性別を服を着替えるくらいの気軽さで変えられたらいいのにと思ったことがある

こんにちは。
今回は小野美由紀さんの『ピュア』を読んだので、感想を書きます。

感想といっても自分のなかで考えが纏まらなかったから、読み終わってからこれを書くまでにかなりの時間が経過しているし、今も何を書こうか迷いながら書いている。

表題作『ピュア』は昨年、note上でも公開され、

「もしも、女性が男性を食べないと妊娠できない世の中になったら?」

というパンチ力抜群のコピーに、どきどきしながら読んだ。
ら、あまりにも面白くてこれはぜひ紙媒体で読みたい、そして手元に残しておきたいという思いで途中で読むのを止め、書籍化されたのでようやく読めた。

『ピュア』を読んだ率直な感想は、正にそのタイトル通り。
ピュアだ、純粋だ、そして女性って忙しい、ということ。

種の存続のために進化の過程で体表を覆う鱗と鋭い爪を手に入れた女性(この姿をFF12に出てくるバンガ族に似ている姿を想像したんだけど、どうなんだろうね?)が、男性を狩る。命を新たな世代へと繋ぐために、あるいは人口を増やすために。セックスをして男性が性を吐いたあと、今の今まで行為に及んでいた相手の首を掻ききり、食べる。そうしないと妊娠しない仕組みになっているからだ。

女性には強靭な身体とともに狩りへの欲求も備わっていて、男性を二つの意味で食べることは、彼女たちの動物としての本能に従ったとても純粋な行為である。

その一方で、現在の私たちの世界の女子高生のように(私が女子高生だったのはもうずっと前なので事情が変わっているかもしれないが)ランチをしながら愚痴を言ったり、メイクをしたり、親友に密かな恋の話を打ち明けてきゃっきゃしたりしている。そういう光景からは少女としてのピュアさを感じる。

女性として生まれると教育を施され、時期になると狩りを行い、セックスをして男性を食べて妊娠・出産し、そして戦争へと駆り出される。
男性は女性とは別の惑星で日々労働に勤しみ、女性に食べられることを至上の幸福として教えられて育ち、いつ訪れるかも分からない一瞬の快楽と自分の命の終わりを待ちながら暮らしている。

女性、忙しすぎない? 男性、空しすぎない?

男性より屈強な肉体を手に入れた女性。待遇もずっと優遇されている。
だけど忙しすぎるし、羨ましいとか幸福そうだとかと思えないのはどうしてだろう。

現代でも女性は忙しい。仕事をしなければいけないし恋愛をしなければいけないし、結婚して子どもを産まなくちゃいけないし、産んだからには育てなきゃいけないし、家事もしなくちゃいけない。

結局、身体の仕組みは変わっても女性に与えられた”やらなきゃいけないこと”の量は変わらないどころか増えているから忙しそうと感じるのだろうし、政府から強制されていること、それから強い本能にあらがえないことから、不自由さを感じて幸福そうだと思えないのだろう。

私が女性であるから特にそう思うのかもしれないが、どうして女性はこんなにも忙しいのだろう?

女性の社会進出が進んで、女性も男性も同じ職場で働くようになって忙しさは同じはずなのに、何故か受ける印象は異なる。

それは妊娠・出産が女性にしかできないことだから、ということと、男性の忙しさは家庭の中で見えづらいからということだと思う。

例えば世の中が変わって男性が完全に育児休暇を取れるようになって、子どもが少なくとも保育園に入れる年齢になるまでは育児に専念できるようになったとする。

それでも女性の忙しさは緩和されても、完全に無くならないように思う。

それは妊娠・出産が女性にしかできないことであり、それを経験することで身体が不可逆的な変化をするせいかもしれない。

子どもは欲しいけどバリバリと働いてキャリアを積み上げたり、自由に世界中を飛び回ってやりたいことに没頭したい女性もいる。その反対でじっくり子どもと向き合ったり、家事が好きだったり得意だったりする男性もいる。

夫婦やパートナー間で話し合ってある程度調整できるかもしれないけれど、やはり社会の圧力だったり身体的な制限が掛かったりする。

性別も服を着替えるみたいに気軽に変えられたらいいのに、と思う。
学校も仕事もパートナーも住む場所も国籍も名前も見た目も変えられるようになった時代で、性別だけが産まれたまま一生変えられないって逆に不自由だしなんかおかしいことのように思えてくるときがある。

私は女性として生まれて、今のところは男性になりたいという思いはないのだけれど、もし気軽に性別が変えられるようになったら、いろいろと楽になることや救われるひとが出てくるんじゃないかな。一人目は妻が産んで、二人目は夫が産むとかしたら、もっとお互いに分かり合えそうだけどね。

『バースデー』にはまさに性別を自由に変えられる手術が登場している。身体を切ったり貼ったりするのではなく、遺伝子を書き換える液体に使って徐々に変化していくという方法。
身近なひとがある日突然性別が変わっていた、という世の中になったら一体どうなるのだろう。
もちろん戸惑うだろうけれど、ちょっと興味があるし面白そうだと思う。

日によって性別が変わるようなことになったら、見た目も性別も服やメイクと同じでその人の表面を飾るものでしかなくなって、もっとこう個人とはなにか、とか「そのひととは何か」という本質的で哲学的な問題になりそうだし、もっとより誰かを愛したり大切にしたりという気持ちが試されそうな気がするね。

『ピュア』の主人公であるユミは、「男を食べたい」という本能を抱えながらも実際に狩りを行うことには抵抗を感じている。

そんななかで狩りに出かけた地球で、鱗も牙も持たない「祖先の置き忘れ」である双子の子どもを育てるエイジという男性に出会い、恋をする。

エイジの趣味である本についてや二人が産まれるずっと前には、男女はつがいになって協力して生活を営んでいたことを話したり、次に会える日を心待ちにしたりしている。見た目は違っても、ユミも現代の恋する女性と変わらない。

だけどエイジと一緒にいたいと思う一方で、好きになればなるほど「食べたい」という本能が疼く。それを理性で抑えることが、動物的だった彼女(というかその時代の女性)がより人間っぽさを獲得しているように見える。

だけど政府や国や周りの女性たちがそれを許してくれない。女性が一人の男性ととしか関係を結ばなくなったら、男性を食べなければ妊娠しないこの世界では子どもの数は減っていく一方だし、強い本能を抑えることは彼女らにとっても負担でストレスなのだと思う。

本能や与えられた役割から逃げたい一方で、今までの人生のすべてを裏切れるほど好きな相手がいるわけでもないマミちゃんの姿は切ない。彼女もただただ純粋にユミのことが羨ましかったんじゃないかな。

自分が手にできないものを手に入れようと、自分がやりたくなくてもやらなくちゃいけないことから逃れるユミに嫉妬して、許せなかったのだろう。だから彼女のことを思うとすごく切ない。ヒトミちゃんやユミよりも、マミちゃんに共感と同情してしまう。

ここに書いた『ピュア』、『バースデー』のほかの三篇もどれも衝撃的で、面白かった。まだまだ書きたいことがあるような気もするけれど、今は脳内とか胸の奥のほうでぐるぐるもやもやしているだけなので、この辺りで。

ちらっと思ったのだけど、『幻胎』で創られた子どもたちが『ピュア』の祖先……というわけではないよね。たぶんね。男児も女児も同じような雰囲気だったし。それとも成長の過程で女性だけ大きく変化していくのかな?

『バースデー』→『幻胎』『To the Moon』→『ピュア』と繋がっていたりして…。どうだろう。

それでは。



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