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小説「アイムシリウス。」(14)

「あっちの方はオーディションやってるからあんまり近づいちゃダメだよ。声もダメ。あとこっちがトイレ。この階のやつしか使っちゃダメだって」
 夏来こころ(ナツキココロ)が初めてオーディションにやってきた瀬名月見(セナツキミ)のために、会場の案内をしている。月見は入り口で一通り案内スタッフから説明を聞いてきたので全部知っていたが、今はとにかくこころが側にいてくれるのがありがたくて、熱心に説明を聞いていた。
「じゃあ控室戻ろ」
「はい」
 控室の中には、外よりもさらに多くの人がいた。外でも聞いた演技についての話し声や、謎の奇声も相変わらず聞こえてきた。こころはその内の1人、台本と思われる紙を持ちながら1人でセリフを唱えている男、燈孝之助(アカシコウノスケ)を月見に紹介した。
「あかし君! こちら、例の私の彼氏です」
「あ?」
「瀬名月見です。どうも」
「あぁお前か。せっかくのおれのし・・・」
「はいはいはい、もう大丈夫です。月見、この人が前に話したあかし君」
「すごい、なんか、」
「あ?」
「いや、その、」
「呼ばれるまでまだ時間ありそうだし、みんなで読み合わせしよ! 月見、ちゃんとセリフ覚えてきた?」
「うん一応」
「俺はパス」
孝之助は2人から離れて行った。こころは残念そうにしながらもなお、1人だけテンションが高い。
「来るんなら言ってくれたら良かったのに!」
「うん、驚かせようと思って。そしたら驚かされた」
「あはは! そうだったんだ。でも嬉しい。やっぱ月見、お芝居やるの興味あったんだね」
「え? 興味、うーん、」
その時、突然控室の扉が開けられたかと思うと、ものすごい声量の案内スタッフがその場の全員に指示を飛ばした。
「皆さまお待たせいたしました! これから順番にオーディション会場へご案内しますので、名前を呼ばれた方から外に出てきてください!」
月見は再び硬直する。
「あら、意外とすぐだったね。ちょっと、なんでもう緊張してんの!」
こころは月見の背中をバシっと叩く。そうしている最中にも、次々に名前が参加者の呼ばれていった。
「緋山立梨(ヒヤマタツリ)さん!」
この名前が出ると、参加者達の何人かから驚きの声が漏れた。すると小柄な女性がショートボブを揺らしながらちょこちょこと小走りで入り口に向かう。その姿を確認してまた、今度は特に男子の声が上がった。
「つりりんだ」
こころが呟いた。
「つりりん?」
「イルダクのつりりん。最近テレビ出始めてるアイドルグループの人! ちょっとは勾坂さん以外も勉強してよ」
「すいません」
「そっか、あんな人まで受けてるんだ」
「夏来こころさん!」
「げっ!」
「げっ!」
緋山立梨と同じ組になったこころと、こころが先に呼ばれてショックな月見が同じ反応を見せた。
「じゃあ、行ってくるね。今日はこの後バイト行かなきゃだから、会えるのはまた明日だ」
「あ・・・うん」
「パワーちょうだい!」
こころは月見の両手を握った。この形だとどちらがパワーを送っているのかわからない。
「よし! 月見も頑張って!」
こころは元気良く控室を出て行った。

 こころが出て行ってから1人大部屋で過ごす時間は、月見にはとてつもなく長く感じられた。孝之助と何度か目が合うことはあったが話すことも無く、周りに合わせてスマホでセリフを確認するか、スマホを話してセリフを暗唱できるのを確かめるか、何も知らない月見が考えられるオーディション対策はそれくらいだった。本番でセリフを言えるかどうか、演技ができるかどうかという次元の不安ではなく、ただ何の覚悟も無くここに来てしまったという場違い感に苛まれ、月見は息をするのも恐ろしく感じていたのだった。
 しばらくして、また控室の扉が勢い良く開かれた。
「続いて名前呼ばれた方、外に出てきてください! えー、瀬名月見さん!」
「は、はい!」
元々入り口近くにいた月見は勢い良く返事をして、その勢いのまま控室を出た。
 控室の空気よりは外の方がまた良いと思って飛び出して来たが、その考えは浅はかであった。オーディション会場手前の待機場所には次に入室する参加者分のイスが等間隔に並べられていて、月見達はそこに一人ひとり着席していく。落ち着いて着席する者もいれば、立ち上がって最後の追い込みをしている者もいて、とにかく月見に息継ぎする瞬間は来なかった。
「大丈夫? なんか顔色悪くない?」
 月見の隣の席の男は、中性的な印象の好青年だった。ただ、今の月見の目から見て彼はあまりに落ち着いていて、自分との格の違いを感じさせられることしかなく、一層辛かった。もう、とにかく1人になりたかった。その気持ちに呼応するかのように、月見は突然吐き気に襲われた。月見は口を押さえ、一目散にトイレの方向へ走った。こころが親切に教えてくれたトイレへの方向へ。

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