見出し画像

年を数える

 年齢を聞かれて狼狽える、日付を問われて思考が停止する、いつ山へ住んだのか、あれは何年前のことなのか、さらに子供の生まれた年は何年か――。

 本来、覚えなくても良いことを、覚えていなければいけないのは、それは人の社会と合わせるためで、人の常識と合わせるために他ならない。2000年と言ったなら、それは2000年のことであり、2001年のことではないからだ。

 言葉もこれと同じであって、人に何かを伝えるためには、人に通じる言葉を持たねばならぬ、いや、そもそも言葉とはそういうものだ、目の前にある木を、「木」という言葉で切り取った、伝えるための手段である。切り取り方に様々あっても、それは多くの人の合意によって成り立っている。

 人に「言葉にならない」ことがあるのは、そのためだ。「私」という個人が感じた物事が、人に伝えるための、人に通じる言葉では言い表せないのは当然で、それは言葉にした瞬間、陳腐なものへと成り果てる。それを言い表すための新しい言葉は、一人きりでは生まれない、大勢の他人がいなければ、言葉は誕生しないのだ。

 それにしても、ときたま出会う、年齢や日付、生まれ年のクイズは、ほとほと私を困らせて、山へ帰り、息をついては、数えるという人間社会の習慣を、悪しきものだと恨むのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?