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生きたらいいじゃないか、そう想える日はくるだろうか。

ああ、暑いな。本読も。
と思い立とうとしてふと思う。
本読んで、なんになるかな。
なんもならんな。
ああ、嫌なクセ。
何になるかいちいち考えるクセ。

どうしてそんなことをいちいち思うのか考えてみました。

根本的に私は自分のことを役立たずだと思っているようです。

だからこそ、ぼーっと生きてんじゃねぇよ!と常々私は自分に言ってはケツを叩いてきたようなもの。

せっかく生きているのになにをもったいないことして生きてやがるんだ!と一人で怒っている。

せめて、どこかの、だれかの、何かの役に立たにゃいかんだろうと、私は常々私を責めている。

そうして判明したことはこの世で一番私を責めているものは私であるということだ。

散々なじり、詰め寄り、ケツを叩き、役立たずめと罵ってきたのは他でもない私だということ。

あらま、救われるはずなんてない。
一番身近な私が私をこんなに嬲っていて救われようなどないではないか。

救いはないのではない。
お前にはいらない、と戸を閉めたのが私であるということが救いがなかったのだ。
救われようなどと何を言っているのかと、私は小部屋に閉じ込めた私に言い放ち、この役立たずめが、と罵ったのだ。

なんの役にもたっていないお前が何を望もうというのかと。せめてなにかやだれかの役に立ってから言えと戸を閉める間際そう言って閉めたのだ。
戸を閉められた私はそれはそうだと思い、役立たずな自分がなにを浮足立ったのかとまた自分を懲らしめた。

何かを望んでいいのは役に立てるような素晴らしい人間でなければならないと思っている。
世の中の人に後ろ指さされることも罵詈雑言浴びせられることもないようになってからでないと、それはいけないことなんだと思ってきたんだろう。

自分を認めるとか受け入れるとか一生懸命してきたつもりで、結局出来なかった。
何て価値のない人間なんだろうと今でも思っている。

価値のある人間かどうか考えることすら烏滸がましいと言われたらそれまでだが、無価値な私はこの世で何のためにいるのかをいつも考えている。
今もこうして生きているのは生きたいと思っているからにほかならない。が、意味や価値を自分の存在して良い理由だと思いこむ自分にはそんなものがなくとも生きていても良いと言われても戸惑う。

何かを食べるときも買うときも、今日自分がなにを成したかを考えてしまう。
生きていても、いいのかな。
それすらも愚問で烏滸がましい、かもしれない。
意味があってもなくても生かされているうちは、生きたらいいじゃないか。
そんなふうに思える日は来るかな。

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