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違和感がないという違和感

 僕はチェコの街に来てしばらくしてから日常生活の中で違和感を全くと言って良いほど感じなくなった。友人などにこの話をすると決まって生活に慣れてきたんだね、良いことじゃないか。と言われる。しかし、僕は何かが違う気がする。初めの頃は食文化の違いや、洗濯などの習慣の違いに驚かされ、毎日が新鮮だった。でもそれだけだった。初めは人口も面積も収入も物価も全く違うのだから、いわゆるホームレスと呼ばれる人々や危険な地域、チェコならではの独特な雰囲気を感じることができると思っていた。しかしそこにあったのは綺麗に整った街、日本でも食べたことがあるような食べ物、街に流れる聞き覚えのある洋楽だった。当然と言えば当然なのかもしれない。なにせ日本からの荷物が1週間足らずで全ての手続きを済ませて、ドがつくほどの田舎である僕の留学先の家にたどり着く時代なのだから。

 グローバル化の波は暮らしを豊かにしたと言う。チェコは生活水準が一気に向上し、治安も安定。大学の進学率も今の親世代に比べてはるかに進歩し、日本よりも高水準にある。それなら良いじゃないかと思う人もいるかもしれない。しかし僕は生活水準が良くなり、目に見える格差や貧しさがなくなった中に、見えなくなってしまった何かがあるのではないだろうか。

 例えば、僕はバスケットのクラブチームに通っているのだが、自己紹介でどこに住んでいるのか聞かれて答えたとき、あのジプシーの街?あそこ危険じゃない?良くそこを選んだね。と言われた。それも30代の立派な大人に。僕の街には確かにジプシーと呼ばれる人たちが多くいる。しかし彼らからはなんの危険性も感じない。普通の生活を送っている。

 他にも問題の片鱗を見ることはある。僕の通う学校はいわゆる大学進学を目指す進学校だ。そしてそのクラスの大半の人の親は大学出身者である。

 目を凝らしてみるとこうした違和感を感じ取ることはできる。でもそれは極微小なもので、意識しないとすぐに忘れてしまう。これはチェコだけに起こる現象ではないと思う。日本でも日常生活の中にたくさんの微小な違和感が存在しているはずだ。もちろんグローバル化の波と豊かな生活の影にひっそりと潜んでいて、気づくことは容易ではない。しかし、見えない部分にこそ、その国が抱える本当の問題が潜んでいるのだと、そう思う。そしてそれを意識的に見つけて、微小な違和感を問題意識にまで引き上げることができて初めてより良い社会の構築へと繋がるのだろう。

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