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小説「アイムシリウス。」(5)

「すいません部下の方、もうちょっとゆっくりめに歩いてください。先に白金さんを通してほしいです。」
 助監督の豊島(トヨシマ)は、唖然とした表情でこちらを見る瀬名月見(セナツキミ)に声を飛ばした。声も見た目も、自分では普通にしているつもりなのに、なぜかいつも周りから怖がられているのが豊島の悩みであった。今回も怒っているわけではなく、むしろ意識して親切に言ったつもりであったが、月見の精神に追いうちをかけるには十分だったようだ。
「す、すみません!」
 声にならない声を出し、月見は逃げるように自分のスタート位置へ戻ってきた。月見は今になって、とんでもない所に来てしまったと後悔を始めていた。そもそもどうしてこんな事になったのだろうと過去を振り返ったりもした。エキストラの現場に一緒に行こうと誘ってきた彼女のこころ、元々は大勢いるエキストラのうちの1人で目立たなかったはずなのに、わざわざ憧れの俳優、勾坂雅弥(サキサカマサヤ)のいるところまで連れてきた助監督の木部(キベ)、そして演技初心者の自分に容赦なく指示を出してくる豊島。全くどいつもこいつも勝手なことを、と膨らみかけた被害妄想は、あっという間にしぼんだ。誰にも、感謝こそ伝える理由はあっても文句を言えるような点は一つもなかった。月見は、自分から求めずとも得難い経験をさせてもらえている現実を噛み締めるしかなかったのだった。例えば月見が、自己利益だけを猛烈に追求する人間なのであれば、この結果は変わっていたかもしれない。しかし月見の柔らかい心臓に、憎まれ口を叩けるような性格は存在しなかった。何よりもまず、平和に事を収めたい。絶対に敵を作りたくない。あわよくば褒めてもらいたい。そう考えるのが、瀬名月見であった。だからとにかく、目の前の撮影をいかにしてやり切るか。今の月見が考えるべきことは、それしかなかった。そして、現場に入ってきた直後は緊張で何も考えられなかったことから比べると、今は余計な事を考えるだけの慣れが生まれていたということもまた、事実であった。

 次の段取りでの月見は、先ほどとは比べものにならないほどスムーズに動いた。事前に木部からレクチャーを受けたコーヒーの置き方にも、しっかり意識を割くことができた。そして自らのミッションを達成したことに安堵して、その場から立ち去ることを忘れた。
「カット!木部、お前エキストラ最後はけるの言ってあんのか? ちゃんと丁寧に説明しとけよ。」
「はい、すいません!」
豊島がミスをした月見本人ではなく、指導した木部を責める。演出部が現場で演者と揉めることはほとんど無い。信頼関係のあるメインキャストの俳優であればまだしも、助監督は初めて会ったばかりのエキストラを怒鳴りつけることはまず考えられなかった。
 自分の不注意で、怒られる謂れのない木部が怒られたことが月見には堪えていた。明らかに落ち込んでいる月見の表情を察し、木部は一段と明るく月見を鼓舞する。現場ではカメラをセッティングしている。そうしてスタッフ達が動き回っている中、その間を縫って、手入れのされていない長髪をした男が木部の方に歩いてきた。近くで見ると男の顔は精悍で、髪型から想像するイメージにはあまりにもそぐわないものであった。男は、もう話ができるくらいの距離感になった頃にはさっさと話し始めた。
「木部さんごめん。エキストラの人、芝居が全然付いてなくて。とりあえず最低限、全体的に慌てずやってくださいってのと、白金さんから置き方の指示受けてる時の虚無感? 欲しいかなってところなんだけど…いけそう?」
「はい、了解しました。」
月見は木部のすぐ近くにいたので、聞くつもりは無くてもその会話が一部始終聞こえた。そして会話の内容から、その男が「裁定者」シリーズの監督、悠木刹那(ユウキセツナ)だと理解した。
 悠木は木部に要件を伝えると、顎の無精ヒゲを触りながら持ち場に戻った。顎ヒゲを触るのは、悠木が物事を考えている時にする癖であった。考えていたのは、不出来な1人のエキストラのことではなく、今日の撮影スケジュールのことであった。実は今朝、撮影で借りていたフロアの所有者である会社から、社用で急遽使いたい要件があり、撤収時間を30分早めてほしいという連絡を受けたのだった。映像作品は監督の物とも言われるように、撮影現場の仕組みや雰囲気は、監督が決めた撮影方針などによって大きく変わる。悠木は、その日に撮りたい画を事前の打ち合わせで完全に決めてから本番に臨むようにしており、よほどの想定外でも起きない限りは、すべての撮影がスケジュール通りに進行することで知られていた。このような方法を取る理由は、なるべく短い時間で多くの素材を撮るためであり、悠木組(悠木監督の撮影チームという意味)の香盤表(日毎の撮影スケジュールや俳優・スタッフの入り時間などをまとめたもの)はいつもタイトに詰められていた。その分、終了時間が早かったり撮休が多かったりするため、これまで一緒に仕事をしたスタッフ達からの評判はむしろ良かった。
 顎ヒゲから手を離し、監督用モニターの前の座席についた悠木は、もう目の前の撮影へと頭を切り替えている。悠木は現在28歳。規格外の若き天才として、将来を嘱望されていた。

 木部は、監督から伝えられた月見への演技に関する指示を本人にどう伝えようか、少し考えていた。木部は、月見をこの緊張の舞台へ呼び込んでしまった罪悪感を少し感じ、少しでも気持ち良く演技をして帰ってもらおうと心血を注く所存であった。聞くと月見は演技初心者で、人前に出るのもそんなに得意では無いタイプのようだ。余裕があればもっと彼とコミュニケーションを取り、できる限りストレスを緩和してやりたいところなのだが、何しろこの悠木組は予定が詰め詰めで忙しく、エキストラ一人ひとりの意思を汲み取っている時間など全く無かった。自分が月見を選んだ手前、なんとかして彼を最短で芝居ができる状態に持っていくということが、木部に課せられた至上命題であった。
 木部は、月見について、緊張こそしているものの、話を理解するだけの頭は持っていると評価しており、十分に希望があると思っていた。ただ、情報を矢継ぎ早に入れてしまうとおそらく混乱してしまう。だから、できるだけ端的に、最小限の言葉で伝えてやるべきだ。木部は、元高校教師というキャリアを活かし、月見という今限定の生徒と向き合っている。
「月見さん、ちょっとだけ時間があるのでここで練習しましょう! まずは本番前に深呼吸。吸って、ゆっくり吐いて。OK。そして本番が始まったら?」
「白金さんのため息。」
「そう。それでゆっくり歩き出します。」
「白金さんを先に通す。」
「はい。2人ともデスクに到着しました。そしたら白金さんのセリフがあります。そしたら?」
「カップを置きます。こう。で、帰る。」
「はい、帰る時もゆっくりで大丈夫です。うん、完璧でした! 今みたいに、次の動き考えながらできれば案外簡単ですよね?」
「はい、頑張ります。木部さん、あの、すいませんほんとに。」
 ここで月見は助監督の浜司(ハマジ)から現場に戻るよう言われ、そそくさと戻っていった。1人になった木部はふっと少し息を漏らし、肩の力を抜いた。悠木から受けた演技の指示には、「白金のセリフを聞いている時の虚無感を」というものがあった。木部はこれを、「次の段取りを落ち着いて考える」ことで補完してもらおうと考えたのだった。

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