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「企画書」は本当に必要なのか⁉︎

長年、出版社にいるとたくさんの人から、本の「企画書の書き方」について相談される。

・タイトルは重要ですか?
・どんな順番で書けばいいですか?
・プロフィールは前ですか?後ろですか?
・何枚までなら読んでもらえますか?

つい先日も、ある出版プロデューサーさんに「本をだしたい人たちに企画書の書き方をアドバイスしてもらえませんか?」とご相談を頂いた。そこで、あることに気づいてしまった。


「そう言えばこの10年間、本気で書いた企画書はたった1枚しかない....」


企画書をまったく書かないのだから、ぼくに「正しい企画書の書き方」なんて教えられるはずがない。では、どうしてこんなにも企画書を書かなくなったんだろう⁉︎

企画書が必要な2つのシーン

出版社の編集者が「企画書」を書く理由は2つしかない。

1、上司(会議)の許可をもらうため
2、著者(取引先)に依頼をするため

1については、ぼくは幸いなことに編集長という立場で長年仕事してきたので、社内の誰かを説得する必要がない。

これをやりたい!とアタマで思ったらノートを取り出してきて、そこに鉛筆で内容やタイトルやビジュアルのイメージなんかを描き始める。およそ人に見せられるような綺麗なものではなくて、アタマの中にでてきたあれやこれを無作為に書いていく。

この段階ではそれらを「まとめる」ようなことはせず、とっ散らかったままにしておくので、企画書とはほど遠い"落書き"が誕生するだけだ。

2については、都合上必要であれば書くのだけど、ぼくの場合はほとんど必要なシーンがない。なぜなら、一度も会ったことのない人と本をつくる機会が少ないからだ。

たとえば、知り合いの経営者や作家さんから、「あの人すごくおもしろいから会ってみない?」とご紹介をうけ、この人いいなあと思ったら本を作りましょう!とお誘いする。

「その人に惚れる」ところから本づくりが始まるので、この時点では企画内容などノープランもいいところ。決まっているのはその人と「ご一緒する」ということだけ。

そこから何度もお会いして話を聞きながら、どんな本をつくるか練っていくので、相手に企画書をだすタイミングがそもそもない。

「たぶんこれかも」というのが見つかったら、ノートに1行だけタイトルらしきものを書いて、「これでどうでしょうか?」と相手に伝えるようにしている。

企画書を書いても
どうせガラッと変わる

社内を見渡すと、出発点としての企画書は確かに必要な場合も多い。とくに経験の浅い編集者は企画書をどんどん書き、編集長から足りない部分や方向性のちがいを指摘されて頭を悩ませることが必要だと思う。

一方、ぼくは雑談中、経験豊かな編集者が「こんなこと考えてるんです」と企画らしき話をしてきたら、企画書なんてなくてもその場で

「いいね、やろう!」

と伝えるようにしている。実際にその企画が進むかどうかはわからないし、あとあとその編集者の気持ちが変わってその案がボツになることもある。それでも、全然いいと思ってる。

編集者が「おもしろいこと考えた」と思ったときには、できるだけそれを後押ししてあげたい。こちらも長年この世界にいるので「売れそうかどうか」みたいなことは経験上ピンとくる場合もあるのだけど、それより大切なのは提案者が心から「これは、おもしろい!」と思っているかどうかだ。

その気持ちがあるなら、その日からすぐに突き進むのがいい。細かな企画書を書かせて提出させてジャッジする、なんていうプロセスに意味があるとは思えない。

企画書は著者をはじめとする取引先との「合意」のために必要になるけど、どのみちその後どんどん変わっていくものだ。むしろ、編集者の企画書通りに本が出来上がったとしたら、その本には著者の「よさ」「らしさ」みたいなものが希薄なはずだ。

ある大先輩の経営者が「イノベーションは"つくる過程"で生まれる」と言っていた。

大抵のことは企画どおりに進まない。"つくる過程"で難航したり問題が起きたり衝突が起きたりして、ベッドで目を瞑ってもそれが頭に浮かんでくる。そうやって難題に挑んで七転八倒してはじめて

「見たことのない最高の商品」

ができるという。本も同じだと思う。ビジネス書や実用書、専門書は、編集者が希望する著者候補と話をし、「ご一緒しましょう」となったところから本づくりがはじまる。

最初に"企画の卵"のようなものはあれど、2人で話し合えば話し合うほど、企画は変容していく。その著者の最高の部分を世に出すためには、徹底的な話し合いや原稿の精査が必要だし、それによって企画当初には想像もしていなかったコンセプトやテーマ、秘話があらわれてくるものだ。

企画書の罪と罰

企画書のあるなしは、本人がやりやすいほうでやればいいと思う。ただし、企画書が仕事の足枷になってしまうこともある。

「企画書に縛られる」

ことがしばしばあるのだ。主に2つあるように思う。

1、企画者本人が自らを縛る

企画の段階で緻密に設計することはまったく悪いことじゃない。ただ、「つくる過程」ではいろいろなことが起こるものだ。悪いほうに転ぶケースもあるし、むしろ「どんどん変えていったほうが良くなる」ケースも多い。

ところが企画書の時点で緻密に考えたことで、頭がそこから変換できず、当初の計画のレールから外れることができない場合がある。これによって著者の「よさ」「らしさ」が消えてしまうくらいなら、企画の段階ではもっとファジーにしておくべきだと思う。

「えーい、変えちゃえ!」と割り切れる性格なら企画書は緻密でもいいし、そうじゃないならあえて「余白のある企画」からはじめたほうがいいかもしれない。

2、会社が企画者を縛る

このケースが多いのかもしれない。企画会議で提出された「企画書」がGOになるということは、

この企画内容と著者ならOKだが、それが変わってしまうことは認めませんよ

というメッセージが暗に込められていることがある。こうなってしまうと、企画者はどうしてもそのレールから外れにくいし、著者からもっとおもしろい提案があってもそれを受け入れることができない。

企画が途中で変容してしまうと、企画会議に「再提出」ということもあり、場合によってはそこでNO判定がくることもある。こういうことをビクビクしていると、現場の編集者はとてもやりにくいし、著者から活力を奪うことにもなる。

「会議に提出する」というのはジャッジするほうが安心を得たいだけで、現場スタッフにはストレスとコストがかかる。

ぼくは、企画についてはできるだけ「おおらか」でありたいと思っている。最近も、ビジネス書の企画だとばかり思っていた企画が、その担当編集者との雑談で「小説に変わった」ことを知った。

それもありだね、とぼくは言った。
そのほうがおもしろくて、と彼女は言った。

熱意のある編集者が「やっぱりこっちがいい」と感じたなら、それはきっと正しいのだ。

ぼくが大抵のアイデアにGOを出してしまうので、担当者の何人かは、ある程度練り上げてからぼくに壁打ちするらしい。下手なアイデアを進めることになっちゃうと、自分がめんどうになるからだそうだ。

それがいいかどうかはわからないけれど、スタッフが自ら考えた企画に対してはそれくらい「おおらか」に判断したいと思うし、つくる過程で変化していくことに寛容でありたい。

ちなみに、ぼくがこの10年間で唯一本気で書いた企画書は、ぼくがずっと恋焦がれているある芸人さんに向けてのもの。何年かかってもいいので、実現できる日を夢見て生きていきたい。

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