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女性が書く、女性の評伝『女帝 小池百合子』を女性と語りあいたい

女帝 小池百合子』(石井妙子著)を読んだ。女性同士で語りあいたくなった。誰か女性の論者が評したものを読みたい。フェミニズムの雑誌「エトセトラ」で取り上げてくれないだろうか。

冒頭、生い立ちの章はなんだか痛々しかった。だが、カイロ時代、そして政治家時代と読み進めるうちに、だんだん、冷え冷えとした気持ちになってくる。

とりわけ震災被災者、アスベスト被害、拉致被害者の家族という当事者への心ない態度は胸が痛んだ。政治家や官僚が、当事者に心を寄せた政策対応をしないのは常だとしても、マニキュアを塗りながら聞き流すというのだから。

利用できるとみた人には取り入り、気に障ればとことん復讐する。政治家としての変遷は、機を見るに敏とか勝負強いというより、単に人との関係性を利用できるかできないかでしか見ていないからだと思えた。背負うものがないのだ。

世の中の多くの人は、過去の出来事や、これまで関わった人との関係性を自分を培う一部だと思う。ゆえに、政治に限らず「しがらみのなさ」を打ち出せるのは、若くてまだ関係性の蓄積のない人、あるいは他分野から参入して来た人になる。

ところが小池氏のいう「しがらみのなさ」は、過去の関係性を切り捨ててるからこそのものだとわかった。今の時点で有用か否かで、過去を自在に編集するのだ。

ジェンダーフリーに語れるのか

ツイッターで男性のこんな感想を見つけた。

もし小池氏が男性ならば、権力の座を目指すさまが、もうちょっと好意的に書かれたのではないかと思う。そもそもタイトルも、『女帝』じゃなくて、ジェンダーフリーで『帝』でいいじゃんと思うのだけど。

読む前はもっともに思えた。女であることをことさらに強調して批判しているのならフェアではない。だが、読み終わると、この「権力の座を目指すさま」は男性であったら好意的に捉えられるものなのか?と評価自体を訝しみつつ、やっぱり、女という要素を抜きにしては語れないと思った。

確かに、政治家としての目的がなく、人々にどう訴えるかがキモという点は、ジェンダーに依らない。橋下徹氏はじめ維新などに通じる。でも、男では有効でない行為をあざいといまで徹底して権力者にとりいったことや、政治の世界では数少ない女性であることを強調したこと、自分の物語を武器にしたことを思うと、女性の社会進出、政治進出の過程の徒花そのものに思えてくる。

そして、女性の社会進出において起きた問題であるセクシャル・ハラスメントとも表裏一体ではないか。

セクハラの背景には、女性が目上の男性にセクハラ行為をされてもきっぱりNOと言いにくいことがあるという。(牟田和恵著『部長、その恋愛はセクハラです!』『ここからがセクハラ!アウトがわからない男、もう我慢しない女』)仕事上、不利益を被ることを恐れ、そして、女性は幼少期から相手に好まれる態度をとるよう教育されて、それが身体化しているためだ。それゆえ、拒否して相手に不快な思いをさせるのではなく、なんとか穏便に切り抜けようとし、それを男性は自分に好意があると勘違いしてセクハラをエスカレートさせていく。

相手の期待に沿うことが身体化されている

小池氏のあり方はセクハラ被害をうける女性とは真逆だ。だが、表裏ではないかと思い至ったのは、最後の方で、カイロでの同居女性、早川さん(仮名)の言葉のところに来た時だった。

「もしかしたら、百合子さんには、嘘をついているという感覚も、なかったのか。相手が期待することを言ってあげた、相手の喜ぶことを言ってあげた。それでどうして、私が責められなきゃいけないの? そう思っているのかもしれない。(中略)マスコミの責任も重いです。百合子さんにどんどん嘘をつかせた。百合子さんは応え続けた。どうして誰も止めてあげなかったのか」(401ページ)

小池氏の政治家としての数々の「嘘」も、その場その場でメディア的に喜ばれそうなことを言うことが身についているがゆえ発せられたものだと考えると、矛盾を追及されてもまったく悪びれないこともうなずける。言葉の重みや責任といったことは認識にないのだ。

それもまた、ジェンダーに依らず、維新にも通じる「ウケる政治家」の型なのかもしれない。政治家に限らず、上の人に引き立てられることで活躍の場が得られる、といえば会社の出世で男性もそう振舞っているのかもしれない。

でも、本書のひとつひとつのエピソードは、ジェンダーフリーに語ることをためらわせる。それに加えて、時に女性という〝被害者ポジション〟を利用している。自分の来歴を物語として語ることが有効であった。メディアにとって「見出しの立つ」ものだった。男性であれば、このような被害者ポジションには立てない。それに、ここまで自分の物語が有効だっただろうか。物語がメディアに消費されるだろうか。

小池氏は、自分の過去を編集し続けてきた。その場の振る舞いを演出し続けてきた。確かにメディアに適合している。過去・現在・未来の一貫性を無視して、その場に映える物語を絵と一緒に提供し続けてきた。タイトルの2文字を置き換えるなら、虚飾だ。

自分の物語を語ることは大事だと思う。人からの評価ではなく、自分自身のものとして。過去の捉え方が振り返る時によって変わる。事実ではなく、自分のなかの記憶が自分の物語になることもある。

それでも、自分の物語を語るってこういうことでいいんだろうか、彼女自身にとって。目的に合っているからいいのだ、余計なお世話だと冷笑されるだろうか。

ラインを消し続けている

まるで対照的な世界を思い浮かべる。

文化人類学者である磯野真穂さんの著書『ダイエット幻想』で「タグ付けする関係」との対比で示される「踏み跡を刻む関係」だ。この本は、ダイエットを切り口にしながら、他者との関係性について、生きることについて語る。終章の「世界を抜けてラインを描け!」が力強い。他者のニーズを気にするあまり、他者の声に溺れる。その時「自分らしく」あろうとすれば、それもまた他者との違いを無限に求め、他者からの承認から背を向ける辛さに陥る。そこで示されるあり方が、これまでの自分、これからの自分をラインとして捉えて、そのラインは、自分だけが引くのではなく、他者との関わりのなかに描かれるものだというのだ。

ラインってどういうものかを知るには、磯野さんと哲学者・宮野真生子さんとの往復書簡『急に具合が悪くなる』を読むのがいい。そこにはラインが描かれている。

『女帝 小池百合子』に戻ると、彼女には自分で語る物語はあっても、誰かと刻むラインはない。

何よりも気になるのは、子ども時代から一貫して、彼女の周辺から「親友」といえる存在が見えてこないことである。(34ページ)

ある物書きの人がこの書きぶりを「しんどい」と評していた。確かに、もし私の生い立ちを誰かが調べたとしても、親友を見出さないだろうと思うと、ことさら評する必要があったのか疑問ではある。

次の記述にしても、誰か他人に自分を丸ごとさらけ出している人などいるのだろうか、と思ったりする。

そう考えてみると、小池には秘密主義なところがあった。(中略)決して、すべてを人にさらけ出さないのだ。自分の一部しか見せない。しかも、それぞれに見せる一部は異なっている。だから人によって小池の印象は大きく異なる。皆、小池の一面しか知り得ないからだ。(91ページ)

そういう評価ではなく、エピソードの1つ1つ、本書全体が、孤独を感じさせる。最初は芯が空洞なのだと思った。そうではないのかもしれない。人に芯があるかどうかなんて窺い知れない。でも、これまで誰かと刻んだラインを消し続け、常に白紙に、世の中に見せる絵を描こうとしていることは確かだ。

人は隠したい過去を隠したっていい。ラインを描くのにも、すべてをさらけ出す必要はないと思う。でも、誰かと一緒に歩んだラインを書き換えたら、その先、その誰かと一緒に歩くことはできない。それが次々と切り捨て、乗り換えてきた歩みかと思うと、寒々とした気持ちになる。だから早川さんには会わないのだが、早川さんの方が身の危険を感じてさえいる。

政治家としては、もちろん批判すべき人物だ。でも、読後に残るのは、ひとりの人間として見てしまうからだろうか、痛々しい、虚しいという思いだった。

溶けない翼

「あいつは、はったりで、それでもひとりで生き抜いてきたんだ。褒め上げる気はないが、貶める気にもなれない。あれは虚言癖というより、自己防衛だよ」(402ページ)

「小池を知る人」のこの言葉と、以下のたとえがとても腑に落ちた。

「あいつが手にしたのはイカロスの翼だ。こんなに飛べるとはあいつだって思っていなかったろう」(402ページ)

たびたび起こる学歴詐称の追及も、イカロスの翼の蝋を溶かすには至っていない。政治家として東京都知事にまで上り詰めれば、蝋は固めた方が都合がいい向きもある。

でも、これ以上飛んでくれるな、徒花で終わってくれないかと切に願う。小池自身のことを思う早川さんの思いにうたれたところもあるが、本人に対する思いというより、これまでの、今の、これからの女性たちのために。

築地市場の女将さんが、こう悔いる。

「女性だからと信じてしまった」(384ページ)

男性が、相手が男性だというだけで信じることはない。自分のカテゴリーを意識せずに済むのがマジョリティーだ。女性だから、という女性の思いを逆手にとったようなふるまいの末に、女性の社会進出の象徴になるのなら、あまりにもやるせない。

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