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いつも何かを求めてる


公務員人生の始まり

1991年19歳の春、私は国家公務員になった。勤務地は都心。当時千葉市に住んでいた私は、実際に通勤するまで、都心に通うことに現実味を感じられずにいた。自分で決めたくせに遠すぎる。本当に通うの?と思っていた。

私の配属先は、データ入力を行う部署だった。全員女性で10代後半から20代前半までの100人くらい。みんな事務服を着ている。上司は学校の先生のような立ち位置に見えて、自分たちは女子校の生徒のように感じた。

一日中テンキーをうつカタカタ音が鳴り響く。入力後は別の人が同じデータを入力して検査する。入力数字と違う数字を打つと、ピッと音がなる。

この部署はいつも音楽が流れていた。歌詞はなくてスーパーの食料品売り場で流れているような音楽。ある日、スティービー・ワンダーのOverjoyedが流れたときがあって、頭の中が盛り上がった。

その部署は約4年いた。次の部署もほぼ女性だけだが年齢は様々。女子校を卒業して、今度こそ本当に就職した感じだ。もう音楽もかかっていない。

20代が数名しかいない部署のせいか、やけに注目を浴びて緊張した。自分からあまり話さないタイプなので、今どきの娘にしては珍しいとか、意外にニキビが多い、お尻が大きいなどはっきり言われたりもした。言った人も笑っていて悪気はない様子。すごい時代だったなあ。

この部署は5年経たないうちに解散となり、半分ずつに分けられた。私の配属先は何度も部署名が微妙に変わり、その度に異動したかのような感じになっていた。27歳の5月には結婚もした。

おたふく事件勃発

29歳の初夏、上司の勧めで1ヶ月ほどの研修を受講した。研修所は職場と同じ敷地内にあった。最後の2日間、私は欠席せざるを得なくなった。なんとおたふく風邪に感染したのだ。両ほっぺはパンパンに腫れて垂れ下がり長くて四角い顔になった。しかもかなりの激痛で泣きながら焼きそばを食べた。一体どこで感染したのやら。

同じ年の9月、夫とモロッコへ旅行に行った。10日間の旅の途中に、アメリカ同時多発テロ事件が発生した。朝、ホテルでみたニュースの映像から、言葉は分からなくても大変なことが起きたことは充分わかった。

突然のパニック襲来

同じ年の11月、今度は仕事中に突然の目眩とパニックにみまわれた。じっとしていられず早退した。電車に乗れず、ひたすら歩いた。途中で泣きながら神社に寄った。またひたすら歩いて、少し落ち着いて電車に乗って帰った。

その後4年くらい、雑誌に掲載されていた内科に通い、色んな種類の漢方薬と精神安定剤を飲みなから、日常生活をおくった。胃カメラもその内科で初めてやった。当時眠くなるような麻酔もしなかったから、涙、涎、鼻水は出っ放しのえずきまくりの地獄絵図。二度とやるまいと心に誓った。
当時の私が嫌いな3大用語、胃カメラ、VBA、再集計。

31歳のとき、夫とケアンズへ旅行に行ったときは、安定剤のワイパックスが効きすぎて、グラスボートの中であっという間に深い眠りに落ちてしまった。

この頃、猫を飼おうかという話になった。それまでは色んな種類のハムスターをずっと飼ってきた。でも当時住んでいたマンションは犬猫禁止だった。そこで、夫が管理人さんにお手紙を書いた。「猫のような生き物を飼いたいのですが…」

管理人さんは、犬を飼っていたこともあり、動物も大好きな方だった。本当はだめですと言わなければいけなかったはずだけど、「片目をつぶってウインクして……充分気をつけてお願いします」と言ってくれた。

その猫は、シンガプーラのロゼくんともたろうくん。今はお空にいます。

癒しのワイルドフラワーエッセンス

薬生活は約4年続いたが、その終止符をうったきっかけは、オーストラリアのワイルドフラワーエッセンスだ。夫がハンズで見つけて教えてくれた。おおっ!私が好きそうなものをよく分かっておる。

フラワーエッセンスを詳しく知りたくて4日間の講座も受講した。茶色の小さなガラスボトルにブランデーを注ぎ、自分に必要な数種類のエッセンスを数滴ずつ垂らして完成。毎日、数時間起きに舌下に垂らす。職場でも目薬をさすようにエッセンスを垂らしていた。これが私には効いた。

マクロビオティックの8年間

翌年34歳のとき、またまた夫がこんな情報があるよ。と教えてくれたのがマクロビオティックだ。これまた私が食いつきそうな情報をよく熟知している。これだ!これだね!これでもっと体調変わるよ。そう思った。そして9ヶ月間マクロビオティック料理教室に通った。わかっちゃいるけど、知らない人と共同で料理をするというシチュエーション。最後の最後までなじめなかったなあ。

そこから約8年、自宅での食事はマクロビオティックになった。夫も「夜は肉食べる気にならない」などと言っていた。私もスーパーでは最初の野菜コーナーを過ぎると、肉、魚、卵は素通りとなった。重症だった花粉症も劇的に軽減した。次第に元の食事に戻っていったのだが、色んなことを学んですごくためになった。

その頃は、「マーフィーの眠りながら成功する」というCDを流しながら寝たりしていた。現実は特に変化なし。そりゃそうだろうよ。
聴いてるだけで何も行動しなかったし。心の奥底では、そうは言ってもね。と思っていただろうし。

同年、部署名が微妙に変わり続ける部署から本当の意味で、久々の異動があった。37歳のとき、仕事で初めて自分が中心となって任務を遂行する状況になった。世間一般には遅いな。幸いとても協力的でいい人が集まり、何とか乗り切った。上司への報告回数がやけに多くて、一体何回やるんじゃいと思ったし、すごいプレッシャーも感じたけど、本当にいい経験だったと今でも思う。

同じ年の7月、義父が68歳で亡くなった。入院してわずか2週間だった。すごくさびしくなった。一級建築士だったから、別の世界から緊急でお呼びがかかって、慌てて行かざるを得なくなったに違いないと今でも思っている。

ハードな歯科矯正

この頃も、時々目眩があって完全に元気いっぱいでーすとは言えなかった。ある休日、大型書店に行った。そこで目に入ったのが、歯科医が書いた噛み合わせの本だった。噛み合わせを治すと不調が改善する。矯正前に手術で歯茎を柔らかくすることで矯正期間が短くなる。歯は抜かない。と書いてある。これだ!これだよ!ついにみつけたかもしれないと思った。

その歯科はちょっと遠いけど、通えない場所でもなかったのですぐ予約した。結局残っていた親知らずは抜くことになった。麻酔は効いてたはずだけど、ピンポイントでつんざくような耐え難い激痛。またまた泣きながら痛いですぅ。と訴える。何故こんなに痛いんじゃ。

歯茎の手術はきつかった。最初は麻酔で寝ていたけど、上歯だか下歯だかの処置が終わった後、目が覚めてしまったからだ。残り半分、おそらく2時間半くらいずっと起きていた。その間、麻酔による妄想で細ーい筒の中に吸い込まれそうになったりして、思考がわけの分からない状態になった。この手術で歯茎にボルトが埋められたが、矯正終了後には外す手術が待っている。

テンションがた落ちの休職

38歳の2月、ようやく矯正装置を装着した。
4月、私は畑違いの部署に異動になった。初日から務まらんと確信した。環境の問題ではなく、自分自身の問題だ。
5月から9月まで休職した。これは参った。非常に嫌な気分。何かせねばと焦り、危うく怪しい集団に洗脳されかけた。心療内科の先生にその事を話してみて、一気に目が覚めた。これは家族でも見抜くのが難しいものだと実感した。

復帰後は、同じ部署には戻らず10月に異動させてもらった。あの5ヶ月間は本当に忘れたい。嫌だったことも今となってはいい思い出だね。とよく言うけれど、こればっかりはちっともよくない。

矯正装置をつけたまま、新しい部署へと異動になったわけだが、何だかほっとしたし、気負わずに済んだ。10ヶ月くらいで矯正装置が外れた。噛み合わせは素晴らしく整った。矯正前と後では作った歯型が全く違っていた。肝心の体調の変化は、いまいちよく分からない。

歯茎に埋めたボルトを外す手術が行われた。
今度は手術終了後に、麻酔が効きすぎて長い時間寝させてもらった。夫が車で迎えに来てくれたが、全く立てず歯科衛生士さんにおぶってもらって車に向かった。色々あったけど、口の中は平和になった。

この部署に異動して3年目、やっと自分らしく自然体で居られるようになった。雰囲気も和やかだった。失敗もいっぱいしたし、迷惑もいっぱいかけたし、不安もあったけど、充実感と達成感があった。

急に気づいた顔のたるみ

41歳、ん?何か違う。顔が変わった。まずいな。たるんでる。老けたな。よく見るとまつ毛も生えていないところがある。焦る。
慌てて「顔、たるみ」で検索する。色々ある中で、これだ!と思ったものは1つだけ。行くしかない。迷っている場合ではない。とにかく一刻も早く手を打たねば。

こうなるともう止まらない。すぐにメールで問い合わせて予約した。手技だけの安全な方法で、自然に顔を整えていくもので、エステや骨格矯正などとは全く違い、ここでしか受けられないものだった。

私の顔は、両頬の下にもっさりと肉がついて四角くなってきたのが最大の問題だった。おたふく事件再びだ。ほかには鼻下の間延び。ボールペンを鼻と口の間に挟むのもすごく苦手。

最初は週一で通った。鼻下が縮まって顔全体もキュッと短くなって、自分で言うのもなんだけど可愛くなったように感じた。しばらくして月一になり、両頬のもっさり肉も随分減ってすっきりしてきた。続けたら自分も周りもびっくりするほど、綺麗になっちゃうかもしれない。これは楽しみだー。

仕事は変わらず同じ部署で、同じ事をしていた。メンバーの入れ替えは時々あったが、大きな影響もなく、普通にこなしていた。

42、43歳あたりで、とても自分にあったリフレクソロジストの方に出会った。緊張して固くなった全身が緩み、寝ているような起きているような不思議な感覚になる。しっかり目が覚めた後も、何処か違う世界から現実世界に帰ってきたかのような余韻が続く。本当に大切な時間で今も通っている。

便秘と整体師さん

同じ頃、お腹の張りが尋常じゃないときが続いた。子供の頃からどこでも排便できる感じではなく、修学旅行では大概出なくて苦しんでいた。

大人になって少しましになったけど、やっぱり便秘は日常的にあって、色々対策してきたけど、変わらなかった。
そんな中でも、このときは苦しすぎて、もう痛みも分からないほどになっていたが、病院に行っても解決しない気がしたから、また色々検索した。

ちょっと良さそうなお腹の本を見つけて、夫にこれ買ってみようと思う。と言うと夫が更に検索して、こんな本もあるよ。と教えてくれた。著者は整体師さんで、表紙が可愛らしく優しい感じがした。私の中のいつものあれが出た。これだ!すぐその本を購入した。

本が届くと一気に読んだ。セルフケアも書かれていた。本の最後の方にあった住所をみると、その整体は何と職場の近くだった。何てラッキーなんだ。何てついてるんだ。信じられない。もう行くしかない。

切羽詰まった思いでメールを送ると、返事がきて予約もすぐとれた。あーこれできっと楽になる。助けてもらえると思った。

行くと、先生の雰囲気がよく、施術を受ける前からすでに安堵感を感じていた。施術後はすぐにガチガチに硬直した胃腸が柔らかくなり、息がしやすくなった。お腹の苦しさも楽になった。
助けてくれてありがとうございます。と心から思った。その後も定期的に4年くらい通った。
いつも予約日が楽しみだった。なのにうっかり忘れが1回、ひと月後の同日と勘違いしたのが1回。心底大ショック。予約の取れない人が大勢いるのにという申し訳なさと、単純に施術が受けられなかったがっかり感でいっぱいになった。

また忘れたらどうしようと思い予約を入れずにいたのだが、気づけば更にすごい人気で、全然予約がとれなくなっていた。今は、YouTubeでセルフケアを配信してくれているので、それをたまに実践している。それにしても、夫が本を見つけてくれたお陰で、その整体師さんとの出会いがあり、身体が楽になったのだ。夫よありがとう。

制御不能なイライラ

44歳、何か無性に苛つく。腹立たしい。ダラダラした会議に尋常じゃない怒りをおぼえる。特定の人の存在自体がだめ。そんな毎日が続いた。何かおかしいな。これはさすがに周りじゃなくて、自分に原因があるな。更年期だろうか。ちょっと早い気もするけど。

女性ホルモン系かな?思い立ったらすぐ検索。職場の近くに産婦人科があったので行ってみた。結果は同世代と比較するとちょっと値が少なかった。その流れで甲状腺専門クリニックにも行ったが問題なし。

そのまたついでに、別の女性クリニックにも行った。いきさつは何だか忘れたが、ピルを飲んでみましょうという思ってもみない展開になり、飲むことにした。

知識ゼロだったので、どうも不安が大きい。何回か飲んだ後、膝裏が痛くて腫れてる感じがしたから、再来院したときにそのことを伝えた。血栓ができている可能性があるから、今から○○大学病院の夜間外来に行ってくださいと言われた。

えーこれからですか?今日じゃないとだめなんですか?今日です。今これから行ってください。そんなにやばいのか。どうしよう。恐怖で足が震える。大学病院で受付をして2時間以上待った。私は普通に椅子に座っていたけれど、座っていることすら辛そうな人も待っていた。ようやく呼ばれて診察室へ入った。私の脚を診るなり、あっ大丈夫ですね。おしまい。ほー何でもなくて良かった。だが、もうピルはやめよう。

また仕切り直しだ。今度は、また違う角度で検索してみた。これだ!と思ったのが、ラクトビオン酸&エクオールサプリ。これまたすぐネット注文した。しばらく飲んだらちゃんと効いた。何に対しても苛ついていた感情が治まり、疲労感満載だった顔も回復した。これは手放せないということで、現在も継続中。

新月・満月の願い

46歳、きっかけは忘れたが、占星術師のkeikoさんの月星座情報が面白くて夢中になった。太陽星座山羊座の私が、月星座獅子座と分かったときは、すごく新鮮だった。真逆の星座という印象だが、書いてあることをみると、自分のやりたいことや、世界観は獅子座だなぁと思ったけど、佇まいや仕事の仕方は今のところ獅子座の要素はないかもしれない。

新月には意図し、満月には叶ったつもりで感謝する。書いた回数は51歳の現在までで140回以上。見直すと、書きぶりは違えど言ってることはほぼ同じ。健康、美、富、愛、好きなことを仕事にする、自由、自分も家族も幸せ、フリーランス、素晴らしい仲間、素敵な住まい…

今日は新月だ、満月だ、よーし書くぞーっていうこの時を楽しんでいる。この習慣はまだ継続中。

47歳、職場まで徒歩20分のところへ引っ越した。大きな決断。年月とともにたった十数分の満員電車が苦痛になったのと、帰宅後も何もする気になれず、ぐだーっとしていたため、夫とよく話し合った結果だ。歩いて通勤なんて夢のよう。最初は千葉から通っていたから、毎日が信じられない感覚。

実家はいつも経済的に苦しく、子供時代は気持ちが不安定で、どこかずっとさびしさがあった。だからお金に困るような生き方は絶対にするもんかと思っていた。

とにかく私の軸は今の仕事を続けること。何があっても、そこさえぶれなければ安心だ。そう思いながらも、月への願いはその真逆のことばかり。

父との別れ 母の入院

49歳の6月、母が脳梗塞で倒れた。奇跡的に命は助かった。10月、父が肺気腫で亡くなった。幹細胞ガンもあった。私は一人っ子だから、夫に助けてもらいながら、色んなことを気力で乗り切った。仕事もちょっとたいへんな年だったから、何から何まで一気にまとめてきた感じだ。

キャメレオン竹田さん

数ヶ月が経ち、両親のことに少しずつ気持ちの整理が着いてきた頃、書店に行った。何か面白い本ないかなあと思っていると、「人生を自由自在に楽しむ本」というのが目に入った。著者は、キャメレオン竹田さん。よし買ってみよう。

一気に読んだ。あなたの世界は、すべてあなたが創った映像って書いてある。映像かぁ。あの人もこの人も?自分が創ったの?分かったような分からないような感じだなぁ。数日間繰り返し読んで、しばらくして本棚にしまい、また数ヶ月が経った。

50歳、その響きが自分事と思えず改めてびっくりする。気づけば勤続30年もすぎている。白髪は増えてきたし老眼もしっかりある。

私はYouTubeというものをあまりみていなかった。みていたのは、あの予約の取れない整体師さんの健康情報とセルフケア、ほかにエッセイストの浅見帆帆子さんのお話。その日も、浅見さんのYouTubeをみようとしたら、浅見さんの隣にベレー帽を被った可愛らしい誰かがいる。その人こそがキャメレオン竹田さんだった。あの本の人だ~。何ということでしょう。と一人勝手に大盛り上がり。ちなみに夫は、キャメレオン竹田さんのことを男性だと思っていた。何かくすっと笑えた。

その後は、キャメレオン竹田さんが、以前配信したYouTubeを片っ端からみた。すごく楽しくなって、笑って、画面を眺めているだけで、幸せな気持ちになった。書籍も、もう買うしかないでしょう。という感じでたくさん買った。どれも元気になったり楽しくなったりほっとするものばかりで、何度でも繰り返しみている。今もそれは継続中。

公務員人生の終わりか

51歳の2月、自分の心の中で今の仕事を辞めるという気持ちが大きく膨らんでいた。今まで何度も考えた、辞めたいなあ。でもなぁ。というのではなく、近々確実にそうなる。タイミングがきた。と感じた。大きな声では言えないけど、宇宙からの応援が入ると言われる10天体順行期間中というのも意識していた。

約1ヶ月近く自分の中だけで、あぁ自由だ。解放だ。服装も髪型も大冒険できる。好きな時間に好きなことをして、毎日ウキウキワクワクだぁ。もしかしたら素敵な仕事も見つかって、キラキラ輝いている可能性だってあるかも。あぁこの職場もあと少しなんだなぁ。

色んなことを思い描きながら、今の仕事を辞めた後の人生スケジュールを時系列に書いた。内容は現実味のない夢物語。これを夫にみせて反応を見たい。けど、これ本気なんです。とはとても言えないから、あくまでも軽い感じで見せてみた。ふぅんと、ほぼ反応なし。
まぁ、後になると何でそこまでお気楽ハッピーな気持ちになれたのか、全く分からない。とにかく何の準備もせず、ただただ浮かれていた。まだ辞めてもいないのに、すでに懐かしい気持ちまで先取りしていた。

しかし本気な気持ちは真実で、何とか2月中に夫に言わなければと次第に焦ってきた。なるべく疲れてなくてゆっくり話せるときに話そう。自宅よりカフェとかのほうが言いやすい気がする。

休日、徒歩圏内で神社巡りをした後、甘味屋さんに入った。そこで浮かれ時に書いた、人生スケジュールを再び夫に見せた。これを実現しようと思うんだけど…

どよ〜ん。その場の空気が一気に重たーくなった。私自身も改めて口にすることで、夢物語から現実に戻った感じがした。全然楽しくないじゃん。何だこの気持ちは。

こんなにも気持ちってブレるのか?こんなにも落胆するのか?やっぱり私本気じゃないのか…
夫の反応は当然のこと。当たり前のようにフルタイムで共稼ぎをしてきた。その片方が何の戦略もないまま、ただ辞めると言っているんだから。

もやもやした気持ちのまま、特に行動することもなく3月を迎えた。

同月のある土曜日、母が入所している老健に面会に行った。いつも夫が車で送ってくれている。施設に入り検温すると、夫の体温が38度を超えている。機械が壊れている?私は37度ちょっと。この日は3月なのに暑くて時間になるまで車で待機していたからか。それにしてもなぁと、夫は面会せず車で待機した。

自宅に戻ると、夫の状態が次第に悪化。意識はあるけど倒れ込んだ。後で聞くと目の前が真っ暗になったらしい。焦って恐怖でいっぱいになった私は、救急車を呼んだ。しばらくして落ち着いたため、救急車には乗らなかった。結局コロナだった。

5日が経った頃、テレワーク中だった私に喉の異変がきた。セーフかと思っていたが感染した。辞める辞めないの話は一旦保留だな。ちょうどWBCの時期と重なっていて、ぐらんぐらんな状態でぼんやりテレビを眺めた。寝るに寝れないし、鼻の粘膜はヒリヒリするし、食欲も激減。いつ治るんだろう。

隔離期間が終り、出勤したものの半端ない倦怠感。4月はずっと治らなかったが、辞める問題は相変わらずぐるぐるしていた。

毎日、自問自答の繰り返し。あーもう苦しい。だめだぁ。上司に辞職の意志を伝えよう。決して相談ではない。この決断はとてつもなく大きい。職場の近くに引っ越したことよりもずっと。軽い気持ちで言えるものではない。すごい覚悟も必要。

言いたいけど緊張する。もしかしたら、次の道が決まっていたら、さらっと言えるのかな。ここまで緊張するってことは、この選択でいいのか、本当に言っちゃっていいのかと迷いがあるからか。でももう言ってしまいたい。気力、体力、意欲がなくて、よーしっていう気持ちもすっかり何処かに行っちゃってるわけだし。

4月中旬を過ぎた頃、ついに直属の上司に6月末で退職したいと伝えた。言っちゃった。自分事なのに信じられない感覚。私本当に辞めるんだ。

5月に入り、提出書類の様式を送ってもらった。辞めるひと月前までに出せばよいとのこと。着々と進む辞職までのカウントダウン。

周囲にばれないように、ファイルやメールの整理を少しずつやった。やりながらも、こんな声が聞こえてくる。本当にいいの?辞めてすっきりするの?もやもやしてんじゃないの?次何するの?家庭内の雰囲気はいいとはいえないよね?収入はゼロだよ。その選択、心からほっとしてる?気持ちは楽になってる?どうなのよ。

これは思考がじゃましてるのか、本心が分からなくなったぞ。うーん。今の正直な気持ち。どっちを選択しても不安。どっちも嫌。イライラしていて、不穏なエネルギーを出しまくり。こんなんじゃ、辞めても辞めなくても未来は明るくないよな。

今は、心地よく機嫌よく、ギュッと固まってる心身を緩めないとな。その先にきっと今だ!と思えるタイミングが来るかもしれない。結局は夫に負担をかけるのかもしれない。本当のところ負担なのかもわからないけど。そして不安と恐怖も消えないと思う。それでも決行すべし。私はやっぱりこっちの道なんだと軸が決まれば、きっと素敵な未来になると信じたい。

明日、辞職は一旦取りやめると伝えよう。心の奥に辞めたい気持ちはあるけど、今じゃなかった。これも経験。しかしあんなに悩んで何もなかったことになる現実。なんか悔しいなあ。

最近、飼い猫のくろまめとまめたの食欲がなかった。私が気持ちを変えたあたりから、食欲が復活した。きっとどよんとしたエネルギーを察知して、一緒に沈んでいたのかもしれない。ごめんね。

辞職の話が長くなってしまったけど、4月の下旬から「ハチミツ」をがっつり摂取している。ハチミツ栄養療法医の桑島靖子さんのYouTubeをみて、今の自分の状態が凄く合致していたから。エネルギー不足で毎日ヘロヘロ。それじゃ、前向きな選択も出来るわけない。

そんなわけで辞めそうで辞めない公務員人生。もう少しだけ楽しんでみよう。と書いておきながら、明日にはあ~もう無理。めんどくさい。と苛ついている可能性はゼロではない。

それにしても、辞めたい理由って最初はこんな感じだった。
飼い猫とずっと一緒にいたいなあ
好きな時間に家で創作活動したいなあ
美味しくて健康的なご飯をゆっくり丁寧に作りたいなあ
思い立ったときにお茶しに行きたいなあ
こんなシンプルなことなのに、次から次へと実現を阻む理由を並べては、うぅっとなっている。

私が何しに地球にきたのか。それはありとあらゆることに苦悩すること。効くに違いないと確信しながら、あらゆる美容と健康の模索を繰り返すこと。全くもって面倒くさいが、これに違いない。








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