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小説「アイムシリウス。」(8)

 エキストラの撮影が終わった頃にはもう日が傾き始めていた。夏来こころ(ナツキココロ)はそれからずっと、行方不明となった恋人、瀬名月見(セナツキミ)を探し続けている。撮影現場周辺は一通り探したし、月見の家にも連絡したが帰っていないらしい。撮影現場でこころのことを心配したエキストラの数人が一緒に探してくれていたが、さすがにこれ以上は申し訳ないと帰ってもらい、今は1人で探している。探す範囲を広げることや、警察に連絡することも一瞬頭をよぎったが、月見の性格を考えると、そう遠くまでは行かないはずだと思っていた。
 こころが撮影現場近くの公園に戻って来て、もう一度月見に連絡しようとスマホに手を掛けた時、目の前の公衆便所の流水音がわずかに聞こえた。こころは思わず立ち上がり、公衆便所の方を見る。すると、便所の入り口で作られた闇から、項垂れた月見がゆっくりと出てきた。
「月見!」
駆け寄り、月見の体を抱き寄せるこころ。月見の体には何の抵抗力も無かった。こころは助監督の木部(キベ)から、撮影現場で起こった「事故」についての顛末を聞いており、月見をここに連れてきてしまった罪悪感で胸が張り裂けそうになっていた。だから、月見の顔を間近で見るのは怖かった。
「ごめん、こころ。」
月見から発せられた第一声がどんなものであったとしても、こころの胸に突き刺さることは間違いなかったが、その中でも1番のものが来た、と思った。
「なんで月見が謝るの。私が誘ったりなんかしたからこんなことに!」
「ううん。楽しみにして来たんだよ、本物の勾坂さんに会えるんだって。実際会えたし。でも…あぁ、俺って、なんなんだろう。大事故引き起こして、トイレ逃げ込んで、撮影すっぽかして。そんで俺、トイレに引きこもったらさ、安心したんだよ。こんなに色んな人に迷惑かけてるのに、これで怒られる心配ないって安心したんだよ。それに、撮影終わるまでの間ずっと落ち込んでたわけじゃないし。1時間もしたら気持ち冷めてスマホとかいじりだしてたし。俺もうダメだ。どうしようもない! ほんっとうにどうしようもない! もうし…」
「死にたい」という言葉は言わせまいと、こころはさらに抱き締めることによって制した。声の調子から、月見の涙でぐしゃぐしゃになった顔は想像できた。こころは、その顔を想像して泣いた。
「お願い。自分を責めないであげてよ。私を恨んで良いから。でも、嫌いにならないで。」
月見はこころが何を言っているかわからなかったし、何を言えば良いかもわからなかったが、とにかく彼女を抱き締め返した。

 撮影は悠木刹那(ユウキセツナ)の見事な采配により、全ての素材を撮り終え19時に完全撤収した。「本日、撮影終了です!」というコールには、さすがに全スタッフからのため息と、またそれをかき消すほどの拍手で包まれた。主演の勾坂雅弥(サキサカマサヤ)はスタッフ達それぞれに労いの言葉を掛けながら、一足先に現場を後にする。
 その後、マネージャーも先に帰らせ1人でタクシーを拾って帰ることにした勾坂は、現場のあるオフィスビルから大通りへ出るために少し歩いていた。すると、内容までは聞き取れないが、何やら尋常ではなさそうな男女の話し声が聞こえてきた。勾坂は、観てはいけないものを我慢できるほど大人な性格では無かった。足音を立てないよう、ましてや自分の正体がバレないよう、細心の注意を払って声のする方へと近づいていく。そして、話し声の正体のうちの1人が、先ほど突然の失踪で話題になっていた瀬名月見だとわかった瞬間に、2人がちょうど抱き合うポーズになったので、驚きからわずかに少し後ろにのけぞると、公園の土がガサっと音を立てた。

 しばらくの沈黙があって、先に声を発したのは年長者の勾坂であった。
「違う違う違う!あの!たまたま通りかかっちゃっただけっていうか、いや、たまたまってことでもないんだけど、いやそうじゃなくて、あの、その、ごめんなさい!!」
「あ、いえ!こちらこそ、ごめんなさい」
勾坂とこころがご近所さん同士ような形になったところへ突然、こころの後ろから月見が、ほとんどヘッドスライディングのような形で勾坂の目の前の地面に突っ込んできた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 申し訳ありませんでした! 申し訳ありません…」
月見はそのまま地面に頭を擦り付けたり、勾坂の顔を見上げたりしながら、しきりに謝罪を繰り返した。勾坂はその様子をしばらく見ていたが、そのうち黙って月見の両脇を抱えると、力強く立ち上がらせた。
「彼女の前でみっともないことするんじゃないよ。月見君。ねぇねぇ。私の顔、見て」
俯いていた月見が顔を上げて前を見ると、憧れの勾坂雅弥の美しい顔が涙でぼやけていた。だが今の月見にとっては、これで丁度良かった。
「ねぇ。なんでコーヒー、拭こうとしたの?」
責めるでもなく、励ますでもなく、勾坂から出た言葉はその一言だった。
「え?」
「直前に見つけて、考えてやった演技?それとも…いや、あれは反射で取った動きだったなぁ。あの本番の前にさ、月見君、突然役に「成った」よね。何があった?」
「いえ、何も…あの、机に、コーヒーが、こぼれてて…いや何も、わからないです」
「そっか!」
勾坂は月見の両腕を2回叩いて喝を入れ、背中を向かせると、ポンと背中をこころの方に押した。
「君は役者に向いているね」
背中に勾坂からの思いがけない言葉を受け、月見は振り向くが、次の瞬間には身体の力が抜けて崩れ落ちる。こころは驚きで目を丸くしながらも、月見を支える。2人とも、それ以上何も言えず、ただ勾坂を見つめている。
「ごめんごめん! じゃ、おジャマしましたー!」
勾坂が足早に去って行った。
「え、何!?すごいじゃん月見!」
こころは続けて「役者に向いている」という言葉を月見に掛けようとしたが、土でドロドロになった姿の月見にこれ以上「役者」というワードを聞かせるのはあまりに酷だと思い、やめておいた。こころは月見の服や顔についた汚れを払ってから立たせ、汚れを払っていない方の手で月見の手を握った。
「月見。おつかれさま。」

第1話 了

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