない沙来に代わり、業助は仕事の傍ら家事全般を受け負っていた。
 沙来は、優しい夫に甘える事にしたのだ。自分の事を、つくづく最低な人間だと思った。そうまでして湖心の願いを叶えたいと思ったのは、先ほど業助に演説した通り、社会への反発が目的であった。

 沙来は、フレッシュテレビという業界最大手のテレビ局で、大道具スタッフとして働いていた。この職場は男尊女卑、年功序列という古くからの悪習が見事に根付いており、見た目が良く、上昇志向の強い沙来は事あるごとに「年配の男性社員」から標的にされていた。入社数日目から早速怒鳴り散らしてくるのもいれば、始めの内は優しく接しておいて、後から雑になって仕事を丸投げしてくるのや、飲みに誘ってきたりとにかく距離が近いセクハラタイプもいた。
 とにかくやる事なすことすべてに上からの邪魔が入り、沙来は好きで始めたはずの仕事を、続ければ続けるほど嫌いになっていった。本来意識すべきはずのテレビの視聴者達の顔が見えず、思い浮かぶのはニタニタ笑っている汚い歯並びや、怒号を飛ばした唾くらいだった。

 久しぶりの休みの日、沙来が台所でお湯を沸かしていたら、低い壁1枚を挟んで隣のリビングでテレビを観ていた湖心が突然、「女優さんになりたい」と言い出した。沙来は、答えに窮した。賛成するか、反対するかではなく、どう反対するかで悩んだ。
 まだ生まれて5年と経たない娘の意思を無碍にするのは心苦しかったが、彼女の将来を考えるとエンタメ業界など目指さない方が良い。そう考えて、娘のやる気を削がないように否定したかった。
 だが、沙来は娘を必死に説得しようとしている自分を客観的に想像した瞬間、その姿に虫唾が走った。頭ごなしに考えを否定して、やる気を奪って、こんなもの、あいつらと同じじゃないか。
「ママ?」
 湖心が沙来の顔を不安そうに見ている。沙来は、娘の前だけでは暗い顔を見せないと決めていたので、すぐに目に力を戻し、湖心の目の前へ来て座りこんだ。
「湖心。それ本気?」
「ん?」
湖心はキョトンとしている。
「やりたいの? 女優さん」
「やりたいやりたい!」
「この、真琴さんみたいになるのね?」
沙来はテレビ画面に映っている日山真琴(ヒヤママコト)を指差した。
「なる!」
「じゃあ、自己紹介から練習するか!」
 沙来は湖心と一緒に大きく笑った。すると、やかんの沸騰する音が鳴った。

 湖心が小学校に入学したタイミングと同時に、まるで天罰でも下されたかのように沙来の仕事が加速度的に多忙を極めるようになっていった。それでも何とか食らいつき、早くも湖心の入学から1年が経った、4月19日の夜。もう日付が変わってしまうくらいの時間に沙来が帰ってきた。沙来は半泣きになりながら寝室に急ぐと、湖心の寝顔にキスをした。
「湖心、ごめんね。8歳のお誕生日、おめでとう」
安心すると、涙腺が一気に緩んで猛烈に涙が溢れてきた。
「起きちゃうから」
沙来は業助に手を引かれ、リビングまで連れられた。その時リビングの掛時計が沙来の目に入った。23時57分だった。
「・・・あぁ、間に合った。あ、ケーキ」
沙来は買ってきたケーキの箱を冷蔵庫にしまいに行こうとする。しかし、業助に止められる。
「走ってきたんでしょ?」
「え? うん」
「とりあえず良いから、お風呂入ってきな」
沙来はケーキの箱を取られ、リビングから追い出された。翌日になると綺麗に3分の1を切り取られたホールケーキが出され、沙来と湖心は大ブーイングを業助に送ったが、よく観ると切り口付近のケーキの形が崩れており、それで沙来は事を察した。
 風呂から上がってリビングへ戻ってきた沙来の元に、ちょうど良いタイミングで紅茶が運ばれてきた。良い香りがする。リラックスすると、また勝手に涙が込み上げて来た。マグカップの前に座り込む沙来の背中を、業助が優しくさする。
「仕事、辞めても良いよ? 湖心のお世話、代わってよ」
業助の言葉にまた甘えそうになって、既のところで沙来はそれを頭で振り払った。
「私がやりたいって、始めた仕事だから」
「でもイヤなら辞めて良いって、湖心に教育したじゃん」
「私は、大人だから」
「そうだけど、大切な人のわがままな意思を守るのも、大人の力」
この人は本当に、自分の事を愛しているのだなと思った。そう思うと沙来の感情を内に止めるフィルターは次々に開かれ、それらが言葉となって一気に口から流れ出ていった。
「何なんだろう、男って。なんでジジイって、あんななんだろう」
ジジイではないにしろ男ではあった業助は多少食らった様子を見せたが、とにかく黙って聞いていた。
「新しくかわいい子が入って来たら、古い私はお役御免ってさ。小さくなってもう着れなくなったからって、ビリビリに刻んでウエスにした湖心の洋服か、私は。部下を人とも思ってない。何でも自分の言う事聞くと思ってる。死ねばいい。あんな老害共。クサイし。汚いし。キモいし。あんなのに一生こき使われて、娘の誕生日も祝ってあげられない私って、何なの。死ねよもう」
そこまで言って、沙来は業助に抱きしめられた。
「はい。お疲れさま。沙来は偉い。よく頑張ってる」
業助の胸の中で、沙来はひとまずスッキリした。
「ねぇ、湖心は元気? って、同じ家に住んでんのに、何言ってんだろ私」
すると、何故かこのタイミングで身体を剥がされる。もう少し抱き締めててくれても良いのに。
「元気だよ」
「そっか。ありがとう、お世話。家事も。色々」
「うん」
何となく喋ることが無くなって、沙来はマグカップの紅茶を一気に飲み干す。ちょうど良い温度になっていて、泣きすぎて喉が渇いていたのでゴクゴクいけた。
「ごちそうさま。おやすみ」
沙来は立ち上がって、一旦マグカップを洗いに台所へ向かう。
「あのさ」
業助がさっき沙来のいた場所を見つめたまま声を発する。
「ん?」
「その・・・今日・・・」
ここで業助は沙来の顔を見る。そしてすぐに逸らす。
「いやなんでもない」
少しの間があって、沙来が話を続けた。
「あぁ、良いよ。しよ」
「いや、だって。明日何時起き?」
「4時」
「ウソウソ! もう寝てよ。なんでもないよ」
「良いって。寝ながらでもできるわあんな仕事」
「そんなわけないだろ。はいおやすみ」
沙来はまたリビングから追い出された。こういうのは双方の合意が無いと、と思ったので、仕方なく諦めた。

 湖心が入学した区立緑葉(リョクヨウ)小学校は、これまで女優志望の児童など受け入れた事がない、近所にある普通の小学校であった。それが今期、芸能志望の児童が一気に2人も入学するという噂が広まると、入学早々その話題で持ちきりになるほどであった。何より、この学校が普通であるという事は、今、湖心の隣で半分寝ながら登校している幼なじみの瀬名月見(セナツキミ)の姿がよく証明していた。
 今は小学校に通い始めて2年目の夏。女優にとって紫外線は天敵と、湖心は長袖に帽子とありったけの対策をして歩いているのに、月見は全く何も気にしていない。それなのに、女の自分くらい白い肌をしているので腹が立つ。
「ナツくん、シャキッと歩かないと姿勢悪くなるよ。若い時からちゃんとしとかないと、大人になってから大変なんだよ!」
「ふーん」
「ほらー、轢かれるよ」
なぜか道路の真ん中に出ていく月見を引っ張る。この年頃の子供の言動は予測ができなくて大変だ、と湖心は感じていた。
「こころちゃんって、ゲイノウジンなの?」
「え?」
思わず顔が綻ぶ湖心。本当に子供の言動は予測できない。
「いや、まだそんな、こころ、あ、私は、まだまだこれからだから!」
「ふーん」
「でもまぁ、サインはあるよ?」
「なにそれ?」
「ほら、焼肉のわらくとかに飾ってあるでしょ。色紙に書くやつ」
「あぁ、あの落書き?」
「落書きじゃない! あれは芸能人にしか書けないやつなんだよ!」
「ふーん」
「ほしいでしょ!?」
「要らない」
「えー! もうさ、ナツくんってほんとデリカシー無いよね」
呆れて少し目を離した隙に、また月見が道路の真ん中に移動していたので、引っ張って戻した。
「じゃあこころ、あー、私が、教えてあげるから、すごい芸能人! 今日の放課後うち寄って!」
「んー、行けたら行く」
「絶対来て!」
 その日の放課後、湖心はどうせ約束なんて覚えていない月見を捕まえて、自宅に連れてきた。
「お、月見くん! お久しぶりだね」
「こんにちはー」
家に帰ると、業助が仕事の合間に休憩しているところだった。
「はいはい、ここ座って。お父さん、ジュース!」
「はいはい。何事だよ」
湖心は月見をリビングのテレビの前に座らせた。あくびをして眠そうな月見をよそに、録画したテレビドラマを探す湖心。
「ナツくんに芸能界のすごさをわからせてあげるのよ」
湖心は日山真琴が主演する連続ドラマ『Higher』の第1話を再生した。観ながら、月見にドラマの魅力を惜しげもなく語りだす。あまりに湖心の熱量がすごいので、始めは興味の無かった月見も次第に身体を起こし、その内、前のめりになって観るようになった。
「ねぇ聞いてる!?」
 途中から相槌すら打たなくなった月見に湖心はまた呆れていたが、どうやら今回は様子が違うようだった。
「こころちゃん。この人、名前なんていうの?」
月見が突然、画面に映る俳優を指差す。
「ん? あぁ、勾坂雅弥(サキサカマサヤ)さん。最近売れ始めた人なんだけど、なんかお芝居完璧すぎるっていうか、人間らしくないっていうか、私はあんまり入ってこないんだよねー」
「さきさかまさやさん? すごいなぁ、カッコいいなぁ」
もう全然自分の話が届かないようなので、湖心は諦めた。
 それからの二人に会話は無く、ずっとテレビ画面に釘付けになっていた。テーブルの傍らに置かれた2つのオレンジジュースのグラスは、結露した水滴が流れて底に水たまりを作っていた。そのうち、グラスの中の氷がカランと溶けた。

 沙来は相変わらず、仕事で多忙な生活を続けていた。いつの間にか湖心は9歳、早くも芸歴5年目の女優となっていた。
 この日は珍しく、業助が緊急の会議だと言って朝早くから休日出社で家を空け、逆に朝時間の取れた沙来が、テーブルで朝食を食べながら湖心との時間を過ごしていた。しかし、湖心が今日やる芝居の台本を読んでいて相手をしてくれないので、沙来はちょっかいをかけることにした。
「今日はどんな台本? 私にも見せてよ」
「えー、お母さんお芝居わかんの? はい」
「何言ってんのよあんた! 私テレビ局の人間なのよ? ナメた口聞いてると出禁にするから」
「出禁やだー!」
沙来はニヤニヤしながら台本を眺める。
「へー、時代劇風なんだ。どの役? 湖心」
「15ページの娘」
「15ページ・・・あ、これか。母の苦しそうな声を頼りに廊下を駆ける娘。声のする襖を勢いよく開ける。「お母さま!」襖の先には、布団の上で営みを繰り広げるは・・・えぇ!? マジか。ハードだな芸歴5年目。これ、実際に見るの?」
「何を?」
「何って・・・営み」
「わかんない。でも豊島(トヨシマ)さんが、今日は湖心ちゃんだけって言ってたよ」
「そっか。てか、そういやあんたなんか」
そう言うと沙来は立ち上がって、湖心の胸に手を伸ばす。すると、湖心が驚いて咄嗟に胸を引っ込めた。
「あぁ、ごめんごめん」
案外湖心が落ち込んだ様子だったので、沙来は思春期の訪れの早さに驚いた。
 それから湖心を車に乗せて、二人で家を出た。湖心とは、フレッシュテレビの撮影スタジオに入ったところで別れることになった。しかしその数時間後、何故かこころの撮影現場のスタッフから急に入電があり、沙来は湖心のいる部屋まで呼び出された。
「すいません、お仕事中にお呼び立てして。ちょっと、電話では話しづらくて。これ、観ていただけますか?」
 沙来が見せられたのは、湖心が今日演じるシーンの映像で、前の日程で撮り終えた男女の営みのシーンだった。その営みのシーンと湖心がそれを目撃するシーンとは、子役に配慮して別々で撮影しても繋がるような編集になっていた。だが湖心が当日、役作りのために営みが何なのか知りたいと言い出した。スタッフ達が、憚られながらも何とか言葉で説明しようと試みたが難しく、見兼ねた監督が「いっそのこと素材見せちゃえば?」と言い出し、今に至る。
「必要なら見せましょう。どうせそのうち知るんだし」
 沙来はあっけらかんと言い放った。
「じゃあ湖心ちゃん。どうぞ」
スタッフに促され、小さいテレビの目の前のパイプ椅子に座る湖心。湖心の周りを女性スタッフと沙来が囲むという謎の状況で、営みのシーンが再生された。
 ひとしきり見終わった湖心は、少しうつむいた。沙来が湖心の肩に寄り添う。
「これ・・・お父さんとやってるやつ」
突拍子もない発言に、周りを囲む全員の視線が湖心に集中する。沙来は一瞬にして顔を赤らめ、動揺する。
「は? え、ちょっ、湖心! あんた何言い出すのよ!」
そこで、気を遣ったスタッフの一人が口を挟む。
「ままま、お母さんも若くてキレイだし、ねー!? そんなの、普通ですよ! ね!?」
周りにスタッフも同調し、うんうんと頷いて、無理やり笑顔を作っている。沙来がもう誰とも目を合わせられないでいると、また湖心が口を開く。
「いや、そうじゃなくて、やっぱり・・・」
再び全員の視線が湖心に集まる。
「お父さんと、私がやってるやつ」

 日没後、無言で家に帰ってきた沙来と湖心。「おかえり!」と明るく出迎える業助を無視し、最短距離で台所に辿り着いた沙来は棚を探ると、すぐに業助の前まで引き返してきた。
「出ていけ、クズ野郎」
沙来は包丁の刃先を業助に向けた。後ろで青ざめていた湖心は腰が抜け、その場に尻もちをついた。何も言わず、目を見開いてこちらを見るだけの業助の顔に、沙来はさらに苛立ちを募らせる。
「早く出てけ! 殺すぞ! お前なんか人間じゃない! 二度と湖心に近づくな!」
包丁を突き立てたまま詰め寄り、無理やり業助を玄関の方まで追いやっていく。罵詈雑言と共に吐き出された沙来の唾が、業助の顔に飛ぶ。
「ごめん」
業助の声が、不快に感じられる。それと同時に、涙が込み上げてくる。
「謝って済むかこんなもん。もう死ねよ。どっか消えて! 二度と湖心の前に現れないで!」
動かない業助に、沙来はそれ以上言う言葉を見つけられなかった。しばらくの間、沙来の肩で息をする音と、湖心の泣き叫ぶ声だけが流れた。
「・・・俺はもう、1年前に死んでた。死んでも、この幸せな家庭に縋り付いてた。ごめん。沙来と一緒にいられて、幸せで」
業助は沙来に近づく。
「何? 来るな化け物! 早く・・・出てって!」
言葉に反して沙来の包丁を持つ手は動かず、業助にその手を掴まれる。
「大丈夫。勝手に死ぬから。この手、汚さないで」
沙来の包丁を握りしめる力が緩む。刃先をそっと下に向けさせ、手を離すと、業助はそのまま家を出て行った。
 少し間を置いて、沙来は業助の後を追って玄関を出た。もう業助の姿はなかった。家の中に戻ろうとした時に、沙来の視界に我が家の表札が入った。沙来は最後の怒りを露わにし、「堂本」と書かれたその表札に、持っていた包丁を突き刺した。力任せに抜くと、表札ごと外れた。家に入り、玄関にそれを捨てると、相変わらず泣いている湖心をようやく抱き締めた。
「ごめんね湖心。ごめん」

 堂本業助(ドウモトゴウスケ)は、大学4年生の時に参加した合コンで初めて沙来に出会い、一目惚れした。沙来が自分の告白を受け入れてくれてから、その気持ちはますます強くなり、沙来の願いは全て叶えてあげたいと思うようになった。そしてその気持ちは、結婚しても、子供が生まれても、成長しても、変わらなかった。業助は湖心を育てるようになってからも、変わらず沙来の方を愛していたのだ。
 沙来が忙殺され、業助に感情を吐露していた頃、業助もまた仕事のストレスを抱えていた。沙来とは違い、在宅勤務の業助はメールやチャットなど、無愛想で無機質な文章で各関係者から理不尽な注文をつけられることが多かった。そこに日常的な家事や湖心の世話がのし掛かり、これはストレスでは無かったものの、単純に疲労が蓄積した。その状態で仕事に向かい、またストレスの種を増やし、という悪循環を繰り返している内に、業助の中で何かが狂っていった。
 それでも何とか正気を保っていられたのは、沙来への愛が勝っていたからだった。しかし、沙来が自分を越える忙しさで毎日ボロボロになって帰ってくる姿を見ていると、もはや愛を確かめ合うような関係にはならなくなってしまった。
 愛すべき存在を仕事場に取られ、目の前にはPCがあるだけ。誰にも何も話せず、独りで耐え忍んでいた業助は、いつまでこの生活が続くのだろうかと頭を抱えていた。そんなある日の夜に、突然温かい何かが自分の身体に張り付いた。湖心だった。自分の側には湖心がいてくれたということを、業助はこの時改めて認識した。もちろんこれまでも愛を注いで暮らして来たが、今自分が最も愛を注ぐべき対象は湖心で、きっと沙来もそれを望んでいるはずだ、と腑に落ちたのだ。そのように頭を整理すると、業助は今までよりも格段に、湖心の事を愛おしいと思えた。
「お父さん、眠い。お風呂」
 業助は湖心を連れて、いつものようにお風呂へ向かった。風呂場の前でだるそうに服を脱ぎ出す湖心の姿を見守る。そこで業助は、異変に気づく。次第に露わになっていく湖心の身体に、自分自身の身体が反応していたのだ。
 業助は慌てて湖心の姿を視界から外す。
「ちょっとごめん湖心。今日、一人でお風呂チャレンジしてみるか? お父さんちょっと、仕事だ」
「えー? めんどくさい」
「めんどくさいぐらいならやれるな。頑張れ! なんかあったら呼んで」
「うー」
 業助は先ほど認識したばかりの湖心への愛情について、理解を改めざるを得なかった。自分は、自分が想像していたよりずっと狂っていた。この状況をどうにかするには当然、湖心とお風呂に入るという行動を止める他無かった。
 しかし、その自制心はあっという間に消え去った。
 それから数日と経たない内に、業助の湖心に対する「性暴力」が開始された。業助が、自らの社会的死を自覚した瞬間である。湖心としては、始めのうちはまさか自分が父親から性の対象として扱われているなど露知らず、普通に看過していた。だからこそ、業助の中での「許容範囲」は勝手に拡大する一方であった。そのうち湖心も、月日が経つにつれ、それに違和感や嫌悪感を感じるようになっていた。
 そして「性暴力」が始まってちょうど1年が経った頃。撮影スタジオ内の一室で男女の営みの光景を初めて目にした湖心は、そこではっきりと、自分が業助からされてきたことの意味を理解したのだった。
 業助は、社会的死を自覚してからも罪を告白する事なく、醜く堂本家に居座り続けた。仕事をして金を稼いでやって、家事や育児で家族に貢献して、妻と娘にこれでもかと愛情を注いでいる。良い父親なんだから、良いじゃないかと、醜く自己正当化で罪を塗り固め、幸せを貪った。
 その一方で、いつの日か沙来に処罰される心の準備も、常に整えていた。沙来に、自分を終わらせて欲しいと願っていた。

 業助の一件があってから、沙来は湖心の前で飛び抜けて明るくなった。テーマパークに連れて行ったり、お笑い番組を観てバカ笑いしたり、事務所のマネージャーから散々厳しいことを言われるという湖心の愚痴を聞いたり、とにかく湖心の傷を癒すために全ての時間を注いだ。
 沙来は、フレッシュテレビを休職していた。原因となった事実については、職場にたくさんの証人がいたこともあり、休職の届出はすぐに受理された。業助に対してはその後一方的に離婚届を突き出し、とにかく近づかないようにと念押しをしただけで、生活費の相談などは一切しなかったし、会社からの収入も無くなると、諸々の金銭的な不安要素が沙来の頭をよぎったが、とにかく今は後先を考えないことにした。
 しかし、遊んでいる瞬間だけは湖心の笑顔を取り戻すことができても、なかなか根本的な解決には至らなかった。その原因は、小学校にあった。

 堂本の姓について、小学校卒業までは名乗り続けるという選択肢もあったのだが、まだ半分以上も残っている小学校生活で離婚の事実を隠し通すのは難しかったし、何より業助の痕跡を消したいという親子の思いを尊重し、湖心は次の登校日から御神湖心(ミカミココロ)になった。
 好奇心の塊のような小学生達がこの変化を看過するわけもなく、ただでさえ女優の肩書きを持つ湖心は案の定、大いに注目を浴びた。湖心は自分に好奇の目を向ける、特に男子の表情が怖くなって、事あるごとに泣いて教室を飛び出した。だが、教室の外にも逃げ場所は無かった。
 始めクラス内に留まっていた「噂」を全校レベルにまで広げた犯人は、喜多川フレア(キタガワフレア)という、湖心と同学年で、キッズモデルの肩書きを持って入学した女子だった。フレアは自信満々で入学し、当然学校内では男子達にチヤホヤされることだろうと期待していたのに、それがあっさりと湖心にお株を奪われ、怒りを募らせていたのだった。

 それからさらに時間が経つと、「父親に暴力を振るわれていたらしい」など、真実に近い内容まで湖心の耳に届くようになってきた。今まで経験したことの無かった、負の感情を自分に向けられている感覚が恐ろしくて、湖心の傷は癒えるどころか深くなっていった。
 沙来は湖心に度々転校や休学を勧めていたが、湖心は受け入れようとせず、「もうちょっと頑張る」と言うばかりだった。強がる湖心の姿勢に心配を募らせたが、その一方で、確かに沙来の目から見て不思議に感じる点があった。学校ではいつも泣きじゃくっているという湖心が、家に帰ってくる頃には大抵笑顔になっているのだ。始めは自分に気を遣っているんじゃないかと、それも心配の種となっていたが、真実はそうでは無かった。

「今日もナツくん、勾坂雅弥の話ばっかりしてきてウザかった」
「ナツくん? ほんと好きねぇ、勾坂さん。あの子もしかして、恋愛対象男の子なのかな?」
「え・・・違うよ! フレアちゃんかわいいとか言うもん。ほんっとデリカシーないんだアイツ!」
「あー、恋かぁ」
「は!? 違うもん! なんで私が泣いてる時に平気な顔して隣でカレーパン食べれるようなやつ・・・くっふふっ」
「何?」
沙来はうっとりと、思い出し笑いしている湖心の表情を眺めている。
「カレーが横からブチュッって出てさ! あっちいっ! って。ほんっとバカ」
普段の大人びた言葉遣いからはあり得ない湖心のボキャブラリーの乏しさに、思わず沙来も笑ってしまった。
 沙来は、湖心が月見という、湖心いわくデリカシーの無い幼なじみの存在によって救われていた事を知り、少し安心することができた。「そうだ! ねぇ湖心。芸名つけようぜ」
「なんで急に?」
「良いじゃん。ほら、最近本名も変わったことだし」
「え」
 沙来は、「お母さんがそれ言う?」という顔を向けてくる湖心を無視して、テーブルに紙とペンを広げた。渋々湖心も席につく。
「さて、まずは?」
「湖心は残したい。かわいいから」
「まぁ私のセンスで付けたからねぇ」
「でも読めない。ここころじゃんこれ」
「良いんだよ。それでこころって読むの。まぁでも一理あるからっと」
沙来がA4用紙の下半分に平仮名で「こころ」と書く。
「ひらがな! かわいい!」
「ふん。で、苗字は?」
「お母さんの字を入れる」
「え?」
「お母さんの字を入れる」
沙来は早くも泣きそうになって、湖心の顔を見られなくなる。
「私の字って、どれよ。神?」
「いやそれ私も持ってるから!」
一丁前にツッコミを入れてきて、沙来は思わず吹き出した。
「マジメにやってくださーい」
「はいはい、じゃあどっちにすんのよ」
沙来は「こころ」の左上に「沙」、右上に「来」を書く。
「うーん、やっぱ「来」かな」
「だいぶ珍しい苗字になるわね。これに組み合わせるとなると、何があるかなぁ」
沙来は携帯を開いて、苗字を検索し始めた。湖心は、A4の紙をじっと見ていて、ふと単語を発した。
「ナツ」
「え? ナツくん?」
「え? いや、違くて。考えてただけ」
「良いかも、夏」
「え!? 良くない! 全然良くない!」
沙来は用紙の一番上に「夏」を書いた。
「うわぁ・・・」
「良いじゃん、好きな子の名前入れるとか」
「好きじゃない!」
残る「来」を夏の下に大きく書き直して、沙来は用紙を掲げた。
「完成! あなたの芸名は、夏来こころ(ナツキココロ)に決定しました! 拍手!」
不貞腐れながら湖心が拍手する。
「あの鬼マネージャーにダメって言われるかも」
「はぁ? そんなこと言わせないし」
沙来が会ったことも無いであろう自分のマネージャーに怒るので、湖心は面白かった。
「夏来こころ。まぁ、結構かわいいかな」

 小学4年生では、湖心のクラスメイトの八木沼光季(ヤギヌマミツキ)が発起人となって、湖心を主役とした演劇発表会をする運びとなっていた。
「湖心ちゃんのすごさを学校のみんなにわかってもらうにはさ、やっぱりお芝居なんだよ!」
 これまで学校では敵の姿ばかりが目に入って気づかなかったが、こんな風に自分の事を想ってくれる人もいたんだと、湖心はその気持ちだけでも十分救われる思いだった。光季は入学当初から湖心の大ファンだったらしく、傷つけられた湖心を助けるために何かできないかと、ずっと考えていたという。
 こうして「演劇発表会実行委員会」が湖心達の4年2組で発足すると、光季は実行委員長としてカリスマ性を発揮し、どんどん仲間を増やしていった。
 まず第一に、あえて渦中の湖心を広告塔に起用することで、半炎上商法的なやり方で生徒達の注目を集めた。この提案を受けた当初、湖心は当然怖がり難色を示したが、
「こんなこと言っちゃ申し訳ないけど、今の湖心ちゃん、もうだいぶすごいことになってるじゃん。それで、ひどい事言うやつもいるけど、隠れてるだけで私みたいに湖心ちゃんを応援したいと思ってる子達も、いっぱいいると思うんだよ」
と言われ、湖心はもうそれ以上否定することはできなかった。言葉の説得力よりも、自分を信じろという光季の真っ直ぐな眼差しを受けると、敵わなかった。
 次に光季が目をつけたのは月見だった。湖心の幼なじみであり、湖心が一番気を許せる相手と認識しており、何としても味方に引き入れたかった。さらには、一番湖心に近いポジションにいてもらいたいと思い、担任の細山田小町(ホソヤマダコマチ)に月見をヒロイン湖心の相手役にできないかと相談を持ち掛けた。そこから先はトントン拍子で、まずは小町の指示の下、学級会にて満場一致の賛成を得た。一人ごねる月見本人には、「月見くんってそういうとこ格好悪いよね」と言ってやったら、案外すぐに丸めこめた。それでも、女優・湖心の相手役というハードルは流石に高かったが、そこは小町の助け舟を得て、声のみの出演という条件で引き受けてもらった。
 そうして光季は演劇発表会に対する4年2組全体のまとまりを築き上げたが、彼女はそれだけでは不十分だと感じていた。光季は、演劇発表会を学校全体が関心を持つイベントとするためにはもう一人、クラス外のインフルエンサーが要ると感じていた。それはつまり、湖心の「噂」を学校全体に広めた張本人、喜多川フレアの事を指していた。フレアを仲間に引き入れるのは、さすがの光季でも骨が折れた。
 一番の課題は結局のところ、4年2組にフレアのことをどう理解させるか、という点につきた。そのためにまず光季は、フレアと仲良くなることにした。
 実際に会って話をしてみるとフレアは、性格こそ全く違うものの、光季が湖心の1番好きなポイントである一生懸命さを同じく持っている人物だということがわかった。つまり、しっかりと打ち解けられれば、フレアもみんなから愛されると、光季は確信した。そして、4年2組を納得させるためには、やはり湖心の言葉が要る。光季の答えは決まった。
 フレアと湖心の、仲を取り持つ。
 光季は小町のアポを取り、ある日の放課後の空き教室へフレアと湖心を呼び出した。4年2組ではもはや「主人公vsラスボス」という認識になっている二人は、意外にも今日が初対面だった。
「謝ればいいの? 私が」
フレアは用意された椅子に踏ん反り返って、露骨に悪い態度を取っていた。
「ううん、違うよ。今日はね、フレアちゃんのオーディション」
「何それ。聞いてないそんなの」
「フレアちゃん。4年2組の演劇発表会、出演してくれない?」
「え?」
光季が無遠慮にどんどん話を進めるので、湖心は不安な顔を光季へ向けている。
「なんで私が」
「かわいいから」
「かわ・・・いやまぁ、モデルやってるんだしある程度はそうかもしんないけど。演技なんかやったことないし」
「そうなんだ! フレアちゃんかわいいから、絶対お芝居映えるよ!」
「は?」
フレアの厳しい目つきに、湖心はたじろぐ。まだ早い、と湖心に目で訴える光季。
「てか、どういうつもりなのよ光季あんた。あたしがこいつの噂広めたの知ってるんでしょ。何、ケンカでもさせたいの」
フレアはここで、小町の目を気にした。
「あ、私は基本見てるだけって約束だから。だって、オーディションなんでしょ?」
「そうです」
「何よ、試すような真似して。ムカつく」
「フレアちゃんってね、1年の時も、2年の時も、クラスのみんなに手作りバレンタインチョコ作って来たんだよ」
「は!? 何言ってんの」
「え! すごい女子力! でも、なんで?」
質問する正面の湖心の方だけは、絶対に見ないフレア。
「なんで? フレアちゃん」
代わりに光季が聞く。
「・・・そんなの、好感度のために決まってるじゃない。あたし、普通にしてたら怖いって言われるから。ギャップ狙い。あんたにはわからないわよね。そんな無駄な努力しなくても、勝手に人寄ってくるんだから」
「え?」
「ところがどっこい! では、こちらをご覧ください」
光季は、フレアだけに一冊のスケッチブックを見せる。
「え!? なにこれ怖っ! 見たら呪われる絵とかじゃないでしょーね」
急に女子のリアクションを見せるフレアに少し親近感を得た湖心は、ここだと思いフレアに近づく。
「え? どんなどんな? 私怖いの結構平気」
フレアが光季に返そうとしたスケッチブックを湖心が取る。
「あ」
「うわあぁぁっ!!」
「え、なに!?」
「光季。これ捨ててって言ったよね?」
「捨てれるわけないでしょ。湖心がみんなのために描いてくれた似顔絵」
「似顔絵!? これのどこが!地獄絵図じゃない!」
「ひどい! 7歳の湖心ちゃんが一生懸命描いたのに!」
「だってこれ、まずなんでみんな二頭身なのよ。そんで、なんで顔の半分以上目なのよ。怖すぎんでしょ。どう見えてんのあんた、人間。そんなんで天才子役とか奇跡すぎるでしょ!」
フレアはここぞとばかりに攻撃したつもりが、最後に「天才子役」という褒め言葉をつい口走り、照れた。
「と、いう感じの子なんですが、いかがですか? 天才子役さん」
しっかり拾われて、光季を睨むフレア。
「え? ・・・チョコ食べたい」
「何だコイツ」
今度は湖心を呆れた目で見るフレア。もはや完全に振り回されている。
「と言ってますけど、ワイロは用意できそうですか?」
「ワイロってなによ」
「チョコ」
「あぁ。あんなの、溶かして固めるだけだから」
「作ってくれるってー! 喜多川フレア手作りチョコ!」
「やったー!」
「は!? 作るなんて言ってないし!」
「じゃあお礼にフレアちゃんの似顔絵描いてあげるね」
「やめて! 呪われる!」
 湖心がフレアの似顔絵を描こうとするので、フレアが逃げ出す。それを追いかける湖心と光季。こうして3人はただの小学4年生に戻った。なので小町も、面接官から担任の先生に戻る。
「はい、教室内は走らない」
ぴたっと気をつけをする3人。
「先生、オーディションの結果は?」
「もちろん合格!」
「いえーい!」と、光季が湖心とハイタッチする。フレアにも強要する。
「これのどこがオーディションなのよ」
「今までで一番緊張しなかった!」
「あんたは受けて無いでしょ」
「そか」
「ツッコミキャラなのね、喜多川さん」
最後はフレアに小町がツッコんだ。

 その後も光季の指揮する実行委員会が活躍し、湖心のケガこそあったが、演劇発表会『僕はシリウス』公演は何とか成功を収めた。光季はキャスト本決めの際に小町から、「この企画はあなたが御神さんのために興したものなんだから、あなたが演りなさい」と、演技初心者でありながら湖心演じる主人公「ナミダ」の親友「マリー」役にまで抜擢されていた。

 湖心は、揃って泣いている光季達実行委員会のメンバーや、それを上回る量の涙でもはや立っていられないフレアに見送られながら、会場である体育館を後にした。みんな保健室まで付き添ってくれようとしたが、湖心はそれを全力で断った。
 なぜなら保健室には、何故か自分の出番終わりに倒れ、湖心よりも先に運ばれた月見がいることを知っていたからだ。
 湖心はそこで、月見に告白した。
 舞台の上で月見に突然のお姫様抱っこをされて、月見が演じる役「シリウス」と話している時、湖心は沙来と話しているような感覚を得た。舞台が終わってからもその余韻を噛み締めていて、それからずっと、見上げる構図の月見の顔がぼんやりと湖心の頭の中に残っていた。そして保健室にある個室のカーテンを不用心に開け、月見の寝顔を見た時、この人の事が好きなのだとわかった。

 演劇発表会を観て感動した沙来は、もう湖心の傷のケアは、月見達友達に託そうと考えた。代わりに自分は、湖心の生活を守るという親にしかできない役目に戻ることにした。最初は当然フレッシュテレビへの復帰を検討したものの、旧態依然の体質は相変わらず改善されず、もはや交渉の余地無く退職した。代わりに元同僚のつてを頼って、制作請負会社で働くこととなった。激務であることには変わりなかったが、ある程度作業の進捗を委ねてもらえるポジションを用意してもらえ、努力次第で何とか湖心と過ごす時間も確保できるような生活スタイルを確立することができた。
 何より湖心自身の成長が早く、小学校を卒業する頃にはもう、ほとんど手が掛からなくなっていた。頼ってもらえる機会がだんだん減っていくことに多少の寂しさを感じることもあったが、その分女同士として、彼氏の話や仕事の話など、本音で語り合えることが増えたので、沙来は幸せだった。だがそれでも、ふと一人になった拍子に、沙来は業助がいた頃の生活を思い出し、罪悪感に苛まれた。堂本家を壊したのは、業助だけでは無い。元はと言えば、自分の私欲が原因だったからだ。

 湖心が中学校に入学するとますます手が掛からなくなり、沙来は自分のために使える時間が増えた。フレッシュテレビ時代の同僚と飲みに行ったり、一人で居酒屋巡りをしたり、元々酒が好きだった沙来は、これまで生活のために絶っていたお酒を解禁したのだった。
 ある日、沙来は普段から飲み過ぎには気をつけていたが、仕事のストレスからつい飲み過ぎてしまい、酩酊状態で何とか家に帰って来た。
「ただいまぁ!」
「おかえり。え、お母さんどうしたの!」
玄関で座り込む沙来を確認し、湖心が駆け寄ってくる。
「あ、夏来こころさんだ! かあいー」
「はいはい。立てる? 頑張って!」
大きくなった湖心は、もう沙来を抱えて運べるくらい逞しくなっている。湖心の体温を肌で感じて、沙来はそれに甘えていた。
 湖心は沙来をとりあえずリビングのソファーに運んで、水を飲ませてやった。明日は休みと聞いていたので寝るなら寝るで良いし、そのまましばらく様子を見ることにした。
 その場を離れるのもどうかと思い、暇だった湖心は何気なくテレビを見始めた。そうしてしばらく経つと、突然沙来が話し始めたのだった。
「まだフレッシュにいたら、どうなってたかなぁ」
「え?」
「もっとでっかい仕事、任せてもらえてたかな」
「戻りたい? 元の職場」
「あの老害共が全員死んだらね。でもそうこうしてる間に、今度は私が老害か」
「何言ってんの。もう元気なったんならお風呂入って寝な」
「やだ」
沙来は自分を立たせようとする湖心に抱きついた。
「どっちが子供かわかんないじゃん」
「うー」
湖心はピッチャーの水をグラスに注いで、沙来に持たせた。
「はいお水」
「ありがとう」
沙来は水を飲み干すと、またソファーに頭を付けた。湖心も何となく、同じ姿勢を取る。
「湖心」
「ん?」
「ごめんね」
「まぁ良いじゃん、たまには」
「そうじゃなくて」
湖心はソファーに頭を付けたまま、沙来の方を見る。
「お母さん一人になって」
湖心は何も言葉を返さず、しっかりと沙来の顔を見る。
「湖心を女優にさせたかったのはね。元々はただの、お母さんのエゴだったんだよ。あの人に負担かけるのもわかってながら、無理矢理湖心に女優を始めさせた。多分、湖心と私が幸せになれば、あの人の事はどうでも良かったんだろうな。だから、利用した。思いっきり利用した。あの人の優しさにつけ込んで。だからね、この家で一番悪いのは、本当は私なんだ。ごめんね、湖心。ダメな両親で。なんでこんな親からあんたみたいな素敵な子が産まれたの? 鳶が鷹を産むどころじゃないよ。フェニックスだよ」
「なんだよ、フェニックスって」
沙来は湖心の頭を撫でている。気づいたら、いつの間にか2人とも目から涙が溢れていた。
「鳶は鷹を産まないよ。私をフェニックスにするんなら、お母さんもフェニックスやってよ」
「フェニックスのモノマネ?」
「誰がモノマネしろって言ったのよ」
2人は向かい合って笑い合い、お互いの涙を拭き合った。

 湖心が中学1年生の夏、沙来はトラックに撥ねられて死亡した。酩酊状態で一人、赤信号の横断歩道へ飛び出した所を、たまたまトラックが通りかかった。ほぼ100%、沙来の過失による事故だった。
 あまりに突然の事で、湖心は気持ちの整理が全く付けられなかった。沙来の葬儀の場で、湖心はまるで女優の仕事をするように列席者へ接していた。
「こ、こ、この度は、この度は、ご・・・えーっと・・・」
湖心が一通り役目を終え、適当な場所で立っていると、おどおどした様子で月見が近づいて来た。
「ご愁傷様でした?」
「ごしゅうしょ? んー、こころ、大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど大丈夫」
「え、どゆこと? なんか、どうしたら良い? 俺」
「喋ってて。てか月見って、いつから呼び捨ての「俺」男になったんだっけ?」
「え!? 中学から・・・やめてよそんな事言うの」
「中学デビューだ! あれか、光季に「月見くんってカッコ悪いよね」って真顔で言われたからか」
「う。だって、こころの彼氏だし・・・」
「カッコいいよ」
「本当に思ってるそれ?」
「なんで私が気遣う側になってんの」
「あ、そか」
湖心は思わず吹き出して笑うと、一気に感情がほぐれた。
「こころだって、なんで途中から月見呼びに変わったの?」
「ごめん、ちょっと」
湖心は月見に抱きつくと、泣いた。
「え? えぇっ?」
月見は戸惑いはしたものの、幸い、人目を気にする恥じらいの感情がまだ育っておらず、湖心をそのまま抱き止めることができた。
 会場中が、湖心の泣き声で満ちた。そのままずっと、涙が完全に枯れきるまで泣いて、泣き終わっても、しばらく月見を離さないでいた。
「好きになったから」
「ん? 何が?」
「ナツくんから、月見に変わったの。好きになったから」
「ふーん」

 それからしばらくの間、湖心は落ち込みから立ち直れないでいた。
 ある日、フレッシュテレビの廊下を歩いていたら、突然マネージャーの伊東叶(イトウカナイ)に捕まり、人目に付かない暗がりに連れて行かれた。
「ちょっとあんた、なんて顔してんの」
「え?」
「プライベートの顔なんて仕事場に要らないって、いつも言ってるでしょ」
「はい」
「辞めなさい」
「はい?」
「プロになれないんなら辞めなさい。そんな子うちでは雇えない」
「ちょっと待ってよ! 私・・・」
「私、何? 母親が死んだばっかりなんだから優しくしてよって?」
湖心は涙が溢れてくる。
「泣かない! あんたはプロ」
「何? プロ、プロって。感情を無くすことがプロなの?」
「無駄な感情を隠せって言ってんの」
「無駄じゃないわよ!」
「無駄よ。今のあなたには要らない」
「何様なの、マネージャーって」
「マネージャーの仕事は、あなたを一流の女優にすること」
「もう・・・放っといてよ!」
「そんなことできないわよ」
「もうイヤ!」
「ダメよ! そんなこと、絶対許さない」
湖心が叶を睨みつけると、叶の目が潤んでいるのがわかり、はっとした。叶が初めて湖心の目の前で、感情を露わにした瞬間だった。
「夏来こころは、わがままな沙来が私に遺した、たった一つの願いなんだから」

 叶が去り、湖心はとぼとぼと自分の楽屋に戻って行った。そういえば自分用の楽屋が用意される現場など、これまでの芸能生活でも片手で数えられるほどしか経験したことのないもので、女優・夏来こころにとって絶好の機会であった。楽屋の前にたどり着くと、「夏来こころ様」と書かれた貼り紙がある。そういえば初めて自分の楽屋をもらった時、携帯で写真を撮って沙来と業助に自慢した。そう思って湖心は、スマホで貼り紙の写真を撮った。貼り紙の貼ってある壁に背中を預けて、撮った写真を見る。
「お母さん。イヤだって言ったのに、仕事辞めさせてくれなかったよ? 私が大人になったから? 責任問題だから? 大変なんだね、大人って」
 湖心は沙来との生活を思い返していた。そこで気づくのは、どの思い出を取っても、沙来は笑顔だったということ。
 中学校に上がって、芸歴ももう9年目になると、いよいよ湖心にも社会の厳しさが少しずつわかってくるようになっていた。そんな今の湖心だからこそ、沙来が、それでもずっと自分の前で笑っていてくれたことの偉大さが理解できる。

「夏来こころ。まぁ、結構かわいいかな」
「でもさぁ」
沙来が、A4用紙に刻まれた「夏来こころ」の名前を見て一応満足していると、沙来が話を続けた。
「どうすんの成り立ちの話」
「ん?」
「将来売れて、夏来こころドキュメンタリーみたいなの特集された時、芸名の話になったらさ。「ナツくんっていう大好きな人がいてぇ、その子の名前を芸名につけたんですぅ〜」って言うわけ?」
「言わないよそんなの!」
「じゃあなんて言うのよ」
「えー・・・あ、そういやひらがなの「こころ」って、夏目漱石の小説があるよ」
「夏目漱石? あぁ、「わたしこう見えて夏目漱石の「こころ」が好きでぇ、それにわたし、季節は夏が大好きだからぁ、早く夏が来てほしー! って気持ちをこめて、それで夏来こころにしましたぁ!」ってことね」
「こころ、そんな変な喋り方しない!」
「まぁそれならとりあえず、夏目漱石の「こころ」を読めるようにならないとね」
「もう読んだよ」
「え?」
「文豪の本はもう結構読んだ。マネージャーに言われて」
「マジ? なんか、面白い本とかあんの」
「太宰」
「怖っ! 9歳児が文豪苗字呼び捨て怖っ! すごいわねあんた。いつの間にそんな偉くなったのよ」
「成長期だから」
沙来は湖心の両頬を引っ張る。
「まー減らず口! あんたもうどんな大人になっちゃうわけ!? 産まれた時から美少女だったのに、これからまたどんどん才色兼備になって、行く行くは今をときめくイケメン俳優と結婚して、幸せな家庭を築きながら月9の主演なんか張っちゃって、女子が選ぶなりたい顔ランキング第1位! とか言われちゃうわけぇ!? もー楽しみすぎるんだけど私の娘!」
「うん。何言ってるかよくわかんないけど、こころはすごい女優さんになるから。だからお母さん。こころのこと、見ててね」
沙来は笑って、こころのおでこにキスをした。

 スマホを写真からカメラモードに切り替え、湖心は笑顔を作ってみた。
「はい、今日もかわいい」
その笑顔を崩さないままスマホを片付け、フレッシュテレビの廊下を軽快に歩き始める。湖心は、御神沙来を演じてみることにした。できるだけ自由に。彼女の願いを乗せて。

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