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69.「小山田圭吾が叩かれて坂上忍がテレビに出られるのはなぜですか」

こんばんは、くろぎです。

異常な眠気にも負けずに更新しようと思います。

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最初に断っておくんですが、私は良くも悪くもSNS上で炎上しているニュースを見ても「皆よくそんな怒るエネルギーがあるな~」程度の所感はあれど、その問題そのものに強い関心を寄せることがほぼありません。

なので、小山田圭吾に関してもこの記事を通して擁護するつもりも批判するつもりもないです。

どちらかというと炎上・不祥事に対する世間の反応の方に関心があるので更新してみます。

不祥事・過ちを犯した人物を排除する「キャンセルカルチャー」のヒートアップ

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なんで小山田圭吾が炎上してしまったのか、に関する私の見解はすでに東洋経済オンラインで公開されている「キャンセルカルチャー」に由来するという主張に概ね同意しているので、ほぼ同じ内容を書くことになりそう。

私自身、「キャンセルカルチャー」という言葉はつい最近知ったのですが、SNSの炎上に加担する一般ユーザーってこういうのが気に食わないんだろうな……とか、こういう心理でやってるんやろうな……っていうのは漠然と感じていたので、そういう概念がすでに確立されていることに軽く感動した。

引用元記事を読むのがめんどくさい人向けにまとめると、

・功績に関わらず、過去の言動を糾弾しその対象を排除しようとする「キャンセルカルチャー」の台頭
・SNSの普及により一般人も「排除活動」に参加しやすくなった
・怒りやストレスの沸点が低いと排除活動も活発になる傾向がある
・権力者、著名人が標的とされやすい

というものです。日々SNSを見ていると正当な批判だけでなく「憂さ晴らしがしたくて叩いてるだけじゃないか」と感じるような人も散見されますが、そのような動きも含めてキャンセルカルチャーの広がりを促進しているように感じますね。

批判を生む「5つの条件」の合致数によって炎上度合いは変わり、復帰可能性も左右する

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お題でも坂上忍が例となっているように、小山田圭吾に限らず過去に問題行動や不祥事を起こしたり前科を持つ著名人は少なくありません。

不祥事を起こしても表舞台に復帰できる人と、そのまま姿を消してしまう人の違いはキャンセルカルチャーの対象を決定づける「5つの条件」で説明できるでしょう。

引用元記事の内容を踏まえてまとめると、以下のようになります。

【1】事案の種類……差別・弱者にまつわる問題は批判を集めやすい。小山田圭吾の件は「障害者へのいじめ」という弱者差別の点で問題視された。

【2】悪質性の程度……「①人的被害がある」「②複数回」「③長期的」「④故意」であると批判されやすい。小山田圭吾の「いじめ」は全て当てはまるうえに、武勇伝のように本人が雑誌という公の場で語ったことで反省の色がないと判断され、拍車をかけたか。

【3】責任の程度……世界的な祭典の原理であるオリンピック憲章に反した過失を犯しているため、開閉会式の音楽制作という大役に携わるべきでないという反感を買った。

【4】謝罪のタイミング……炎上してから謝罪。過去にも何度か同じ件で炎上していたものの、公に謝罪したのは今回が初という対応の遅さがより批判に繋がった。

【5】組織的な関与……組織委員会の人選における責任感の無さや見通しの甘さといったリスク管理の欠如も問題に。

小山田圭吾の事案は「5つの条件」を見事(?)に全て満たしてしまったために「擁護の余地なし!徹底排除!」という世論のスイッチが入ってしまい、大炎上に至ったと考えられます。

結果的には開閉会式の音楽制作を辞任するだけにとどまらず、ラジオ番組の降板やメンバーとして参加しているバンド・METAFIVEの新アルバムの発売中止が決定するという影響が出ています。

今後彼が表舞台に復帰できるかどうかは断言できないですが、これだけ炎上して「排除」された人物がもう一度表舞台に出ようものなら再び「排除活動」が始まるのは想像に容易いでしょう。

今回炎上した事実自体も時が経ったら風化するのではなく「過去の不祥事」として記憶され、それが表舞台復帰した際の「排除活動」の根拠となってしまう蟻地獄感……。ネット社会の恐ろしさが凝縮されてる。

そのあたりも鑑みると、こうなってしまった以上「小山田圭吾」として仕事を続けるのではなく、ひっそりと裏方のような立ち位置から、純粋な能力のみで評価してくれるような音楽活動を続けるのが一番無難だろうなぁ……とは思いますが、そんなことは可能なんでしょうか……。

ここでお題に対して回答すると、坂上忍をはじめとする不祥事を起こした他の芸能人で、再びテレビに姿を見せることが出来ている人は「5つの条件」の一部は当てはまりつつも、総合的には「情状酌量の余地あり」と世論が判断したために排除には至らなかったと解釈できます。

擁護の声とその弱点①過去の過ちに改心の余地は見出せるか

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炎上する中でも、小山田圭吾を擁護する声も一定数見られました。その多くが

・いじめは何十年も前の出来事で時効(過去の過ち一つを取って現在のあらゆることを批判したらキリがない)
・「音楽家としての実績(=能力)」が評価されてアサインされているのだから、「過去のいじめ(=人格)」で批判するのはお門違いだ

の2点だったと思います。

前者の意見の弱点として、キャンセルカルチャーではいつの過失なのかは論点として考慮していません。過失に対し、本人が反省した事実があるのかないのかが一つの要素として重視されているため、その声で排除活動を思いとどまらせることは難しかったでしょう。

いつの過失だったのか、をポイントに擁護する人はおそらく

「時間の経過とともに人は変わっていくのだから当時の罪で今の彼を糾弾するのはナンセンス」
「完全に清廉潔白な人物なんていないのだから、どんなに活躍している人でも過去に1つや2つ誤りもある」
「若いころは誰しも過ちを犯してしまう」
過去の過失ならば改心の余地がある・当時のような過ちはもう犯さない

という考えが根本にあるが故の擁護だと思うんです。

これ、難しいのが私たちのような一般人であれば
・過去のことを恥じて今は改心した
・同じような過ちをもう犯していない
という変化が起きていたとしても、そのことを本人がわざわざ第三者に向けて宣言する機会はめったにありません。むしろ、心の底から反省した人は過ちを犯した事実を静かに背負い、これからの行動を改めることを通して周囲に改心したことを証明しようとするでしょう。
そのことを自分事として理解できるため、例えば学生時代にやんちゃしていた同級生と成人してから再会した時も「今の相手の振る舞いから相手を評価しよう」という発想になりますし、改心の余地があること前提で接することができます。

しかし、世間に対して影響力を持ち、発信の場が多い芸能人を標的としたキャンセルカルチャーにおいては明白な「反省・改心の証明」がないこと自体が批判の対象となるため、圧倒的に不利な状況に追いやられることを意味しています。事実、

・いじめていた過去を反省ではなく武勇伝のように振り返り、公の場で堂々と発言した(インタビュー記事)
・過去に何度かそのことで炎上したときに謝罪するタイミングはあったはずなのにそれをしなかった
→今も反省していないのと同じ

と解釈されたことが炎上の一端を担っています。

良くも悪くも芸能人は「謝罪会見」のように、反省を世間に対して表明する場を持つことができます。そのため、一般人以上に「過失を是正する姿勢」を提示することが影響力を持つが故の「責任感」と結び付けて考えられやすく、反省・改心の証明はそれを端的に裏付けることができるものとして捉えられているのでしょう。

仮に小山田氏がいじめていた時やインタビューに答えた当時からモノの考え方や諸々が変わり、当時のことを内心で反省していたとします。しかし、好感度やイメージによって仕事が左右されるような表舞台で仕事をしている以上は明るみになっている過失をそのまま自己完結で放置するのではなく、今回のような炎上を最小限に抑えるというリスク管理の意味で過去の炎上のタイミングで謝罪していれば違う結末になっていたと思います。後の祭りですが……。

ちなみに、私のように「いじめていた過去について、被害者ではなくいわば無関係である世間に対しても謝罪を要求する意味は何?」という考えを持つ人もいる気がしている(不倫とかそのあたりのスキャンダルもしかり)。

これは色々それっぽい理由付けは出来ると思うんですが、究極的な話「不快になった・気に食わないので謝れ」というやや当たり屋的なマインドでしかない気がする。どうなんだろう、世間に問題提起するような側面も持つ炎上について無関心な姿勢を貫くのもそれはそれで害悪なケースもあると思うが。

個人の感覚ですが、「開閉会式の担当を辞任してください」の要求ならまだ、まだ幾分か分かるんですが、「過去のいじめについて説明と謝罪をお願いします」って急に騒ぎ立てる一般人の気持ちは本当にわからん。正義面してストレス解消のはけ口を探し回って気持ち良くなるような人にはなりたくねぇ~~。

擁護の声とその弱点②功績があれば過失を不問に出来るのか

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もう一つの擁護の主張である

「音楽家としての実績(=能力)」が評価されてアサインされているのだから、「過去のいじめ(=人格)」で批判するのはお門違いだ

について、これについてはちょっと考えるきっかけになりました。

もとよりアーティストの作品を解釈する時に作者の人格と切り離すのか、同一視するのかという議論は存在するんですが、今回のケースではマクロな視点から考える必要があると感じています。

つまり、功績があれば過失が許されるわけではないが、過失があれば功績を全否定して良いわけでもないと私は考えています。

そもそもですが、

・開閉会式のアサインで最重視すべき「祭典の精神の体現」に不適格であると過失の事実(謝罪なし)によって世間から判断されたことが炎上の理由であり、功績の側面のみで擁護することは苦しい
→功績と人格の両方が求められる役割であったため、批判は避けられない

という点に加え、

・仮に功績重視だったとしても、「音楽活動の功績」を理由に「過去のいじめ」を不問にすることがあってはならない(功績・能力があれば犯罪に手を染めても良いのか?本題とズレるがいわゆる『上級国民』にもある程度通ずる話にもなる)
功績があることと、過失の事実は分けて考える必要がある。当該事案は先述の通り開閉会式の担当者である以上は人格・素行部分も評価対象となるため、「いじめてた事実について謝罪した形跡もないけど、過去のことだし何より実績があるから」で片づけることは感情優位になりがちな大衆心理と対峙する上では悪手

そのため、擁護派の声は世間の批判に対して十分な反論となっていません。

ただし、今後の小山田氏の動きで擁護出来るとすれば「過失があれば功績を全否定して良いわけでもない」という観点からになると思います。

キャンセルカルチャーで懸念されるネットリンチの増加

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小山田氏の今後を見据えた時、そして同様の炎上案件を目にする時に感じることは

・発覚した「過去のいじめ」を理由に、不当に「音楽活動の功績」および「音楽活動そのもの」が否定されてはいけない
功績があることと、過失の事実は分けて考える必要がある。作品と作者を密接に繋げる人からの評価が下がることは致し方ない部分もあるが、今後の活動に支障が出るほどの批判を継続することは「私刑」といっても差し支えない。

この一点に尽きます。

犯罪者ですら更生を前提に刑期を過ごし、社会復帰するような仕組みが取られていますが、果たしてその余地が昨今のネット炎上にはあるだろうか?と思う場面があまりにも多い気がしている。

というか、そういう空気感を醸成したらますます自分も生きにくくなってストレスと怒りに満ち溢れた哀しきヒューマンの沼から抜け出せないと思うんですが、どうなんでしょうか。

心の余裕がない人はSNSをやめて美味しいものを食べたり猫や犬やうさぎを愛でたりするほうがよっぽどすこやかになれると思うんですが、炎上のタネを見つけては罵詈雑言を投稿する人が多いところに闇を感じる。集団かつ匿名で特定の対象を攻撃することに正義(笑)を見出して快感を覚えてはいけないということを将来の娘と息子に強く言い聞かせたい所存。

普段の人間関係はもちろん、ネット上のヒューマンは特に「自分の意見が絶対正しい!自分が気に食わないものは全部叩く!」ってスタンスでコミュニケーションを取る人が減れば世の中はもっと平和になると思います。

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