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リングランドのパステル工房

 第1話 ニコ

 月の光を浴びて影は静かにその姿を消す……

 これはまだ星が地上に降っていた頃の話。



 敷き詰められたアーチ模様が連なる石畳の大通り。 荷馬車が何度も往来した事を物語る轍。

 人を乗せゆったりと闊歩する馬は、柔らかな陽射しの中、石畳に蹄鉄の音色を小気味良く刻む。

 通りの両脇には、緑映える銀杏が等間隔に植樹され、すっきりとした並木道の景観を作り出している。

 真っ直ぐに歩くのが困難なほど溢れかえる路地裏は、空を赤や黄といった情熱的な色の大きな布で覆われていた。その下では編み篭一杯に入れられた果実や野菜が売られている。

 活況に沸く路地からまた更に足を踏み入れた先の一角に、静かに佇む木造の建物がある。

 ひっそりと佇むその建物の外観は、漿の抜けきった渇いた木板で白くなっていて、それを侵食するように蔦の葉が壁一面を覆い尽くしていた。

 どの店にも大抵、人の目を惹く装飾の看板が架かっているか、一目見てなんの店だかが分かるようになっているが、その店には入り口の上に申し訳なさそうにPastelsと書かれた木製の看板がぶら下がっているだけだった。

 入り口の木扉の上部には、紋章とよく似たデザインで丸い月と星、それから上下が逆さまの木が描かれている。

 店に一歩足を踏み入れると、こじんまりとしたカウンターと、壁に備え付けられた大きな棚が目に飛び込んでくる。

 棚の脇には、注文の書き込まれた小さな黒板があり、その隅には白のパステルで『労働と--に感謝』とある。かなり前から書き込まれたようで一部は手で擦ったように消されてあった。

 カウンターのすぐ真後ろにある灰色の木戸の上には『工房・立入禁止』と墨で書きなぐった汚い文字がある。

 部屋の奥では、四方から射し込む柔らかな光の中、一人の青年が背を丸め、作業机に向かっていた。

 ニコ。青年の名だ。

 小柄な彼は、青年と言うよりは少年といった方が似合いそうだ。この地方には少数の黒髪に銀とも灰ともとれる綺麗で澄んだ瞳の持ち主。

 目立つ寝癖を隠すように、いつも身に付けている深い緑色のチェック柄のキャスケット帽は前後逆に被られ、所々様々な色の顔料で汚れてはいるが本人は気にかける様子もない。

 黒い前掛けも、まるで子供の落書きのようにデタラメな色彩で汚れていたが、ニコはそれを気に入っているのか常に同じものを使い込んでいた。

 工房内の天井には、北から南にかけて大きな明かりとりの天窓があるが、ずさんな手入れのためか、やはりここも蔦に覆われていた。

 そのために葉を透る光が部屋を淡く柔らかい緑で包み込んでいる。どうやらニコは、その自然が作り出す湖の底のような光の空間が好きでわざと葉を刈り取らなかったのかもしれない。

 一方、パステル作成の時は自然光を三方の壁にある細長い木窓から十分に採り入れ、パステルの配色調合に狂いがないよう心掛けていた。

 その日のニコは、使い込まれた分厚い鉄板の作業台の前に椅子を置き、浅く腰をおろして加減しながら濃い藍色の鉱石を小ぶりのハンマーで砕いていた。

 人の頭ほどの鉱石を拳程度まで崩し、次はその半分にといった具合に細かくしていったあと石の臼にそれらを数個雑に投げ入れる。

 壁に立て掛けてある大きなハンマーの柄を両手でしっかりと持つと、目一杯振り上げ臼の中にある砕かれた鉱石目がけて勢いよく降り下ろした。

 粉々にくだけ散った鉱石はときたま光を反射して自ら発光したような光を出す。

 ニコは少量の砕けた粉末を手に取ると、光にかざしその色の具合を指で擦り合わせ確認した。

 しばらくの間その粉末を観察したあと、粉末の出来に納得がいかなかったのかニコは眉間にシワを寄せ首を捻る。

 そして壁にかけてあるサンプルの台紙と照らし合わせ見比べぼやいた。

「うーん。なんか違うなあ、やっぱり合成顔料を一度使ってみようかな」

 そう呟やいた後、机の上のボロで手をさっと拭くと、前掛けを椅子の背もたれに雑に掛け翻り、工房の奥にある自室へと繋がる螺旋階段を駆け上がった。

 自室で着替えを手早く済ませると、革の小さなバックを肩に掛け、戸締まりも確認せずにそのまま工房の裏口から駆けて出かけてしまった。

 人の影が一番小さくなるなる時間。陽は丁度、真上に登っていた。

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