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自由形世代(フリースタイル・ジェネレーション)20

第2章 凍てついた湖(4)

1(承前)

 ほとんど雪は降らないが、その分、寒さはかなり厳しい土地だった。
 私たちは絶え間なく吹きつける北風に身震いしながらも、かけ声勇ましく、湖沿いの小道を走り続けた。ここも車一台がやっと通れるほどの未舗装路で、右側はすぐに湖、左側は入り込んだら二度と出て来られないような深い森林が続いている。
「すみません。先輩には無理いって参加してもらって……」
 部長が私の横に並び、白い息を吐きながらいった。
「ううん、来たくて来たんだってば。ほかの三年生と違って、私はもう暇だしね」
 私は皆よりひと足早く、S大の推薦入試に合格していた。だから冬休みの間も、こんなふうにクラブに打ち込んでいられるのだ。
「あっ、ボート乗り場がある」
 亜弥が湖を指差した。
「ね、ね、あとで乗ろうよ」
「残念だけど、今はシーズンオフだから乗れないよ」
 亮太が後ろを振り返って答える。ランニングをすると、先頭を走るのは決まって彼だ。
「このくそ寒い時期に、ボートなんか漕ぎたいと思うのはおまえくらいだよ」
 息を弾ませながら、幹成がけちをつけた。
「うるさいなあ。真冬のボートのロマンがわからない奴は、黙っててくれる?」
「へいへい」
「ねえ、キャプテン。どこまで走るんですかあ?」
 ボートに乗れないとわかって、急に力が抜けたのか、亜弥は情けない声を漏らした。
「あたし、もうダメかもしんない」
「弱音を吐くなよ。だらしないな」
 幹成のその声にも、力がない。私も、そろそろひと休みしたい気分になっていた。
「亮太、どこまで走る?」
 息づかいの荒くなった部長が訊いた。
「もうすぐ、櫻澤の私有地に突き当たります。それ以上先へは進めませんから、そこでUターンしましょう」
 さすがに、亮太の呼吸はまったく乱れていなかった。
 道はさらに細くなり、足もとに転がる石ころも、次第にごつごつとしたものに変わり始めた。自分の体力にそろそろ限界を感じ始めた頃、
「ほら、見えてきた」
 亮太が声をあげた。前を見やると、刑務所をイメージさせる重たい鉄門が道をふさいでいる。門の向こうには木々がびっしりと生い茂っていて、まるで小さなジャングルのようだ。
《ここより私有地 立入禁止》
 赤文字でそう綴られた看板が、道の脇に立てられていた。
「ようし、ストップ」
 部長の合図で、皆は足踏みを止めた。
「じゃあ、ここでストレッチでもしようか」
 私は重たい脚を引きずりながら亮太のそばへ行き、彼と組んでストレッチングを始めた。
「肩、柔らかくなったね」
 うつ伏せになった亮太の腕を、背中から頭のほうへ押しやりながらいう。
「来シーズンは十六分だって破れるんじゃない?」
「はい。絶対に破ってみせますよ」
「悪いけど、俺も破りますからね」
 幹成が横から口をはさむ。
 亮太も幹成も長距離の選手だ。幹成は中学生の頃から目立っており、数多くの大会新記録を出しては優勝していた。
 一方の亮太は、中学時代にはさほどぱっとした成績を残していない。決勝に残ったことさえなかったはずだ。ところが高校入学と同時に、彼のタイムは驚異的に縮んだ。千五百メートル自由形においては、中学三年のときの自己ベストを二分半近く縮めたのである。
 泳ぐたびにベストタイムを出す亮太に、誰よりも驚いていたのは彼自身だったろう。実際、亮太が県選手権でいきなり十七分台前半をマークし、決勝第四コースに残ったとき、彼はこれを夢だと思ったらしい。
 県選手権決勝。誰もが、優勝は幹成だと思っていた。しかし実際に勝利を手にしたのは17分5秒4というベストタイムで泳いだ亮太であり、幹成は惜しくも二着に終わってしまった。べつに、幹成の調子が悪かったわけではない。幹成だって、自己ベストタイムを更新していたのだ。しかし亮太のタイムは、幹成のそれを十秒も上回っていたのである。

つづく

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