「本を読むこと」についての考え

2月も中旬に差しかかりました。まだまだ寒い日が続き、春の訪れが待ち遠しく感じています。

さて、今回は表題の通り、本を読むことについて少し考えてみようと思います。

昔から「本を読め」ということを言われたりしたのではないでしょうか。私もよく言われておりました。しかし私は怠惰でめんどくさがりな性格なもので本を読むという行為を避けていました。
そんなナマケモノでしたので私は大学を一浪して入学しています。私は一浪したことを重く受け止めて「やっぱりしっかりしなきゃだめだな」と思い、本を読んで勉強をしていこうと決心致しました。

本を読むことのメリットは何でしょうか。
コスパが良いという答えが返ってきたりもします。費用対効果、つまり出したお金や使った時間に対して得られる情報が大きいというものです。
確かにそれも一理あると思いますが、私は数冊ではなく数百冊、いやそれ以上読んでこそだと思います。使ったお金や時間は膨大に膨れ上がりますが、むしろそうすることによるメリットの方が私は大きいと考えています。
イメージとして言葉にすれば、本を何冊も何冊も読むと、点が増えていき、それがやがて線になり、そして線が重なりあい面になる、という感じです。
表現を変えると「世界がより鮮明に見えてくる」と言うことができます。

私は本を読むことのメリットにこの「世界がより鮮明に見えてくる」ということをあげたいと思います。世界の隅々まではっきり認識できるようになるとまでは言うことはできません。それは神の領域だと思います。ひとりの人間がそこまでできるとは思いません。
しかし、本を読み、積み上げていくことで、曇りガラスの曇り具合がどんどん薄まっていくように感じます。個人的には、ぼんやりとしている像が少しずつ鮮明に見えてくるという表現がしっくりときます。

少し抽象的な話をしてみます。私は社会についてたくさんの本をよく読んでいた時期がありました。ある時、社会についての本は、社会について語っていると同時に社会にいる人々の心も語っていることに気づきます。私も社会にいる人々のうちのひとりですので、当然、私の心も語っているのです。
さらに考えを拡げていくと私の友人も社会にいる人々のうちのひとりですから、社会について語っている本は友人の心をも語っているのです。これは大きな発見でした。
人は皆、不安や悩みなどがあると思いますが、その不安や悩みは一体どこから来たのか。実のところ、私や私の友人も社会構造ゆえに程度は違えど不安や悩みが発生していることに気付きます。実は根は一緒だねという感じです。これはまさに先述のぼんやりしている像が少しずつ鮮明に見えてきている状態であると思います。

実は根は一緒だね。そんな感覚になった時、自分はどう振る舞えるのでしょうか。そんな感覚になる前と後では自分の行動に変化が起きる、いや起こさずにはいられないと思います。利己的ではなく利他的な振る舞いができるようになると思います。
表面上の利他的な振る舞いは誰にでもできますが、相手の心を知った上での利他的な振る舞いができるようになる。本を読むことは人間的な成熟をも齎すものと思います。

本を読むことは役に立つかどうかを聞かれたりしますが、私なら役に立つと答えます。しかし、役にたったかどうかは一冊読んですぐには分かりません。何冊も何冊も読んで、あれこれ考えた時に「なるほど」と思います。そしてある時にその「なるほど」と思ったその知恵が役に立つのです。
役に立ったかどうかは、あくまで事後的に知ることができるものだと思います。

今回は私なりに本を読むことについて少々考えてみました。参考になれば幸いです。

あと、具体的にどんな本を読んだらいいのかについては書きませんでした。それはまたの機会に書けたらと思います。

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