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協同的に学ぶことについて

前回触れた「学びの責任は誰にあるのか」で、けっこう印象に残っているフレーズがある。

子どもたちを、班やグループにしたからといって、自動的によく学べるというわけではありません。協力して学ぶことは、あくまでも個人が深く学ぶための手段的側面の方が大きいことも再確認しておきたいです。

「学びの責任」は誰にあるのか

「個別」か?「協働」か?で揺れていた自分にとっては、ここまではっきりと書かれているととても落ち着くことができた。しかも「再」確認だという。うん、やっぱり「個」に戻さなければならない。

そうはいっても、個人で学ぶのなら学校に来なくていいわけで、現にそういう学び方をしている人もいる。が、自分は教員という立場から、学校で学ぶことを価値づけていかなければならない。そこで「協同学習入門」を読んでみた。

まず、協同学習においてめざす学力が示された。

  • 学びの構え

  • 知的習得

  • 対人技能

  • 民主的な態度

これらはまとめて「人として大切なこと」とされる。そのうえで、「協同学習=グループ学習ではない」と筆者は言う。では、協同とは何なのか?

学級のメンバー全員のさらなる成長を追究することが大事だと全員が子心から思って学習すること。

クラスの仲間全員が、自分の味方という環境で学ぶこと。

いま、「心理的安全性」というワードが学校教育の現場にも持ち込まれているけれど、それに近い感覚を覚えた。どちらかというと、学級経営に通じる考え方だ。と思っていたら、次のようなフレーズがあった。

学級の規律は、「共に育つ」という基本原理に基づく。

菊池省三先生の価値語「束になってのびる」という言葉も思い出した。集団のもつ教育力を高めていく、日本の教育のよさを凝縮したような考え方で、自分としても受け入れやすい。筆者が競争と協同を比較して、協同の方が効果的な理由を3点あげているが、3点目が最も腑に落ちた。すなわち、協同は、集団における個人の2つの責任を育てる。ひとつは、仲間を高めるための援助を尽くす責任。もうひとつは、仲間の援助に誠実に答える責任。個人と集団の関係をとらえるうえで、「集団における個人の責任」という視点は有用だと思う。

これにあわせて、自分としてはずっと気になっていた「一斉授業のコミュニケーションの不自然さ」についても分かりやすく指摘されていた。グループやペアでは、子ども同士が直接コミュニケーションするが、一斉授業で発言しても、「教師」が介入することで不自然になる、ということである。

だから、「協同学習」をめざす一斉授業の場合、子どもたちへの投げかけも変わってくる。発問や課題に対して多くの場合「わかった人」と挙手を求める。だが、ここでは「みんなに向かって発表してね。意見のできた人?」と微妙に変わっている。この微妙な違いが、協同をめざしているかどうかの差なのだと思う。しつこいくらいに、仲間に向かって自分の意見を届けるように指導する必要があるのだ。なぜなら、それが「学び」につながるから。
長くなってしまったので、孫引きになってしまうが、ピアジェの一説が引用でいったん終えたい。

「能動的」といわれる方法は、・・・集団的環境の介入を必然的に前提とするのである。じっさい諸個人の自由な協力がなければ、・・・真の知的活動が成り立つことはできない

J.ピアジェ『ワロン・ピアジェ教育論』明治図書 1961年

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