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「天然表現」を実践する

 世間では「人工知能」の議論が盛んであるが、「天然知能」という概念があることはご存知だろうか?
 生命基礎論研究者である郡司ペギオ幸夫は想定をしていなかった外部をから得たものを受け入れる想像的な知能を「天然知能」と呼ぶ。
 郡司さんは、この「天然知能」をベースとして「天然表現」という概念を生み出した。
 郡司さんは「天然表現」の方法を使って、インスタレーションの作品を制作し、二人展を開く。その経験をもとに書いたのが「創造性とはどこからやってくるか」(ちくま新書)だ。
 では、この「天然表現」とはどういうものなのだろうか?
 私の理解の範囲であるが、天然表現について説明をしてみる。
 天然表現を起こすにあたって、まず作者はある物事の二項対立をつくる。
 二項対立によりおこる否定的矛盾と肯定的矛盾は、作品のうちに並べて共存させる。すると外部から想定をしていなかったものが「やってきて」作品になるのだ。
 これだけだとよくわからないので、本書で挙げられている例を紹介したい。
 ロバート・スミッソンという現代アートの作家がいる。
 スミッソンの製作する作品はランドアートと呼ばれるもので、彼は自然をキャンパスにして、ブルドーザーで地面を掘り起こし、自然の一部を変える作品を制作した。
 代表作「スパイラル・ジェティ」は湖畔から湖の中心に向かって、うずまきのような堤防を作ったものだ。
 この作品が、天然表現的であるのは、作品の中に人工物と自然という二項対立が含まれている点だ。
 作品の内側には、人工物の中に自然を、自然の中に人工物を見出す肯定的矛盾がある。
 だが、スミッソンはその人工でも自然でもない作品を作ろうととする。そこに否定的矛盾が生まれる。
 そうすると作品に肯定的矛盾と否定的矛盾が両方発生する。この不完全なものに外部から「やってきて」作品化するのだ。
 うまく説明できなかったような気がする。
 詳細は「創造性とはどこからやってくるか」をお読みいただきたい。
 そもそも、生命基礎論研究者である郡司氏が現代アートに挑戦しようとしたものはなぜなのだろうか?
 本書にはこう書かれている。
 《私が製作を始めようと思ったのは、もちろん、個人としてやってみたい衝動があったからだ。しかし、天然表現が、技術や教育とは無関係に、自分の経験に即して実現できることを示したい、ということもあった》
 (「想像性とはどこからやってくるか」郡司ぺギオ幸夫著 256頁)
 この言葉に感銘を受けた。
 技術や教育とは無関係に作品を実現できるのだ。
 私なりに天然表現の考えを消化して、作ってみたのが以下の作品だ。

線路と草



 これは家の最寄駅のホームからスマホで撮った線路の写真である。
 線路の真ん中には雑草が生えている。
 この写真のどこに天然表現があるのか。
 天然表現の構造としては先に述べたロバート・スミッソンの作品と同じである。この写真は人工物(線路に敷かれた砂利)と自然(雑草)という二項対立が含んでいる。
 砂利は工事の際に敷き詰められた人工的な物でありながら、雑草が生えることによって自然になる。人工物である砂利の上に生えた雑草は自然でありながら、人工物によって生まれる。
 その肯定的矛盾の姿を写真にとることによって、そのどちらでもない否定的矛盾を生み出したい、というのが私の狙いだ。 
 果たして、作品になっているだろうか。
 率直に言ってこの写真を見て考え込んでしまった。
 自分で見ても写真として面白くない。
 たとえば、私がこの写真をネットで見て感銘を受けるかと言ったら受けないだろう。
 つまり、天然表現であっても、その構造を作ればすなわち何かが凄いものができると言うわけではないのではないと思う。
 天然表現であっても半分は自分が作らなくては作品にならない。その自分が作る部分には、個人の技術や思考が関わってくる。
 この部分をどう鍛えるかというところが大切なのではないかと思う。天然表現の考えをマスターすれば、誰でも作品は作れる。だが、ある水準に達するためには修練が必要なのだ。

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