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体の記憶、あるいは技の再現、そして小島信夫、さらに小説的思考

 先日、私が見に行ったダンス試演会の途中で興味深い場面があった。
 二人一組で15分程度踊っていたダンサーは突如とまって、それまでに行っていた体の動きを言葉にする。「肘を自分の内側に回して、ひねって、戻して、相手の呼吸に合わせて、左足を出して、相手と背中合わせで」と言った具合に、その口調はたどたどしい。
 私はその場面を見たときに、カメラで撮った映像のように外から見た体の動きを思い出して、言葉に置き換えてると思った。
 が、試演会のあとにダンサーに話を伺ったが、違っていた。
 自分の内側で、もう一度体を動かさずに再現をしていると言うのだ。
 外から見ているのではなく体の内側で記憶をしている。
   だから、たどたどしい言葉になるのだ。
 以前、NHKで放映していた古武道の達人が自らの技を解説する「明鏡止水」という番組があり、毎週欠かさず見るほど好きだった。
 そこでも達人たちは、信じられないような「神技」を演舞する。
   達人は口下手と思いきや、意外にも饒舌で、自らの技を言葉にするのがうまい、私のような素人にも理解ができるように関節や筋肉の動きについて語る。
 ダンサーの言葉はたどたどししいが、武道の達人の言葉は滑らかだ。
 どちらも凄いと思うのだが、先ほどのダンサーの言葉と武道の達人の言葉のあり方が少し違うのではないかと思う。
 ダンサーの言葉は今生まれたばかりの体の動きの言葉を伝える。
 達人の言葉は型として整理された体の動きを次の世代の言葉に繋げために言葉を使う。
 言葉の出所が違うのだ。
 武道の達人はダンサーのようにもう一度自分の動きを内側から反芻せずに、自分の動きを外から見ていると思う。そうしないと、自分の動きを客観視できず弟子に記憶を整理して伝えられない。さらに言えば、ダンスのように生まれたばかりの動きを何度も繰り返しているうちに、型が生まれ、相手に伝えられるように記憶が整理されるように感じる。
 ここで唐突であるが、二種類の言葉について整理をすると、小説家の小島信夫が晩年に書いた「うるわしき日々」という小説を思い出す。
 この小説は小島信夫を思わせる老小説家が息子のアルコール中毒に悩まされ、長年連れ添った妻にも認知症の気配が現れるという日々を書いたものだ。
 あらすじだけを書くと、老大家が書いた重厚な身辺雑記の小説のようだが、全然そんなことは無い。非常にみずみずしいというか、読んでいてハラハラさせられる。
 それは小島信夫の書き方がダンサーの言葉と同じで起きた出来事を内側から反芻して書いているからだ。
 つまり、武術の達人のように後から整理して書いていない。話の展開が飛び、読んでいてよくわからない、ところどころ文章がおかしなところもあるが、それを上回るようなスリルがある。ちょうどサッカー選手が自分の試合中にそのまま自分の動きを解説しているような印象を受ける。
 ただ、この小説を読んだ後に展開が思い出せない。達人の言葉のように内容を分からせることはできないし、あらすじを紹介しても、先ほど私が行ったように魅力は伝わらない。
 小説とは、未整理であっても読んでいる間に流れる時間の中にあらわれるものだというようなことを書いたのは保坂和志であるが、あの時試演会で自分の動きを行っていたダンサーは、自分の中で言葉を使わず体の動きを使って小説的な思考をしていたのでないか。
 むしろ、彼が自らの動きを語った言葉は副次的だ。彼の中で実感しかない、自分の中にしかないよるべない動きこそが小説的な思考である。小説的な思考としての動きと観客をつなげる言葉こそが、なにか(私はこのなにかというのはまだつかめていない)の始原ではないか。
 そして、それを人に広げるには、動きを外側から見る必要があり、そうしないと社会には通じないのだ。
 もう少しこの問題は考えたいがとりあえずここまで。

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