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鳥取で「評価」について考える

どうも〜鳥取Web界で引く手数多のkuroro0319こと小島です。(嘘です。)

今日はこの前、教育関係者の方達とお話をすることがあったので、その時に考えたことなどをとりとめもなく書いていこうと思います。

タイトルにもあるのですが、「評価」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか?
僕は「試験」を思い浮かべます。あとは「査定」でしょうか…「点数」とかもありますね。「口コミ」「評判」とかも「評価」の一種と言えないこともないですね。「価格」「価値」とかもそれに当たると思います。

僕だけかもしれないですが、あまりいい印象はありません。

物事・性質・能力などの良し悪しや美醜などを調べて価値を定めること。

Wikipediaによると上の意味が一般的なようです。

僕の勝手な解釈ですが、「他人が決めた価値にいかに合わせるか」ということに向かいやすいものだと思っています。そのような性質が大きくて、実際に学校や会社などではそのように扱われることが多く感じます。ただ、そもそもは「評価」という概念自体に、いい悪いはないと思います。

っていうのを踏まえると、「評価」をしないということがいいのではないかという考えが出て来ます。それはすごくいいことだと思います。実際そのような方向に社会が向かっている感じもしています。
しかし、評価はわかりやすい指針として必要だろうなと感じます。価値を可視化するという意味では本当に素晴らしいものだと思います。給料査定であったり、学力判定であったりというのもある程度は必要な部分があります。
だとすると、「何故いい印象を持てないのか」ということなんですよ。

価値観やモノの感じ方は人それぞれ違う上に変わり続けるのに、それらを同じように扱うことに対する違和感なのかなぁと…
そう考えると「評価基準」を常に見直し続けられるような仕組みというのが必要なのだろうなと思います。
あとは、人の決めた基準ではなく「自分の決めた基準」を持っておくことも大事なのかなと思います。

そこらへんはある程度理解は進んで来てるとは思うのですが、なかなか教育現場の話などを聞いていると難しいみたいです。先生の価値観や集団の価値観にみんな合わせないといけない風潮は未だに多いみたいです。
「やれやれだぜ…」って感じですが、みんなもっと交わったらいいんだよ!人類皆兄弟!

生きている限り自分以外の人と関わらざるを得ないし、関わらずにはいられないのですが、そこの基準を他人に任せない部分があってもいいのかなぁと思う今日この頃です。

鳥取に来て、すごいスピードで色んな人と関わって色々と影響を受けまくってるわけですが、そういうとりとめのないことを考える内に自分というものを基準として生きていこうと改めて思った次第です。

難しいですが、「人の評価を気にせずに自分のやりたいことをやろうよ!」って感じです。

なんか抽象的で哲学的な感じになってしまったなぁ。
よくわからないと思いますが、僕もよくわかっていません。
こういう日があってもいいか…

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