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科学、死す。歩く盲目科学ゾンビと、哲学の二人三脚。

今回は「科学者、死す(流れロンギヌス槍で)」です。

科学はいかなる未知も確定できない(真理と証明できない)と
言ったら?
科学が何かを助けるためには、実は科学自身は”哲学”(あるいはそれに代わる何か)の助けが必須だと言ったら不思議だろうか?

くろかわのnote記事『神殺し。 科学は必ず哲学に助けられる』

という話を以前しましたが、今回の記事ではまず前者を以下のように掘り下げていきます。

科学は自分自身を殺してしまった(真理性を証明できなかった)という話。真理でなくとも良いのだというゾンビ的開き直りを遂げる話。
しかし科学だけでは目的なき盲目科学ゾンビになってしまったという話

そして後者を、

その目的なき盲目科学ゾンビも哲学(あるいは道徳)も合わせれば、非常に良い相互補完ができるという話で掘り下げていきます。


1章 科学による真理的な自殺

科学者が人事評価の完璧な基準を作ったら、自分自身がそれに不合格でクビになった

 ではまず、科学がどのようにして真理性を失ったかというと、それは科学が今まで”科学的に正しいこと”の証明に使ってきた方法が、どうやら不完全。あるいは逆にその方法が完全すぎるがゆえに、科学中身はその基準に合格できないという本末転倒な悲劇があったからです。

 まあ、会社の人事担当者が人事評価の完璧な基準を作ったら、自分自身がそれに不合格でクビになってしまったみたいな喜劇とも言い換えられますが(笑)

 で、その科学が何らかの主張が正しいかどうかの証明に使ってきた方法とは、

1、自然の斉一性 という原理
2、大数の法則 という原理

 この二つです。
 (厳密にはこれ以外にも多数ありますが、それらは言うななれば中ボスのようなもので上記の二つ、あるいはその合体系こそが真のラスボスであり、科学の真理性の守護者と言えるでしょう)

真理を守る一人目のボディガード「自然の斉一性」

 「自然の斉一性」とは、自然は常に同じことを繰り返すという法則のことです。

 太陽が東から上ることが、今日の科学的な経験的事実だとして。いろいろな観測や計算をした結果、地球が生まれてから太陽は一日の例外もなく東から上がって来たことが証明されたとします。であるならば、明日からもずっと太陽は基本的には東から上る=それを左右する大元の物理法則は未来でも変更されないという予測です。

さてしかし、この予測が正しいかどうかは、実は科学的には未確定(真理と証明されていない)です。

 以下、wikiの要約。

 この法則は当然のように思われるが、仮に帰納法を使って正当化を試みても、帰納法そのものがこの原理を使用するため、正当化は不可能である。

 - 1. 今まで自然の斉一性を仮定して、うまくいった。
 - 2. だからこれからもうまくいくだろう。

 これが帰納を用いた自然の斉一性の正当だ。
 1行目から2行目に進むステップで、自然の斉一性が使われている。

 つまり斉一性原理の正当化は循環論法に陥り、うまくいかない。

Wikipedia 自然の斉一性

 つまりこの時点で科学は自分自身が真理だという証明は、間違いなく不可能になったのです。
 しかし科学者も人間なので往生際が悪く、次はこう考えるのです。

「科学は相対的に真理に近い(ハズ、というかそうであってくれ……)」

 しかしこれも仕方ないことです。科学はそれだけ教育としての重要な部分を担ってきました。自分自身が完全な真理でないと、机上の単なる計算で明らかになっただけで、いろいろな「どう考えてもフツーに妥当だろう」という諸法則。万有引力や慣性の法則などの諸法則の科学的価値を、そこらへんの疑似科学と一緒にされてはたまりませんからね。私だってそんなものが社会で幅を利かせたら困ります(笑)

よって、科学は一種の統計的な考え方として「大数の法則」というものを持ち出してきて、今度は相対的には真理に近いと自称します。

真理を守る二人目のボディガード 「大数の法則」

 大数の法則とは、
 例えば6面サイコロを6回振るとして。それぞれ出る確率はとうぜん1/6ですが、6回程度ではそれぞれの目がきれいに6回は出ません。しかし、これも無限回くりかえせば、無限に1/6に収束してきます。そしてこれの統計的にすばらしい点は、なぜサイコロの出目がそれぞれ1/6出るかどうかも、その原理もなにも知らなくても、数をかぞえるだけで解をみちびけることです。よって、例えば地球における科学法則の話であれば、地球の歴史は46億年もありますし、宇宙の法則であれば宇宙の歴史は約130億年ほどはありそうなので、非常に確率的に安心して真理性が高いと言える。

 というような方法で、科学は相対的な真理性を強調します。

 さてしかし、これも実は弱点があります。

 この大数の法則のカギは無限回繰り返せば~とか、1億回繰り返せば~という注釈がつくわけですが、これはサンプル数が多ければ多いほど、確率的に信頼できるからです。しかし実際に無限回の試行を終えることは不可能です。だって無限ですから(笑) そしてその過去の法則たちは私たちが経験してきた時間が有限な以上、サンプル数としては有限です、にもかかわらず未来の可能性は無限です。(実際に未来が無限かどうかは未知=可能性が無限=何も確定できないという意味で無限)

 世界について何か包括的なこと言い、科学法則にしようとする行為には、主張と矛盾する根拠があとから見つかる懸念が必ずつきまとう。
 それが帰納的な論理の特徴で、だからこそ帰納的な推論は演繹的には妥当ではないということになる。
 
 私たちの限られた経験に、世界のすべてが合致するとは限らない。

 科学哲学者 リー・マッキンタイア  
Newton新書『「科学的に正しい」とは何か』

 もっと科学的に厳密に言えば、過去についてすら観測しきれなかった例外の数を確定することができない以上、これの可能性も無限です。

 そして大数の法則に則り、何かが何かよりも真理性が高いというには、そのサンプル数に著しい差が必要です。そして無限と有限では、比べるべくもない、というのが大数の法則に則った結果の答えです。


完璧な作戦 不可能だという点に目をつぶれば

 つまり、結局のところ今見つかっているいかなる原理も、厳密には何と比較しても相対的に真理度が有意に高いとは言えないということです。(このあたりは功利主義の功利計算についても同じような問題が付いてまわりますね。その話もまたどこかでしたいと思っています。答えを出すことが実質的に不可能なことだけは計算可能な、素晴らしくも間違った法則についての話をね)

 こうして科学は無事、自らの方法論により自らが真理でないということで真理としては死んだわけです。

 ただし、かといって科学の妥当性が失われるわけではありません。

 私はある意味で科学を信じていますし、それだけでなく科学と哲学の共同作業というものに大変心惹かれる響きを感じます。

さきほどのリー・マッキンタイアは以下のように述べます。

 科学者がこの世界を考察する際に用いるタイプの推論と、他分野の推論とのあいだに論理的な違いがあるわけでもない。
 ~中略~
 確かに科学者は、常に決まったルールに従うわけではないが、科学史を見れば明らかなように、頼るべき何かはある。
 なんらかの気風や研究の精神、信念の体系と言ってもいいだろう。
 経験的疑問の答えは研究対象に関して集めた根拠のなかにあり、権威やイデオロギーの中にはもちろん、理性の中にすらない、という考え方。
そうした信条こそが、科学の特別さを理解するのに、もっとも良い方法だと思っている。私はそれを科学的態度と呼ぶ。

 科学哲学者 リー・マッキンタイア  Newton新書『「科学的に正しい」とは何か』


 ということで、これが最初に言ったゾンビ的開き直りの部分です。
けれども、この科学ゾンビは、歩いていても無害どころか有益なゾンビです。安心して大丈夫。よってここ掘り下げるのは、テーマの脱線でもあるので止めておきましょう。

深い理由なんかねえよ 「なにも死ぬこたあねー」 さっきはそー思っただけだよ

荒木飛呂彦/著『ジョジョの奇妙な冒険第4部』
敵である億安を治療した、主人公 仗助の言葉 


2章 科学には目的がない。歩く盲目科学ゾンビの出現。

 さてしかし、さきほどは無害とは言いましたが、リスクもあります。なぜなら科学は科学のみの視点だと本質的に無目的な盲目ゾンビだからです。

科学の必然としての盲目さを表す法則として、有名な法則があります。

べきであるべきでないというのは、ある新しい関係、断言を表わすのだから、これを注視して解明し、同時に、この新しい関係が全然異なる他の関係からいかにして導出されうるのか、まったく考えも及ばぬように思える限り、その理由を与えることが必要だからである。

—ヒューム『人性論――精神上の問題に実験的推論方法を導き入れる試み』

 この法則は〇〇は××だという事実をいくつ挙げたとしても、それだけではいかなるべき論も語ることはできない、という指摘をした法則です。

分かりやすく伝えるために具体的な例を挙げるとして、

 例えば、日本である病気が流行っているとして、何もしなければ1万人が死ぬとして。けれども、その病気のワクチンをみんなが接種したら、それによる死者が1千人で済むとします。そしてこの事実は科学的に妥当な事実だとしておきましょう。
 ただし、この段階では、まだそれを行うべきかどうかは科学的にはなんとも言えません。なぜなら、なぜ死者が半分になることをしなければらないという事実は、この話のどこからも導き出せないからです。

 いやまあ、半分は死なないのだからそっちのほうがフツー正しいだろって話なんですけれど(笑)

 でも、科学的にはそのフツー正しいとかは、まったく厳密な主張ではないですからね。もっとそぎ落として言えば、子供の人を殺すのはどうしていけないことの? という無邪気な質問に、科学者を呼んでなんとかなるか? ということです。

この場合、フツーはならんですよね?(笑)

しかし、質問をこう変えればどうでしょうか?
「どうして科学って大事なの?」と。

 ただし、この質問とほかの素朴な質問とは全く違います。
 例えば「どうしてお空は青いの?」という問いなどとは本質が全く異なる問いなので、答え方には非常に注意が必要です。

どういうことか?

お空の色は科学的な手法で導かれた科学的に妥当な答えを返せるものですが、「科学がなぜ大事か?」に対しては先ほどのヒュームの法則に基づき、絶対に科学的には答えられないということです。

3章 ただの歩く盲目科学ゾンビになるか、哲学と二人三脚するゾンビになるか。

 ということで、科学だけでは目的を持てず、科学研究の正当化すらできないということになったわけですが。この先の科学の道には分かれ道があります。

 片方は開き直ってしまう道です。目的とか正しさとそんなことはどうでもいい、創造論だけでなく、道徳も正義もまとめてゴミ箱に投げ込んでしまおう、ということですね。たった一人の純粋なエゴイストとして世界に挑む。そんな道もありなのかもしれません。ただしこれはもちろん、科学は盲目で目的なく歩くゾンビであるという誹りも免れません。

 もう片方は哲学をすることです。私はこれが良いのではないかと思っています。別に哲学者や科学哲学者の”思し召しを伺え”という話ではありません。哲学というのは高尚ではあるかもしれませんが、別に研究所に行かなくてもできますし道具もいりません。

 さて、ではこの場合の目的を考え正当化するために哲学するとはどういうことなのでしょうか? ここまでで「正当化の手段」と「哲学」を一緒にするなという人もいたかもしれません(笑)

 ですがそれは大きな誤解です。

 哲学とは科学とは違う分野(あるいは科学を超えた部分)での”事実を明らかにする学問なのだ”と。そういうなんとも豪気な哲学をお持ちの人もいるかもしれません。

 しかし、それと私の言っていることは矛盾しません。哲学とは間違いなく正当化の学問でもあるのです。

 だって思い出してみてください。哲学の歴史をひも解けば、その始まりがひろゆきを超えたひろゆきらしいソフィストたちとの戦いから始まったことをみんな知っているはずです。

 あるソフィストが、自分の弟子の1人が授業料を払わないことに業を煮やして告訴した。訴えられた弟子は裁判の場でこう答弁した。自分がこの訴訟に勝てば、当然金を支払う必要はない。また、もし負けたとしたら、それはまだ自分が彼から十分な弁論技術を教わっていないということであり、やはり授業料を払う必要はない。

https://www.7key.jp/data/philosophy/sophistes.html

 これが詭弁だとして。彼らが間違っているとして。哲学はそれを指摘するだけでは、ダメなのです。過去のひろゆきはこう言ってきます
「間違っていたらなんでダメなんですか?」
(たぶん本物は言わないでしょうが)

ここで哲学も正当化を要求されるという点に帰ってくるわけです。

間違っていてはダメと言うために、哲学は普遍的な研究をすることを迫られたわけです。 この哲学の歩みを正当化の道として解釈する場合、哲学の仕事は以下の通りです。

1,正当化とは何か?
2,正当化できるモノとは何か?
3,またその正当化の論理とは何か?”
4,その論理は正当なのか?

 そしてさらにもう一歩、元の論点である科学者の目的や道徳に戻ってこれを表現するなら。

1,何でもいいので善いと思う目的を持つ
2,その目的がなぜ善いのかという説明(つまり原理)を持つ

この二つということになるでしょう。

 ここから先は私があーだこーだ口をはさむ部分ではないですね。

 ひとりひとりの科学者(そして哲学者)はこれを考えねばならない。
 もしそれをしないなら、例えば創造論を学校に教えるというような(科学者からしたら突拍子もない)ことに反対の立場を取ることはできない。

 つまり、科学的手法以外の方法、具体的には(おそらく)道徳的な原理がない限り、人は科学を正当だとも価値あるとも主張することができないのです。

 そして、以前に話した、一番最初の問いにやっと帰ってきます。

ただし、例えば科学が何かを助けるためには、実は科学自身は”哲学”(あるいはそれに代わる何か)の助けが必須だと言ったら不思議だろうか?

くろかわのnote記事『神殺し。 科学は必ず哲学に助けられる』

 ということです。

 そう言う意味で科学と哲学は相互補完的な存在であります。
 哲学のすべてを科学化することはできないし、科学のすべてに哲学が口を出す必要もない。うまく助け合っていきたいものです。

 今回はここまで終わります。

 本当は話を広げて「ではいかにして哲学が”べき論”を語るのか?」という点についてまで話したいものですが、それはまたの機会にしようと思います。

 ご購読まことにありがとうございました。

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