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彼女の春巻き(8)

この小説は、過去にTwitterで上げた140字短編小説を書き直したものです。

彼女の春巻き(8)

「頼む! この通り!!」

そう言って同僚の岡田は僕にエナジードリンクを差し出した。聞くと明日提出する見積もりがまだ出来ていないらしい。

「ーーったく、分かったよ。その代わり絶対契約取って来いよ?」

いつもなら「期日ぐらい確認しとけよ、こっちだって暇じゃないんだぞ」と嫌味の一つでも言ってやる所だが、今日は不思議とそんな気にはならなかった。

「助かる! お前が手伝ってくれるなら、もう7割は受注出来た様なものさ!」
「7割って……また、微妙な数字だな」
「何言ってる、野球なら3割越えれば一流打者って言うだろ? はい、これ資料」

ーー誕生日、当日。

同僚の仕事を気分良く手伝えたのは、一つ歳を重ね大人になったからじゃない。
何故なら僕はもう充分過ぎる程に大人だからな。ーーとすれば、恐らくこれは晩御飯に食べられる「春巻き」のおかげなんだろう。
どうやら僕は、僕が思う以上に「春巻き」が恋しかったらしい。

(妻の春巻きを食べるのは何年振りだろう?)

市販の「春巻き」はフニャっとして具は少ないし、油ぎっていて直ぐ胃が重くなるが、妻の「春巻き」は違う。
あのパリっとした食感と中から溢れ出すジューシーな餡を思い出し、僕は昼飯後にも関わらず生唾を飲み込んだ。

(晩ご飯が楽しみだなんて、まるで子供みたいだな)

大人に成りきったと思っていたけれど、僕の中にはまだ大人に成りきれていない自分も居るのかと少し驚いた。

「岡田、この資料少し古いかも。先月から値段上がってる筈、仕切り確認した方がいいよ」
「マジか!? 危ねぇ、このまま出したら部長に怒られるとこだった」

今日は残業する訳にはいかない。
僕は些細なミスも逃さぬ様、パソコンの画面に集中する。

(あっ、帰りにビール買ってかなきゃ)

キーボードを叩く指が踊る様に跳ねた。

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