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必要な時にある出会い:2冊の本のご紹介

本が、今、自分に必要だった答えのようなものを与えてくれることがある。

今、感じているモヤモヤとした何かが心に燻いていた時など、”ああ、そうか、そうなんだ。”と思わせてくれる一文があったりする。

そんな時に思うのだ。

本とも出会いだな、と。

最近、2冊の出会いがあった。

多くの出会いがあったとしても、その多くは、読んでいるときは、ワクワク、ハラハラ、ドキドキしたりするが、さっと私の心を通り過ぎる。
だけど、偶に、じっくり一文、一文を噛みしめるように、なぞるように、読ませてくれる本がある。
心に感じ、その後、脳に浸透すると言った作業を与えてくれるのだ。
そして、脳の中で、何度も何度も噛み締め、想像し、最後にもう一度、心に戻るという循環があり、そんな時、なんとも言えない至福を感じる。

ああ、良い本に出会った。今、私に必要な本だった、というように。

それは、まるで救いである。

この半年、友人達の不幸が相次いだ。
その不幸は、友人達自身を取り巻く環境、つまり、家族や私を含めた友人達にも多かれ、少なかれ影響する。

その感情は、いっときたりとも止まることがなく、アップダウンしたりするので、口に出す側から、変化していく。だから、時として、私は敢えて、声にするのを我慢する。それを言われた方が翻弄されないように。そして、言った自分自身が、翻弄されないように。

だけど、それは私の心の中で燻り続ける。

だから、本を読むのだ。本と対話するのだ。

ひとつ目の本は、川上弘美の「どこから行っても遠い街」。
小さな町が舞台で、その町に関わりのある人々の生活や人生が、一つづつの短編小説として描かれ、しかし、その一つづつが薄く重なり合い、結果、中編小説になっている本。
実際、世界とは、社会とはそういうのもなのではないだろうか?
自分は自分の人生の主人公だけど、時として、他人の人生の脇役や通りすがりの人物として存在しており、ほとんどは薄く、時には決定的な人物として、影響し合う。自分の中の悲しみも苦しみも、実は、自分だけのものではなく、薄く繋がる人の中にも影響していたりする。


ふたつ目の本は、朝井リョウの「性欲」。
初めて読む作者で、名前から性別が判断できないまま読み始めたが、”ああ、この作者は敢えて、そんな名前をペンネームに選んだのだろう。”と感じた。
作家の中にあるきっと昔からある”当たり前”と世間が言うことに対する疑問が、ぎっしりと詰まっている。その疑問は、私も子供の頃からずっと感じていた疑問であり、その疑問から解放されたくて、ニューヨークくんだりまで、たどり着いたようにも思える。
自分だけが、間違った星に住んでいるような感覚。
それを、若い頃にありがちは、”自意識過剰”と捉える人もいるだろう。
だが、多くのマジョリティ側と明らかに違う特性を持って生まれた人間は、中々、そう思えず、悩み、苦しむのだ。
私は、”植物恐怖症”という、ほぼ誰とも感覚が共有できない特性を持っている。「花は綺麗」という感覚は皆無だ。渡されて、嬉しい感情はゼロどころか、恐怖でしかない。そして、私に喜んでもらいたいと渡した方の気持ちを想像すると、痛みすら走る。申し訳なさや罪悪感でいっぱいになることもある。そして、その特性が故、日常生活おいて、人生において、非常に生きづらさもある。遠足で行く植物園や花見、りんご狩、いちご狩など、ほぼ、出来ない。職業の選択においても、制約がある。花屋以外でも、花を扱う場所は至る所に存在するから。

だからなのだろう、私が、物事を深く、多面的に見ようのは。
だからなのだろう、少数派に対して、寄り添う心が持てるのは。

そして、世間や社会の物差しだけで、測れないものがたくさんあると、思えるのは。

そんなことを思わせてくれた本であった。





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