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「小説」セントラルパークランナーズ(27歳・X性)#3

あれから季節が一周した。(あれからが気になる方はこちらから。↓)

つまり、1年経ったということ。その1年間に僕は、結構な数のランニングレースに参加した。素良の予言が当たったというわけだ。走る毎、僕の中で新たな感覚が芽生えたり、それを客観視する自分もいて、自己分析するのに1年かかったとも言える。


一番大きかった変化は、自分の中の闘争心を認めたこと。
抜かされると、クッソー、抜き返してやるという気持ちが湧いたり、前を走るランナーを抜かしてやりたいという本能に近い感覚が湧き起こり、それが起爆剤となり、自分一人で走っている時には出せない走りのレベルにまで自分の能力を高められると知った。
なるほど、これが、一馬さんが言う、”競争でお互いが成長する”っていう意味か、と実感できた。

確かに、それは悪くない。

だけど、そのうち、違う方向へも進んでいくのを感じた。

僕は、ノンバイナリーカテゴリーで出走すると、常にトップ3の常連になった。男性で出走しても、年代別でほぼトップ3以内で入賞した。そうなると、周りからも存在を覚えられ、声も掛けられ、ラン友もそれなりに出来た。走る話をするのは楽しい。でも、そのうち、自分の中で、その数字の順位やタイムが、自分のアイデンティティだと思い始める感覚が芽生え始め、4位になると”脱落”したような気持ちになったり、前回よりも遅いタイムだと苛立ちを覚える自分に愕然とした。

良く良く考えてみれば、245位だったランナーが次に走った時、246位だったとして、そんな気持ちになるだろうか?3位から4位も、245位から246位も同じ数字が1つ移動しただけなのに。

タイムだって、30分でゴールした人が50分でゴールした人より”上”だとは限らないはずだ。年齢や持って生まれた肉体の差があるし、それより、タイムだけが”指標”ってのも変なものだ。”誰が一番一生懸命走ったか?”なら、きっとブラインドランナーなどの障害のあるランナーに勝てる一般ランナーはほとんどいないだろう。
”誰が一番レースを楽しんだか?”って言う指標で判断したら、きっと、「私よ!」「僕だね。」って会話で盛り上がれそうだ。

しかし、現実には、僕もそのタイムと順位に拘りを持っていく気持ちを止められず、その拘りが故に、さらに自分の肉体を鍛え、より高みを目指そうとする向上心にも繋がったのは認める。

だけど、1年やってみて、”もういいかな。”と言うのが、本音だ。

理由は、そんな自分はやっぱり、僕じゃないからだ。
僕と言うアイデンティティは、常に自由でありたいと欲するのだ。
誰かが決めた指標で自分を決められたくない。周りから認められるために自分は生きているわけではない。

「素良、僕、レースはもういいかな。もちろん、走り続けるけどね。」

猫じゃらしで、3週間前にアダプトした8歳の雌猫ひばり(猫に鳥の名前をつけるセンスはどうかと思うが、本人曰く、顔が美空ひばりに似ているからと譲らなかった。)を一心不乱にじゃらしている素良に向かって伝えた。

「別に宣言しなくても。また、出たくなったら出ればいいじゃん。どれもこれも全部、無数なんだから、それでいいじゃん。最初に言ったでしょ?無数は変わらないって。」

じゃらす手を休めることなく、苦笑しながら答える素良に、僕はなぜかほっとした。

そうだ、僕はゆっくり人生を歩むのは嫌いじゃない。



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