養成所時代の一年間。#4
前回のお話☟
なりゆきでアシィスと組んでしまった俺ではあるが、ライブで良い結果が出たのでまあええか。とは思っていた。
だがその頃から、養成所をやめた鯉沼がうちに通ってくるようになった。
養成所を辞めてからバイト先の人と一緒に少しネタ合わせをしたり、公園で漫才をしたりしたようだが結局上手くいかなかったようである。
そもそも鯉沼の能力はともかく、あの性格では誰とコンビを組んでも長続きしないことは明白であった。
鯉沼は俺に対し「お前も養成所辞めて俺と組め」と言ってきたが、まあ辞めるわけがない。
頑張って相方見つけろと流しつつ、互いにネタの話を聞いていた。
基本的に鯉沼が俺のネタを褒めることはないが、俺は結果が出ていたのでなんとも思わなかった。
SML(養成所ライブ)の日を迎えた。
全体を通して4度目で、後期の1度目のライブである。
後期からのSMLは水曜と土曜の2回あり、入れ替えが激しくなるのだ。
今回のネタは自信作であり、問題作でもあった。
講師の評価も賛否両論だった。
ベタ褒めしてくれる講師もいたが、それではTVに出られないぞと怒られることもあった。
だが俺が養成所時代書いたネタの中では一番好きなネタなのである。
少し怖さを抱えながらも、自信を持って出番を迎える。
忘れないように『明転飛び出し』とだけ手に書いておいたが、もはや必要ないだろう。
緊張しいなのも少しずつマシになってきたようだった。
ウケたからよかったものの、このネタですべっていたら地獄である。
今見るとやっぱり怖いネタやなあと思うが、その日のBライブでは1位であった。
待望のAライブに昇格した。
それ以降の『チナリ』は調子が良かった。
Aライブに残り、1ヶ月後の5回目のSMLの後にはワタナベ所属芸人と戦うライブの選抜メンバーにも選ばれた。
順風満帆なようにも思えるが、この頃俺とアシィスのコンビ仲は最悪であった。
そもそもの性格が合わないのだろう、互いに相手への不満が溜まっていた。
それに加えて元々2人とも組みたくて組んだわけではなかった。なりゆきで組んだら結果が出たから続けているだけなのだ。
いつものように家へ来た鯉沼が「お前、じゃない方芸人みたいになっていいのか?」と聞いてきた。
確かにそうだ。
当時の俺の目標はワタナベに所属することであった。『チナリ』でやっていれば所属できる可能性は充分あるだろう。
でも仮にワタナベに所属し、『チナリ』が売れたとして、じゃない方芸人になってそれで俺は満足なのか。
アシィスとハーフを使った漫才をして、俺が売れることってあるのか。いや、無い。
そこに関しては確信があった。
鯉沼のようにお笑い界の天下を取ってやる!という野心は全く無い。
だが、自分が好きなことをして楽しく生きたい。
それが俺のモットーなのだ。
とにかく所属したい、早くテレビに出たいという目の前の目先の考えに侵され、俺は本来やりたかったことが全く見えていなかったのだ。
アシィスと解散することを決めた。
しかしそれを決めたのは1月の終わり頃。
3月に養成所を卒業することを考えると、そこからの所属は絶望的。
あまりにも遅かった。
アシィスは当然ブチギレである。
いくら不仲とはいえ所属を目指してはいたのだ。
またもや俺は不義理なことをしてしまった。
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
家に帰ってしくしく泣いた。
鯉沼はというと、「じゃあ養成所やめて俺と組んでくれるってことだな」と意気揚々としていた。
折角ここまでやってきたから卒業はさせてくれと2ヶ月ほど待ってもらった。
俺はピンでネタをやるのは絶対に嫌だったので、卒業までの間は仲良し友達のピン芸人『私有地』にコンビを組んでもらった。
彼は永遠のCライブで所属の可能性はほとんど0に等しかったので容易に組むことができた。
一年間ずっと変な例えツッコミのネタをしていて、なんかおもろいなあと思っていたが、それも実はパクリだったらしい。
ここまできたらむしろ一年間パクリでやり通す根性の方を褒めるべきだろう。
彼は今、東京ガスで働いている。
そして俺は卒業後、鯉沼とコンビを組んだ。
鯉沼のせいで色んなものを失ったが、結局はコイツと組む事になった。そんなこともあるのだ。
養成所の一年間はもっと楽しかったはずだが、いざ思い返すと嫌なことばかり思い出す。
ほとんどが自分のコンビ遍歴の話になってしまった。
仲が良い同期の話や変な授業の話など、書きたいことは沢山ある。
また気が向いたら書こう。
小学生の頃や高校生の頃に戻りたいなぁとたまに思う事は誰しもあるだろう。
そこに、養成所の頃に戻りたいなぁと思うパターンがいつのまにか追加されていた。
そのくらい、しんどいけど楽しかった。
また同期と遊びに行きたいなあ。
おしまい。
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